16.薄氷の上の日常

 午前九時――シズクとジェニファーと共に事務所を出る。

 戸締りを確認してから、年季の入った鉄骨階段を下りた俺はいつも習慣で一階にある事務所の郵便受けを開いた。

 電子端末でのやり取りが一般化しているご時世ではあるが、紙面で依頼の手紙を送ってくる者も僅かだが存在する。

 普段はほとんど空の郵便受けを覗き込むと、そこには一通の封筒が入っていた。


「珍しいな。って、差出人は空欄か? 新しい宣伝広告の手法か、はたまたラブレターか」


 しょうもない事をぼやきながら封筒を開封する。

 中から出てきたのは四つに折りたたまれた、質の悪いくすんだ色の合成紙である。

 空になった封筒をコートに突っ込み、紙を開く。

 そこにはまったく予想していなかった文字が並んでいた。


『少女から手をヒけ さもナくば 命の保障ハしない』


「……こいつは」


 思わずまじまじと紙面を覗き込んでしまう。

 紙面に踊っている文字は、一文字ずつサイズや角度が異なっていて一定ではない。

 簡単に言えば、ドラマなどで良く見る新聞や雑誌の印字から切り抜いて作られた書面である。

 並べられている言葉の意味からしても、脅迫文に間違いないだろう。



 先に通りに出たシズクは無邪気にジェニファーとじゃれあっている。

 もしや今もこちらの様子を観察しているのではと考え、書面から顔を上げ、ぐるりと周囲を見回す。

 うちの事務所が入っているビルと似た様な古びた雑居ビル群が並び立つ、区画はずれの寂れた景色。

 通りを歩く人影はまばらで、ビルからも僅かな生活音が耳に届くばかりである。

 しばらく事務所周辺を探り始める。

 しかし当然というべきか、送り主はもとより、この脅迫文以外には何の手がかりも残されていなかった。


 それにしてもこの物騒な脅迫文を出した者は、何をもってこのような文面を送りつけたのだろうか。

 少なくともこの者はシズクに関する何かしらの情報を握っている可能性が高く、更にはこの事務所に仮住まいをしている事も知っている。

 その上で、その者はこれ以上俺が少女に関わる事を快く思っていない。


「……さて、どうしたものか」


 考えようによっては、ようやく手に入った少女を知る者へと繋がる手掛かりとも言える。

 悪い話というだけではない。

 一旦張っていた緊張を解いて軽く息をつく。

 すると俺の呟きが聞こえたのか、犬と遊んでいたシズクがこちらにやってきた。


「どうしたの征志郎。何かあった?」 

「いや……別に何もねえよ」


 一瞬、この脅迫文をシズクに見せようかと思ったがすぐにその考えを取り消す。

 徒に心配をさせることもないだろう。


「うん。ね、征志郎! 早くお買い物行こうよ!」


 そわそわと身体を揺らしながら、期待を込めた笑顔を向けてくるシズク。

 俺はポケットに脅迫文を仕舞いこんだ。


「待ちくだびれちまってたか。っと、わりぃ。ちょっと忘れ物を思い出した。もう少しだけ待ってろ」

「うん!」


 素直に頷く少女に踵を返し、再び三階の事務所の扉を開ける。

 そして鍵のついた机の引き出しから拳銃と弾薬を取り出し、手早く状態を確認してから懐に仕舞い込む。


(ま、手を引けって言われて引くようじゃプロとして失格だからな)


 俺は念のためもう一度戸締りの確認をした後、玄関を出た。


「征志郎! 征志郎! はやくはやく!」


 通りではシズクが興奮を抑えきれない様子でしきりに俺の名を呼んでいる。

 俺は見えない所で何かが動き出したような予兆を感じながら、ビルを後にした。


               *  *  *


 3B区の中心に位置する商業区は、近隣区域の中でも数少ない大型商業施設である。

 商業の盛んな3B区でテーマパークの趣きを見せるこの区画は、大きく分けて三つに分類できる。

 西地区は、主に日用品や食料品といった生活必需品を扱う店。家具や家電を扱う量販店がある北地区。

 そして東地区には衣料品や雑貨、アミューズメント施設が所狭しに並んでいる。


「征志郎、征志郎! すごくおっきいね!」

「ああ、中はもっと広いぞ」


 早くもはしゃぎ立てているシズクを横目に、商業区画の入り口にある案内ボードから店の配置データをダウンロードする。

 その中から女性向け服飾店を検索した俺は、新鮮な驚きを見せる少女と一匹と共にショッピングモール内を歩き、目的の区画へと向かった。


「わぁ……! ガラスの中にお洋服着てるお人形がいるよ!」

「あれはマネキンって言うんだ。この店で売ってる服を着せてるんだよ」


 一番近くにあるショーウィンドウにパタパタと駆け寄ったシズクが、噛り付くように服を見始める。

 データによると、この区画一帯を占めているのはすべて女性向けの服飾店や雑貨店らしい。

 様々な国や文化を見渡しても服飾の種類は圧倒的に女性用が多いものだが、実際にこの数を目にすると男の俺としては圧倒されてしまう。


(ま、あいつにはいい刺激になるだろうな)


