20.記憶の残滓
「シズク、待たせたな」
「あ、お帰りなさい。エンジェルさん、用事があるから先に帰るって」
「ああ、そっちにもちゃんと顔を出してたか。あいつもあれで忙しい奴だからな」
二人分のパスタとオレンジジュース、コーヒーが載ったトレーをテーブルに置く。
俺は、行儀よく着席していたシズクと向かい合う形で椅子に腰を下ろした。
「うわぁ……おいしそう」
シズクのは『なんちゃらキノコの木こりの風パスタ』、俺のは『オリーブとアンチョビの漁師風』――名前はうろ覚えだが、要はクリームソースとトマトソースのパスタである。
食欲を刺激する芳醇な香りとほかほかと立ち昇る湯気を前にシズクが目を輝かせる。
それでもすぐに手を付けることなく、トレー脇に置いてあった滅菌おしぼりで手を拭くと、「いただきます」と、事務所で最初に教えた食前の挨拶をした。
アツアツのパスタをふぅふぅと冷ますシズクを見ながら、俺はそんなことを考えた。
「えっと、それからね……エンジェルさんが友達になってくれるって!」
「そうか、まあ……なんだ。友達は選べよ?」
「エンジェルさん、いい人だから大丈夫。さっきもね……」
話題の主のおすすめパスタに舌鼓を打ちながら、シズクは先程、二人で買い物していた時の事を嬉しそうに話し出す
勧めてくれた服を試着したら透け透けだったとか、この店の他にも美味しいお店知っているから、今度一緒に行こうと誘ってくれたとか。
シズクは至って明るい表情で、しきりにエンジェルとの話題を口にしている。
その笑顔は、最初に服飾店で見た同じ年頃の少女たちとなんら変わるところはない。
(……やっぱここに連れてきて正解だったな)
試着の件で一時はどうなることかと思ったが、同じ全身ツギハギのエンジェルとの出会いが良い刺激となったのだろう。
俺以外誰も話し相手がいない事務所では、起こりえなかった変化。
俺は心の中で少しだけエンジェルに感謝することにした。。
(だが……ここに来る前と比べて、俺の方はかなり状況が変わってしまった)
喫煙所で話しかけてきた父親を自称する男。
あの男はシズクの身元調査から手を引け、俺にシズクの保護者になってくれと願って姿をくらました。
そしてつい先ほど、エンジェルから聞いた組織同士のいざこざも気がかりである。
(……これからどうするか。本当にこのまま調査を続けていてもいいだろうか……)
目の前で幸せそうにパスタを頬張る記憶喪失の少女がいる。
シズクにとっては、一体何が幸福なのだろうか。
辛い記憶を取り戻す事や、自分やエンジェルのような世間一般から見たら真っ当な大人と言えない人間と一緒に居続けること。
それ故に、無関係の荒事に巻き込んでしまう危険性がある現状は、果たして正しい事なのか。
あの自称父親が言ったように、何も思い出さないまま、別の環境で新しい生活を始めた方が良いのではないか。
そもそも俺にとって、シズクはただの依頼人でしかない。
これまでの共同生活で多少情は沸いてはいるが、それは記憶喪失の捨て子への同情や大人としての責任が中心である。
(……だが、この娘を放り出すことが俺に出来るのか……?)
自分の内側にある何かわからない衝動が、この少女を手放すなと囁きかけてくる。
この感情をはっきりと言葉にすることはできない。
だが、どう理屈を並べ立てても、俺がこの少女に必要以上の肩入れをしているのは事実である。
それは認めなければならない。
「征志郎……どうしたの? やっぱり、毎日のお仕事で疲れてる、よね。その、私の依頼で」
心配そうに俺の顔を覗き込んでくるシズク。
どうやら俺は急激な状況の変化を前にして、迷っているのだろう。
俺は自分の中に鎮座する蟠りを押し殺した後、食事を止めていたシズクに告げた。
「ん、いや、依頼主がそんな事を気にするな。ただの考え事だ。それよりちょっと、後で聞きたい事がある」
こうして向かい合っている状況で、なぜ今ではないのか。
そんな疑問がシズクの顔に浮かんでいるのがわかる。
「さあ、食べたら出るぞ。思ったより長居しちまった」
「……うん。分かった」
俺の表情から何かを察したのか、シズクが不安そうな表情を覗かせる。
若干重苦しくなった空気の中で食事を終えた俺たちは、互いに無言のまま、空になった食器を返却口に運ぶ。
そろそろこの少女との関係性と、これからの方針をはっきりさせなければならない時期なのだろう。
荷物を持ち上げた俺は、来た時とはまるで姿恰好を変えた少女と共にショッピングモールを後にした。
* * *
