4.怪物

23.家族


 頬に何かが当たる感触。暖かな感覚が頭を包み込んでいる。

 まるで揺り籠の中を思わせる抱擁感。

 久しく感じていなかった温もりに微睡のふちからゆっくりと意識を覚醒させる

 目を開けた先には、見覚えのある一人の少女がいた。


「シズク……」

 

 口から儚さを宿した響きが漏れ出す。

 記憶をなくし、助けを求めてきた少女につけた名前である。


「征志郎、起きた?」

「ん、ああ。もう朝か」


 なぜか互いの吐息すら感じさせるほど至近距離に少女の顔がある。

 これは一体、どういう状況なのだろう。

 首を動かし周囲を確認する。間違いなくここは俺の部屋で、身を横たえているのは自分のベッドである。

 にもかかわらず、掛け布団の中に潜り込んだシズクは、ツギハギだらけの両腕で俺の頭を抱え込んでいた。


「シズク、俺の記憶違いじゃなきゃ、お前には隣の空き部屋をやったはずだよな。なんでここにいる?」

「えっとね、そろそろ朝食が出来そうだから起こしに来たの」


 なるほど、確かに時計を見るにもう朝だ。

 別段急ぎの用事はないが、普段起きる時間から考えれば少し遅めなぐらいである。


「そうか、起こしにきてくれて、ありがとな。それと、すまん。俺の聞き方が悪かった。俺が言っているのは、なぜベッドの中に潜り込んで俺の頭を抱きかかえているのかって事だ。もっと言えば、もう起きたから離れてくれ。起きられない」


 離れるように促すも、シズクは聞いているのかいないのか、よしよしと俺の頭を撫でつけてくる。

 正直、意味がわからない。

 何をしているんだと問いかけると、シズクは穏やかに言った。


「征志郎、泣いてたから。起こしに来たら、寝ているはずなのに、悲しそうに辛そうに」

「俺が?」


 思いも寄らぬ指摘に困惑する。

 指先で目元に触れると、そこにはシズクが言ったように涙の痕らしき感触が残っていた。


「はは……らしくねえな。お前にこんなとこ見られるなんて」

「征志郎、何か悲しい夢をみてたの?」

「どうだろうな。悲しいというよりも……」


 胸の奥に拡がる真っ黒な空洞に、微かな郷愁を含んだ残響が漂っている感覚。

 先の見えぬ暗闇で次第に伽藍洞になっていく……そんな形のない『恐怖』だったのかもしれない。

 らしくない考えに苦笑する。

 俺は脳裏に浮かんだ情景をすぐさま掻き消した。


「ま、そういう日もある。お前が気にすることじゃないさ」

「…………」


 そうは言っても泣き顔を見られた俺は、少しばかり気まずさを感じてしまう。

 そんな俺とは裏腹にシズクは何故か改まった態度で声を掛けてきた。


「……私ね、実は征志郎に言ってなかったことがあるの」

「何だ? 藪から棒に」

「私ね、この前征志郎とエンジェルさんが話してたの、所々聞いてたんだ」

「……!」

「私の耳が良いって事、ちょっとだけ話したと思う。意識を集中させると、遠くの話し声でもそこだけ良く聞こえるようになるの」


 事も無げにそう告げる少女。

 思いもよらぬ言葉に、俺は気を動転させてしまう。


「ってことは……お、お前……」

「うん。私のお父さんって言ってきた人が、征志郎に私を預けた話とか……あとお母さんが、もういないって事も……」


 いつしか頭を撫でる手の動きが止まっている。

 やはりショックだったのだろう。

 俺は言い訳がましくならぬよう注意しながら、慎重に口を開いた。

 

「……黙っていてすまない。いつかはちゃんと話すつもりだった」

「ううん、違うの。私ね、その話聞いてもそんな悲しくなかった。だって、もういないって言われても、最初からお父さんもお母さんも覚えてないんだもん」


 本心なのか虚勢なのかわからないが、シズクは明るい声で応えてくる。

 その態度がかえって俺に心に重く圧し掛かった。 


(悲しくないはずはないだろうに……)


 母親は既に亡き者の上に、言い方は悪いが父親から捨てられたのだ。

 これまで不安に苛まれながら、自分の身元を探してきた少女にとって、あまりにも無慈悲な現実だろう。

 どう慰めるべき、寝起きの頭を捻って思案する。

 しかし当のシズクは俺の思惑とは異なり、自身に突きつけられた試練と真っ直ぐに向き合う言葉を口にした。


「私ね、考えたの。多分本当に悲しかったのは、私の記憶を消したお父さんなんじゃないかって」


 訥々と心中を語り出すシズク。

 その淡々とした口調に、俺は静かに耳を傾けることにした。


「だって私は覚えてないけど、お父さんは私の事覚えてる。私が街中でお父さんを見かけても分からない、でも向こうだけ娘だって分かるの。それって、すごく寂しいと思う」

「…………」

「だから……いつかお父さんに会えたら、ちゃんとお礼を言いたい。私を産んでくれて、それと私のために記憶を消してくれて、ありがとうって! もちろんお母さんにも」


 出会った頃に比べれば大分話してくれるようになったが、それでも口ごもる事の多い少女が語る内心。

 それはいつも真っ直ぐだ。


「記憶を取り戻すのは怖いし、取り戻さない方がいいってお父さんが言ってたのなら、多分その方が私にとってもいいんだと……思う。でも、せめてお礼ぐらいは言いたい」 


 今のシズク、俺と一緒に暮らすことを自ら選んだ少女は、父親が望んだとおり「前向きに生きる」――そう言っているように思える。


(……っても、あの男の感謝ってのはちょっとポジティブすぎねえか?)


 この数日のうちにどんな心境の変化があったのか、俺には窺い知れない。

 だがエンジェルも言っていたように、考え方を変えることで悲しみを乗り越えられるのなら、そちらの方がいいのだろう。

 俺はこの少女の決意に力強く頷いた。


「ああ、任せろ。俺もあのおっさんには言いたい事や聞きたい事が色々あるからな。それはそれとして、そろそろ拘束を解いてくれないか」

「あっ……えっと、自分の事ばっか話して、ごめん、なさい。そうじゃなくて……その、話したかったのは、私なんかより辛い思い出とか記憶とかが沢山ある大人の人たちだと思うから……。だからね、征志郎も悲しい事とか嫌な事とか思い出したら、私がこうやって頭撫でたり、膝枕とか……」


 最近少しずつわかってきたが、この少女は控えめなようでいて、いまいち人の話を聞かない。

 しかし物事をプラスに考え始めたシズクに、元気づけられたのも確かである。

 首根っこを引っ掴んだ俺は、未だ頭に絡み付いている少女を無理やり引きはがした。


「ガキに朝から心配されるほど、弱っちゃいねえよ。それよりいい加減どけろ」

「ひぅ……ごめんなさい」

「気にし過ぎだ。お前はまず自分のこれからを考えろ。ただまあ、気持ちだけは受け取っておく。ありがとうな」


 やや気恥ずかしさを覚えながら感謝の言葉を告げる。

 するとベッドの上にちょこんと座っていた少女は、ぱっと表情を明るくした。


「うん! いっぱいいっぱい辛くなったら、いっぱいいっぱい頼ってね!」

「ねえとは思うが、一応考えとく」

「うん! 約束だよ!」


 耳元できゃいきゃい騒ぎ出したシズクをとりあえず部屋から追い出す。

 寝汗に濡れた下着を取り換えた俺は、所々ほつれている一張羅に袖を通した。

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