21.帰途

 目の前にゆったりと流れる川を眺めながら、これからの言葉を選んで話す。


「昨日の夜のあれ、な。やっぱり記憶の断片を思い出したんじゃねえかと思う。思い出したっていう言葉が適切かは分からないが、欠片を掴んだっていうか」

「うん……」


 シズクが胸の中で短く肯定する。

 震えを止めた少女から身を離した俺はゆっくりと告げた。


「これはシズク、お前自身の事だ。だから記憶を取り戻せとか取り戻すなとか、俺がどうこう言うことじゃない。記憶を取り戻したいなら、今まで通り協力する」

「…………」

「だがもし、病院に連れ戻されたくないために、本当は記憶を取り戻したくないのに依頼したんだったら、今なら引き返せる。依頼を取り消してもいい」


 我ながらおかしな提案をするものだと思う。

 探偵稼業でありながら、依頼主に依頼の取り消しを選択させるよう促すような発言をしているのだから。

 だが、それでも一度しっかりと確認しておきたかった。

 いわば道に迷った子供に対し、どこへ行きたいのか尋ね、その道筋を示す。

 それこそが一時的にとはいえ、保護者となった自分が果たす責任の一つだと俺は考えていた。


「私、私は……」


 ゆっくりと自分の考えを整理するように、言葉を紡ぐ。

 やがて少女は決意を固めたように口を開いた。


「私、私にとって一番大切な事は……征志郎と一緒に居る事! ごめん、なさい……。自分の身元調査を依頼したのは、その場限りの理由付け、です。本当は、やっぱり……記憶を取り戻すのが怖いです」

「なあ、どうしてそんなに俺にこだわるんだ?」

「説明できない。ごめんなさい。自分でも分からない。けど、記憶よりもっとずっと、深くて大切な所で征志郎と居たいって思う気持ちがあるのが分かるの」


 不安そうに様子を伺ってくるシズクに続きを促す。


「自分でも、おかしな事言ってるって分かってる。急に自分自身の事もよく分かってない子供が目の前に現れて、一緒に居たいなんて……迷惑に決まってる。でも、なんでだろう。私にはそれしかない気がするの」

「…………」


 まだ短い付き合いではあるが、俺にはその言葉が本心から発されているものだと分かる。

 普段はあまり饒舌ではないシズクが、自分の内面にあるものを確かめながら、ゆっくりと気持ちを吐露していく。


「わ、私ね、今度から洗い物だけじゃなくて、料理もするよ? 覚えるの得意だからテレビ見て料理覚えたの」

「…………」

「それに、探偵のお仕事だって手伝う! 私の生活費とか、お金で負担掛けちゃうなら私の片腕だけじゃなくて、両手でも両足でも……」

「分かった分かった! それ以上は言わんでいい! ったく、ガキが金の心配ばかりするなっての」


 もはや健気を通り越して、恐ろしい提案をしてくる。

 あの父親を名乗った男も一方的に身勝手な願いを口にしてきたものだが、シズクも大概である。

 その意味では似たもの親子と言えるのかもしれない。

 あの男はまだ父親である確たる証拠も無かったため俺の中では『自称父親』だったが、この似通った点からかんがみて『暫定父親』に格上げしよう。

 

「分かった。身元調査や記憶喪失の件の依頼だが、あれはキャンセル扱いにする」

「う、うん……。ごめんなさい。で、でもそれじゃ……」


 シズクが心配していることはわかる。

 だが、そもそも自分にはこいつを養育する義務は何もない。

 本来ならば、あの暫定父親から渡された金だけ渡して、どこかの施設にでも預けるのが得策なのだから。


「シズクが俺の傍に居たいかなど、俺の知った事じゃない。別に家族でもない奴を養ってやる義理もないからな」

「う……ぁ」

「だが、どこかの施設にぶち込もうにも、身元不詳で戸籍にも載っていないような子供は、中々受け入れ手が現れねえ。お前ぐらいの年齢の奴が行くような学校にも行けねえ。全く困ったもんだ」

「……え?」


 わざとらしく溜め息をつく。この俺の態度にシズクは困惑していることだろう。

 そう、今言ったのはあくまで方便――その場の思いつきで依頼してきたシズクに対する、ちょっとした当てつけであった。


「よって、禊探偵事務所は依頼のキャンセルと同時に、クライアントに対し新たな戸籍の取得という新規依頼を提案する」

「……! え、えっと……」


 事態を飲み込めていないシズクに、出来るだけ噛み砕いて説明する。


「未成年後見人、っても分からねえな。シズクの仮の親になってやるって言ってるんだ」

「征志郎が……パパ? これからも一緒に居ていいの?」

「言っとくが仮だからな。いつまでかは分からん。それに……俺もまだこんな大きな子供を持つ歳じゃねえからな」


 成り行きとはいえ、自分が子供の保護者になる。

 それを自覚した瞬間、どこかむずむずした妙な気恥ずかしさを抱いてしまう。

 今の自分の顔は、おそらく人に見せられるものではないだろう。

 もしエンジェルや加治原あたりに見られたら、何を言われるかわかったものではない。


「まあ、こんな感じだ。それでもいいか?」

 