普段なら大人の足で三十分と掛からない、商業区から探偵事務所への帰り道。
俺の両腕には商業施設で買ったシズクの服や、エンジェルが選んだ雑貨、それ以外に数多くの買い物袋の束がぶら下がっていた。
(こんなことなら車で来ればよかったな)
ジェニファーの散歩ついでの、ちょっとした買い物だからこその選択だったが、現実は非情である。
歩き慣れている道程がいつもの何十倍にも感じる。
とはいえ荷物の重さだけが理由でないことは、俺自身が一番よく分かっていた。
軽く息を乱しながら歩き続けると、やがて目の前に河川敷が拡がり出す
3B区と3C区の境界線の役割を果たす一級河川。
そこから少し離れた通り沿いに、ポツンと一つだけベンチが設置されているのがわかった。
「シズク、そこのベンチでちょっと休憩させてくれ」
地面に荷物を置いた俺は、どかりとベンチに座り込む。
「ふいー、一休み一休み。風が気持ちいいな」
「うん」
隣に腰を下ろしたシズクと共に一心地つく。
汗ばんだ額、昼下がりの涼やかな風が触れている。
今が一番、心地良い時間帯だろう。
涼気が肌寒さに取って代わられるのは、もう少し時間が経ってからである。
(……そういえばこの川だったか。シズクと最初に出会ったのは――)
微かなせせらぎの音が、心地良い振動を鼓膜に与えている。
穏やかな川面を見遣って幾分か疲労を薄れさせた俺は、隣でスカートから覗く足をプラプラさせている少女に問いかけた。
「なあ、この川の景色に見覚えはないか?」
「え……ううん、ない……と思う」
この川の上流域には商業施設や裕福な層の住宅街が広がっている。
そしてこの川を下ると、以前俺がエンジェルの依頼でジェニファーを追いかけていたあの川辺へと行きつく。
だからシズクがもし上流から流れてきたのなら、ある程度身分や居住地を絞り込むことも出来たのではないか。その線からの予測である。
(……いや、今はそんな仮定を考えている場合じゃねえ)
そう、俺が今から尋ねなければならないのはもっと根本的な事――今後、シズクの依頼そのものをどう扱うかである。
いつまでもこの話題を避け続けるわけにもいかない。
覚悟を決めた俺は、隣に座っている少女に問いかけた。
「なあ、シズク。お前、本当に自分の身元や失った記憶を知りたいか?」
「え……?」
本来ならば、クライアントにこんな質問をする必要などない。ただ粛々と調査を進め、結果を報告するだけだ。
だが俺自身、この件に関してはそれで良いのかと自問自答をするに至っている。
脅迫文や父親と名乗る男の出現が俺にこの質問をさせた事と一切関係ないと言えば嘘になるだろう。
だがそれら以上に、俺は先ほどの少女の笑顔を曇らせたくないと感じていた。
レストランでも自覚していたが、早い話、情が移ってしまっているのだ。
だからこそ、彼女自身の為だけではなく俺自身の為にも、彼女の本当の考えを聞いておきたかった。
「最初に俺に依頼した時も、病院に戻りたくない、ここに居たい。そう言ってたな」
「…………」
「身元調査の依頼をしたのだって、咄嗟についたここに居てもいい理由作りみたいなもんだろ?」
事務所で目を覚ました時から感じていた違和感を口にする。
するとシズクは驚きに目を見開いた後、今にも泣き出しそうな顔で俯いてしまう。
それでも俺の予想通り、小さく頭を振った。
「……うん」
「すまん。言い方が悪かった。別に責めているわけじゃないんだ。
ただ昨日の様子、あんなのを見ちまったら、こっちも記憶を取り戻さない方が良いんじゃないかって考えちまってな」
そう言った瞬間、さっとシズクの顔色が変化する。
真っ青な顔でぶるぶる震え出すシズク。
俺は昨晩の出来事を思い出していた。
* * *
「これ、何の機械?」
「これは忘れた記憶を取り戻せるかもしれない装置だ」
夜が深まった探偵事務所内。
シズクの依頼を受けるにあたって、俺は探偵としての情報収集と並行して少女自身の身体を調べていた。
これまで何度かシズクの身体、特に肉接ぎ部分を調べさせてもらっていたが、今夜から行うのは失った記憶を探る――脳の調査である。
シズクを椅子に座らせた後、頭にヘルメット状の器具を外れないように取り付ける。
仕組み自体は簡単なもので、脳に微弱な電気刺激を与えて記憶を司る部分を活性化させる――いわば、
「探偵って、こんな機械も持ってるんだ。すごいね」
「捕まえた悪い奴が何も自白しようとしない時、これで頭に電流を流して情報を吐かせる事もあるからな」
「え……、ぅ……ぁ」
