18.消された記憶

「はぁ~……長い、長すぎる」


 ショーウィンドウが並ぶショッピングモールの一角――喫煙所で紫煙を燻らせる男が一人。

 俺は何度目かも知れぬ深いため息を煙と共に吐き出した。

 あれからすっかり意気投合したシズクとエンジェルは、一時間をゆうに超えても店を梯子し続けている。

 足元には女物の衣服が詰まった買い物袋が幾つも置かれていた。


「なあ、ジェニファー。教えてくれよ。なんで女の買い物ってこんなにも長いんだ?」


 同じく退屈しているだろう連れに問いかける。

 しかし足元で丸くなっていたジェニファーは全く反応を返さなかった。


「ったく、こんなところでよく眠れるぜ」


 地面から顔を上げた俺は、大分数を減らしたパッケージからもう一本煙草を取り出す。

 すると、ちょうどマッチ箱を取り出したタイミングで喫煙所に入ってきた男に声を掛けられた


「すみません。火を貸してはくれませんか?」


 この喫煙所で他に煙草を吸っている人間はいない。

 俺は自分の煙草に火を点けた後、マッチ箱を男に手渡した。


「いやぁ、すみません。お借りします」


 低姿勢で受け取った男は、取り出したマッチ棒を慣れない手つきでやすりに擦り付けている。

 白髪交じりの頭髪から五十代前後だろう。

 少し草臥れたスーツを身に着けた男は俺と同様、女子供の多いこの区画では浮き気味である。

 何度目かのトライでようやく火を点けた男は、ほっとしたように自分の煙草に火を点けた。


「ふぅ~っ……けほけほッ!」

「大丈夫か?」


 急に咳込んだ男に声を掛ける。

 目尻に涙を浮かべた男は、慌てて煙草を口から煙草を離した。


「こほっ、こほっ!い、いやぁ……お気遣いすみません。久しぶりに吸うと身体が受け付けないものですね」


 男は苦笑しながら、空いた左手で胸元を撫でつけている。

 俺は職業柄、どんな人間にも一定の警戒を持って接するようにしている。

 しかし、何度も「すみません」と頭を下げるこの男には、こちらの警戒を解きほぐす妙な人懐っこさが感じられた。


「健康に良いという触れ込みなのに、咳が出るというのは考えものですね。本当に効果があるのでしょうか?」

「どうでしょうね。俺自身、健康になりたくて吸ってはいるわけじゃありませんが、嘘でも真でも信じれば気休めにはなるでしょう」


 独特の甘い香りを楽しみながら煙草を燻らせる。

 かつて有害物として在り続けた歴史が長かったせいか、今の煙草にも懐疑的な人間は少なからずいる。

 臨床研究で健康促進効果が証明されてはいるが、結局のところ信じるか信じないかは人それぞれなのである。

 俺の言葉を聞いた男はというと、どこか感心したように首を縦に振っていた。


「幸福とは巧みに騙されている状態が永遠に続いていることである、ということですかな」

「大げさですね。煙草なんてあくまで嗜好品ですよ」

「はは、違いない」


 男が再び煙草を咥える。

 しかし細く長い紫煙が口から吐き出されると、男は視線を遠くに向けたままぼそりと呟いた。


「――単調直入に申し上げましょう。私はあなたが連れている少女の父親です」

「……!?」

「急に現れた男がこんなことを言い出してすみません。あなたが驚くのも無理はありませんね」


 そう言って、申し訳なさそうにこちらに顔を向ける男。

 突然の発言に面食らった俺は、いつの間にか緩んでいた警戒心を瞬時に呼び起こした。


「……いえ。ですがそれは人違い、あるいは勘違いでしょう。私はあの子の叔父で、両親のこともよく知っています」


 この男の狙いが何かはわからないが、今朝事務所に送られてきた脅迫状の件もある。