 照れ隠し半分に確認する。

 するとすぐにこちらの真意を理解したのだろう。

 シズクは今まで見せた中で一番眩しい笑顔を浮かべると、いきなり俺の膝の上に飛び乗ってきた。

  

「うん、うん! 一緒! パパと一緒!」

「お、おい! パパはやめろ! 色々と危ないっつーか、勘違いされかねない。呼び方は征志郎のままだ」

「うん、うん! えっと……、えっとね。征志郎、大好き!」


 よほど嬉しかったのかベンチに座る俺の胸に背中を預け、膝の上でぴょんぴょんと跳ね始める。

 いつも控えめで受動的なシズクらしからぬ動きについ面食らってしまう。


(……ったく、困ったもんだぜ)

 

 まずは戸籍取得からの未成年後見人手続き、それから通学手続きとやることは山積みである。

 戸籍取得など、もはや探偵業でも何でもない。公私混同以前の問題である。

 だがそれも悪くないと思えた。


(そういやこいつ、幾つなんだ? あの野郎、養育を任せんならせめて年齢ぐらいは言えっての)


 結局、あの男の望みに通りになってしまったことに若干の苦々しさを覚える。

 あれが本当に父親だったのか――そこは依頼とは別に、シズクの養育者となる俺自身が調べなければならないことだろう。

 

(だが、シズクにあの男のことを話すのはまだ先のことだ)


 これからの俺とシズクが見据えなければならないのは、失われた過去ではなくまだ訪れていない未来なのだ。

 シズクは俺の膝の上で何度も「大好き、大好き」と繰り返している。

 久しく忘れていた感覚。

 

「へいへい、そりゃ結構な事で。こうなると学校にも通わせなきゃいけねえな」

「学校? 学校、知ってる! みんなで集まって勉強する所!」 

「ああ、シズクなら勉強も運動も学年トップになれるかもな。友達も出来るだろう」


 そう言うと、シズクはそれまでの勢いから一転、表情を曇らせる。

 ショッピングモールで感じた奇異の視線を思い出したのだろう。


「エンジェルの身体見たろ? シズクぐらいツギハギだが、あれであいつは友人が多い。周りの連中はそんな事いちいち気にしねえよ」

「……そうかな?」


 あいつの場合、友人というより悪友と呼ぶような連中が多いが、それ自体は別に問題ではない。

 気を許せる相手を見つけること。それが大事なのだ。

 もしシズクにとって友人と言える人間が見つけられれば、これからの生活に新たな彩りが生まれるだろう。


「ま、誰もがツギハギを気にするわけじゃない。それに俺やエンジェルがついている。安心しろ」

「ん……頑張る」


 どうやら今の俺の言葉で、希望を持ったのだろう。

 シズクは元の調子に戻って、小さくガッツポーズを見せた。


「ほら、膝から降りろ。そろそろ帰るぞ」

「うん」

 

 懸念が解消されたせいか、少し前まであった重たい疲労がすっかり身体から消えている。

 俺は再び買い物袋の束を持ち上げようとしたところで、はたと気が付いた。


「おいシズク、お前、俺より力持ちなんじゃねえのか?」

「え、うん。……多分」

「ほら、お前も半分持て」

「うん!」


 思えば優れた技術で肉接ぎされたこの少女は、容易に事務所の三階まで登ってこれるぐらい身体が強化されている。

 荷物を受け取ったシズクはというと、やはりというべきか、一番重たい袋を軽々と持ち上げていた。

 

「いいか? この荷物もそうだが、今後はもっと自分の事は自分でやれよ?」

「うん! 分かった、征志郎」

「……本当に分かってんのか、こいつ……」


 満面の笑みを浮かべてこくこく頷く少女に少しばかり呆れてしまう。

 袋を持つ左腕には、俺が買ってやった花のコサージュ。

 美しい純白の花びらが冷たくなりはじめた風にそよいでいた。


「えへへ……」


 嬉しそうに身の丈に合わない荷物を抱える少女。

 新たな関係へと変わった俺たちは、どこか足取りを軽くしながら帰途についた。

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