目に見えて怯えだすシズク。
緊張を解かせようと冗談を言ったが、逆効果だったようだ。
失言に気が付いた俺は努めて穏やかに話しかける。
「冗談だ。怯えなくても、そんな大きな電流は流れないから楽にしているといい」
「う……うん。がんばる……」
顔を強張らせながらもこくりと頷く。
シズクの側面に移動した俺は、この無骨なヘルメットの横に取り付けられたスイッチに手を伸ばした。
「目を閉じて。それじゃ、電源を入れるぞ」
電源をオンにする。
起動した装置からは、目には見えない微弱な電流が流れ出していることだろう。
その電流はシズクの頭を覆う複数の電極から、僅かな刺激と共に脳へと伝わり始めたはずである。
「頭にむずがゆいような刺激があるだろうが、時期に慣れる」
「ん……分かった」
効果が発揮されるまで、少なくても数分はかかる。
しばし様子を見るも、なかなか変化は現れない。
もしかすると、緊張が装置の効力を阻害しているのかもしれない。
「身体の力を抜いて、一番古い記憶を思い出すんだ。何が思い出せる?」
なるべく驚かせないように小さく囁きかける。
すると一度大きく深呼吸したシズクは、やがて両目を閉ざしたままポツリと言葉を漏らした。
「えっと……、川原。水の音。征志郎がタバコを吸ってる……」
俺と初めて出会った時の記憶だろう。こちらの記憶とも齟齬はない。
だが思い出す必要があるのはさらにその前――川辺に流れつく前の失われている記憶である。
「じゃあそこからゆっくりと、階段を降りる様子をイメージしろ。ゆっくり、ゆっくりと――」
こちらも自分の声に合わせて、電流を調節する。
脳に送る電流の位置を若干ずらして、出力をやや高める。
ギターのチューニングをするように、装置のダイヤルをひとつずつゆっくりと調整していると、やがて小さな変化の兆しが見えた。
「……ぁ」
「何か見えたか?」
シズクの口から小さな声が漏れ出す。しかし――
「ぁ……ぁあ」
頭に装置を付けたシズクは、突然大きく目を見開くと総身をガクガクと震わせ始めた。
「お、おい!どうした!」
初めて見る反応に慌てて電源を落とす。
素早く器具を取り外した俺は、震え続けるシズクの肩を掴んだ。
「いや……ッいやぁぁああああ!!」
小さな体から発せられる、拒絶を意味する絶叫。
シズクは幼い子供の様にいやいやと頭を振り始める。
「いやぁッ! いやぁぁぁぁ!!」
色の異なる両目からポロポロと涙があふれだす。
シズクは何度も何度も拒絶を示す叫びを繰り返している。
俺は半狂乱に陥ったシズクの頭をすかさず抱きかかえた。
「大丈夫、大丈夫だから。な?」
何が見えたのか分からないが、この反応はよほどの事だ。
シズクは苦しげな息遣いで、俺の胸の中で泣きじゃくっている。
大丈夫だ、大丈夫だ。と何度も囁いて、優しく頭を撫でる。
しばらくそうしていると、悲鳴に似た泣き声が次第に小さな嗚咽へと変化していった。
「そろそろ落ち着いたか?」
「うん……、ごめん、なさい」
ゆっくりと呼吸を整えたシズクが、真っ赤に泣き腫らした顔でこちらを見上げてくる。
ハンカチを差し出すと、シズクは消え入りそうな声で受け取って自分の目元に押し当てた。
しばし事務所内に静寂の時が流れる。
そうして顔からハンカチが離された時には、シズクは幾分か普段の調子を取り戻しているように見えた。
「聞いても良いか? 何が、見えたのか。失った記憶は取り戻せそうか?」
「ごめんなさい……記憶とか、映像みたいなものは……何も。ただ無性に怖くて……悲しくて。頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されてるような、そんな……感覚」
シズクは申し訳なさそうにそう言うと、何か考え込むように俯いてしまう。
今はこれ以上、何の刺激も与えない方がいいだろう。
「そうか、謝らなくていい。こっちこそ無理にやらせてすまなかった。方法が合わなかったのかもしれない。少し期間を置いて、別の方法を試してみるとするか」
「うん……」
この僅か十数分程度の間で、すっかり疲弊してしまったシズクに「今夜はもう休め」と告げる。
素直に寝床へと向かう少女を見送った後、俺はテーブルに投げ出されていた装置を元あった場所へと戻しに行った。
* * *
これが昨日の夜に起きた全てであり、彼女の記憶を取り戻す事を俺に躊躇させる、また一つ大きな理由であった。
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