 普通に考えれば、このタイミングで父親と名乗る男が接触してくるというのはキナ臭さを感じる。

 胡乱な視線を向けると、当の男はいたって真剣な顔つきで胸ポケットに手を入れた。


「やはり信用しては頂けないですよね。でしたらこちらをご覧ください。証拠になるかはわかりませんが、私と娘を写した写真です」


 そう言って差し出された写真に目線だけ落とす。

 そこに写っていたのは、一般的な病院の患者服を着たシズクとこの男が、おそらく病院と思われる白い建物を背景に並んで立っている姿であった。


「あの子には類まれな頭脳と身体機能が備わっているはずです。そして記憶喪失も……」

「……!」


 続けられた言葉に衝撃を覚える。

 おそらくこの男の言う類まれな頭脳とは、シズクが俺の持っているマッチ箱から事務所の住所を瞬間記憶してみせたことを指しているのだろう。

 身体機能というのも、事務所の三階まで何も道具も使わず上がってことや、ブローカー確保の際に見せたあの人間離れした運動能力に違いない。

 さらには記憶喪失であるという情報――となるとこれ以上、しらばっくれるわけにもいかない。


「……なるほど。あなたが本当に父親であるかどうかは別にして、関係者であることは認めざるを得ないようですね」

「ええ、今はそれで充分です。安心しました」


 言葉通りに安堵の表情を浮かべる男。

 だが、この男が何故俺に接触してきたのか。その疑問を解消する必要がある。


「先に聞いておきましょう。あなたは私の素性を知ったうえで接触してきたのですか?」

「はい。失礼ながらこの地区で探偵業を営んでいることは調べさせていただきました。すみません」


 つまりこの男は、シズクが俺の事務所にいることを知った上で接触してきたことになる。

 父親かどうかは別にしても、こうした姿を見せた以上何か目的があるはず。

 俺はこのシズクの父親を名乗る男から情報を引き出すべく口を開いた。


「そうでしたか。私は今、あの少女の身元調査をしています。情報提供にご協力いただけますか?」

「……娘を連れて帰れとは言わないのですね」

「ええ。私の仕事はあくまで身元調査です。調査が終わった後、どうするかは当事者同士が決めることですから」


 はっきりとそう口にすると、男はなぜか申し訳なさそうに俺を見返してきた。


「すみません。私が今日あなたにお会いして伝えたかったのは、これ以上あの娘の調査をしないで頂きたい、あの娘の記憶を思い出させないで欲しい、そういう話なのです」

「……なぜです? あなたが本当にあの少女の父親ならば、あの子の名前、住んでいる場所、家族構成は当然知っているはずだ。何か言えない理由があるのですか?」

「はい。娘の記憶を封じ込めたのは私だからです」


 予想外の返答に思わず戸惑ってしまう。

 人間の記憶の一部を意図的に失わせることは技術的には可能だが、然るべき医療機関で執り行う必要があるのだ。

 俺は何か遠く過ぎ去ってしまったものを見詰める眼差しになった男に問いかけた。


「……一体、何を忘れさせたのですか?」

「あの子の母親は……もう亡くなっています。その母親の死は、娘にとって思い出さない方がいい記憶なのです。すみません。どうかご理解頂けないでしょうか?」


 そう言って男が深々と頭を下げる。

 今しがた口にされたのはシズクの身元に繋がる具体的な手がかりの一つ、母親の存在である。

 男の言をそのまま信じるのならば、母親は既に死亡しており、その死が原因でシズクの記憶を封じたらしい。

 だが、いくら母親が亡くなったからといって、記憶を消すのは少し話が飛躍していないだろうか?