 シズクは初めて見たのか、横長のショーウィンドウの前を忙しなく行き来しては覗き込む、を繰り返している。

 綺麗な服を前にうっとりと溜息をつく少女は、周辺を歩く若い女たちとさほど変わりはない。

 ここならば服以外にも靴や身の回りの雑貨など、シズクに必要なものは一通り揃うだろう。


(でもなぁ、こういう所に俺みたいなのがいると浮くんだよな……)


 ちらちらと向けられる若い女たちの視線。

 居心地の悪さを感じた俺は、ウィンドウ前で張り付いているシズクに声をかけた。


「おい、そろそろ店の中のもんも見てみろよ」

「えっと……入っていいの?」

「そりゃ見てるだけじゃ服は買えねえしな」


 そう促すも、シズクは何故か及び腰になって店の中に入ろうとしない。

 やがて助けを求めるように俺のコートの裾が掴まれた。


「緊張する必要はない。ほら、俺も一緒に入ってやるから」

「う、うん……」


 ごくりと喉を鳴らすシズク。

 どうやら初めて見る若者向けのポップな雰囲気に気後れしているようである。

 いや、気後れしているのは俺自身もそうなのだが、こんな所で二人とも二の足を踏んでいたら今日の目的は一切果たせない。

 シズクは意を決したように店へと足を踏み入れ、続いて俺とジェニファーも店内へと入る。


 華やかさよりも賑やかな色合いで構成された店内には、目が眩むような数の衣料品が所狭しに陳列されていた。


「わぁ……」


 圧倒されたように感嘆の息を吐くシズク。

 すぐに近くの売り場に駆け寄った少女は、キラキラと輝く目で服を見詰め始めている。

 入り口に貼られている「ペット進入禁止」のシールに目を留めた俺は、ごく自然についてきたジェニファーを表に引っ張り出した。


「はふ……はふ……」

「お前は外で待ってろ」


 覇気のない息遣いで、くしゃくしゃな顔を向けるジェニファー。

 そこに若干の悲しみの色を感じなくもない。

 思えばこいつともそこそこ長い付き合いである。たまにだがこいつが何を感じているのか理解できる時もある。

 といっても、エンジェルやシズクのように「可愛い」とは全く思わないが。


「どうだシズク。気に入った服はあったか?」


 ジェニファーを放置して店内に戻った俺は、先ほどとは別の売り場に立っているシズクに問いかける。

 しかし今のシズクの視線は服ではなく、周囲の同じ年頃の少女たちに向けられていた。


「大体、お前と同じぐらいのやつばっかだろ? だから遠慮しなくていいんだぜ」

「う、うん……」


 店の服を手にとっては、ケラケラと笑い声をあげる少女たち。

 よくあれだけ矢継に言葉を発して会話を続けられるものだなぁと、なんとなく感心してしまう。

 とはいえ、ああいった若い集団の歓談は長く聴いていると頭が痛くなる。

 俺は目の前の服に手を伸ばすシズクを見て、店員に一声掛けた。


「ほら、その服着てみな。あっちに試着室があるからよ」

「ほんとにこれ着てみていいの?」

「ああ、試着ってのは服が自分に合かどうか確認するためにするんだ。今着てるシャツみたいにサイズが合わなかったりしないようにな」


 そう言うと、シズクはほっとしたように服を胸元に抱えて頷いた。


「……ん、わかった。着てみる……っ」


 緊張と興奮を綯い交ぜにしたやや上擦った声をあげて、試着室に入っていくシズク。

 シャツとカーテンが閉じられると、すぐに布擦れの音が聞こえ出した。


(……こういう時間、ほんと苦手だ)


 女の着替えを待つ時間というのは何度経験しても慣れる気がしない。

 ふと気配を感じて振り返ると、先ほど声を掛けた店員がまるで不審人物を見るような目でこちらを見ていた。


「兄です」


 先んじて釘を刺す。

 すると店員は釈然としない様子ながらも会釈して、別の売り場へと去って行った。

 そうして着替えを待っている間、手持無沙汰になった俺は手近な売り場を覗き込む。

 花を模したコサージュにリボンを使ったブレスレット、細かな模様が刻まれたイヤリングなどの数多くの装飾品。

 そういった品が並ぶ棚を覗いていると、やがて試着室のカーテンが開いた。

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