 考えられるのは、その死がシズクの記憶に留めるのも憚られるほど悲惨なものであった可能性――

 あるいは別の理由があるのかもしれないが、問いかけても男は明確な理由を口にはしない。

 更には自分の名前や素性を明らかにしないまま、再度調査の差し止めを要求してくる。

 この態度に深い憤りを感じた俺は、頭を下げ続ける男に冷たく言い放った。


「……ずいぶんと身勝手なことを言う。納得できる理由もなしに調査を辞められるか」

「自分がどれだけ筋の通らないお願いをしているかは重々承知しています。もちろん自分が父親失格であることも」

「だったら仮に、だ。仮に俺が調査を辞めたら、あいつはどうなる? あんたは何を願っているんだ?」


 苦渋をにじませる男に問いかける。

 すると男は手にしていた写真を見詰めながら静かに答えた。


「私は娘の、ただ人としての安寧と幸福を願っているに過ぎません。だからこそ私はあの子の記憶を消し、新しい第二の人生への道を歩んで欲しいと願ったのです」

「そういう話じゃない。あんたは俺にどうしろと言っているんだ?」


 要領の得ない回答につい苛立つと、男は口癖なのかお決まりの謝罪を口にした。


「すみません。実は先ほど、あなたとあの娘のやり取りを陰から拝見しておりまして……」

「…………」

「その、盗み見る形になって重ねてすみません。ですが今日のあの娘は、私が今まで見たことのない笑顔を浮かべていました」


 男はまるで眩しいものを見たかのように目を細めた。


「あの子が他の人に懐くのはとても珍しいことなのです。だから願わくば……何でも屋であるあなたに、あの子の父親代わりに……。もちろん対価は用意してあります」


 男は仰天する俺に折りたたんだメモを素早く握らせてきた。


「私はこれで。どうか娘の記憶はそのままに……よろしくお願いします」


 深々と一礼した男が俺の前から立ち去ろうする。

 ハッと我に返った俺は慌てて叫び声をあげた。


「おい、待て! 俺は探偵であって何でも屋でも託児所でも……何を勝手なことを――」


 しかし突然、背後から肩から掴まれた俺は反射的に振り向いてしまった。


「なぁに、大声を出してるのよ。周りの人に迷惑よ?」

「征志郎、おまたせ。待たせちゃってごめんね」


 そこには買い物を終えたのだろうエンジェルとシズクの姿がある。


(しまった――!)


 嫌な予感を感じた俺は、慌てて視線を正面へと戻す。

 しかし先ほどまで会話していた男の姿は、まるで幻であったかのようにその場から掻き消えていた。


「くそっ!」


 走り出した俺の背に二人の驚く声が届く。

 手渡された紙を強く握りしめながら、周囲を見回す。

 しかし人ゴミに紛れてしまったのか、先ほどの男の姿は見つからない。


(何やってんだ俺は!こんな初歩的なミス、加治原だってやらねえぞ!)


 自身の不甲斐なさに心の中で地団太を踏む。

 呆然と人通りの多いモールの往来で立ち往生していると、エンジェルとシズクが小走りで近寄ってきた。


「どうしたの、征志郎?」

「あなた、誰かと話してたの?」


 揃って怪訝そうに問いかけてくるあたり、この二人はあの男の姿を見ていないようである。

 ちょうど俺の背中に隠れてしまっていたのだろう。


(ちっ、見失っちまったもんは仕方がねえか……)


 すぐに冷静さを取り戻した俺は、ひとまず先ほどの件を横に置いておくことにした。


「いや、何でもない。それより飯にしよう。待ちくたびれて腹が減っちまった」


 とりあえず落ち着いた場所で情報を整理する必要がある。

 対するエンジェルとシズクは、示し合わせたように笑顔を作った。


「ね、ね、征志郎。さっきエンジェルさんからいいお店があるって聞いたの。そこにしよ?」

「ああ、行きたいところがあんならそこでいいぜ。案内してくれよ」

「うん!」


 頷いたシズクは周囲の視線を気にする素振りもなく、エンジェルと並んで通りを歩いていく。

 時折、ちゃんと俺がついてきているのか確認するように振り返る少女。

 目が合うと、シズクはにっこりと微笑んだ。


『今日のあの娘は、私が今まで見たことのない笑顔を浮かべていました――だから願わくば……』


 つい先ほどの会話を思い出してしまう。だが、それとこれとは話が別だ。


(……そういやあの男……どこか見覚えがあるような……)


 なんとなく引っかかるものを感じる。

 しかしいくら頭を捻っても、該当する記憶は見つからない。


「こら、何ぼーっとしてんのよ。置いていくわよ!」


 前方からエンジェルの叱咤が飛んでくる。

 思索を切り上げた俺は立ち止まっていた二人に追いつくべく、緩んでいた歩調を早めた。


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