13.雫

「……!?」


 次の瞬間、倉庫の屋根に立っていた少女が大きく孤を描き、夜闇にその身を躍らせる。

 今まで見たことがない美しい跳躍。

 その網膜に焼き付く姿に俺は、まるで月から零れ落ちる一粒の雫を連想した。


「なぁ!?」


 そしてこの跳躍の先――バイクを走らせるブローカーのハンドルに少女が器用に降り立つ。

 埒外の出来事にハンドルを取られるブローカー。大きくバランスを崩したバイクが火花を散らして横転する。

 そのままコンクリートの上を滑ったバイクは壁に叩きつけられ、爆発と共に炎上した。


「……!!」


 メラメラと燃え上がる炎。その赤をバックに再び跳躍した少女が綺麗に着地する。

 爆発を逃れた少女の片手にはスキンヘッドのブローカーが人形のように掴まれていた。


「――ハフハフハフ! ガフッ!」

「ひぎやあぁぁぁぁぁあ!」


 突然、闇の中から猛スピードで走りこんできたツギハギ犬が、呆然と座りこんでいたブローカーの左手に噛みつく。

 その叫びにハッと我に返った俺は、同じく硬直していた加治原に目配せしてから慌てて駆け寄る。

 すると俺たちの接近に気が付いた少女が、パッとブローカーの首筋から手を放した。


「……おい、なぜここが分かった?」


 やや語気を強めて問いかけると、少女がサッと気まずそうに視線を逸らす。

 その様子にピンと来た俺は、もじもじと胸の前で両手を合わせる少女に言った。


「マッチ箱の時と同じように、俺の端末を見て住所を記憶したのか?」

「う、うん……その、ね。征志郎。わたし、征志郎のお仕事が気になって、それで近くまでこの子と一緒にお散歩してて……そうしたら凄い音が聞こえてきて……」


 ちらちらと上目遣いで見上げてくる少女。その不安げでありながらも、こちらを気遣うような眼差しに俺は問いかけた。


「俺を心配してきてくれたのか?」

「ん……」


 こくりと頷く少女。恥ずかしそうに顔を赤らめる少女に、どう反応したものかと思い悩む。

 隣で会話を聞いていた加治原はというと、俺の耳元で心底仰天したように叫んだ。


「ちょ、せ、先輩! この子、ちょっと前に病院からいなくなった子じゃないですか!?」

「あー……悪ぃ。その件は後で全部説明するわ」


 今はまだやるべきことが残っている。

 カチリと頭を切り替えた俺は、未だジェニファーに噛みつかれたまま悲鳴を上げるブローカーの眼前に立った。


「おい、お前。こいつを知っているか?」


 俺は驚くべき運動能力で爆発からブローカーを救った件の少女を顎で指し示す。

 すると最初チンピラ相手に見せていた貫禄は欠片も感じられない様子で、スキンヘッドのブローカーが叫んだ。


「しっ……知らねえよ! こんな化け物! ヒィッ……!」


 少しでも距離を取ろうと、無様に地面を這いずるブローカー。

 少女の顔が曇るのを見て、俺は「なら用はねえな」と無防備な首筋にスタン警棒を打ち、だらりと力の抜けた身体を拘束した。


「おい、加治原。また逃げられたら面倒だ。さっさとほかの奴らも捕縛するぞ」

「は、はい!」


 少女にその場で待つように伝えた後、俺と加治原は倉庫の内外に転がっている連中の捕縛に取り掛かる。

 幸いなことにあの用心棒は気を失ったままで、他の者も抵抗しなかったため、仕事は手早く済んだ。

 そうして捕縛作業を終えた後、約束通り、加治原にあの少女の事情を説明する。

 電話があった夜、病院を抜け出して俺の所にやってきたこと。記憶がないため、身寄りなどの調査依頼を俺が引き受けたこと。

 依頼を果たすまで、自分があの少女の身柄を保護する。

 と、いった内容を大まかに説明すると、加治原は少しだけ非難するような視線を向けた後、「なんで先輩の所に来たんすかね」とこちらも分からない疑問を口にした。


「さあな。ま、とりあえずそういうことだからよろしく頼むわ」

「わかりました。探してるうちの連中にも、その子は見つかったって報告しておきますね」


 そうして話が済んだあと、倉庫の奥に閉じ込められていた子供たちの解放に取り掛かる。

 俺は情報通りの人数がいることを確認した後、加治原に後のことをすべて任せ、エンジェルに依頼完了の報告を入れる。

 滞りなく依頼を達成した旨とジェニファーがこちらに来ていることを伝えた俺は、倉庫の外で待っていた少女と共に帰路につくことにした。


               *  *  *


「ふぅ~……」


 静まり返った大通りを歩きながら、口から大きく紫煙を吐き出す。

 雲一つない夜空には、傾きかけた巨大な月と点在する星々が静かに瞬いていた。


「……わぁ……征志郎、キレイな空だね」


 隣にはうっとりした表情で空を見上げる少女の姿。

 俺は口を閉ざしたまま、しきりに同意を求めてくる少女の額を軽く指で小突いた。


「いたっ……?」

「俺はそいつと一緒に留守番してろって言ったよな?」


 すり寄るように少女の足元を歩くジェニファーにちらりと視線を向ける。

 俺の言いたいことに気が付いた少女はしゅんとなって俯いた。


「その……ごめんなさい……」

「今回は許す。だが今後俺に黙って勝手なことはするな。約束しろ」


 次やったら本気で怒るからな、と付け加えると少女は神妙に頷いた。


「……うん、約束する。その、征志郎……本当にごめんなさい」

「わかればいいんだ。実際、お前のおかげでちっとは助かったからよ。ありがとな」


 そう言うと少女はパッと嬉しそうな顔を見せるもすぐに表情を曇らせた。


「でも……征志郎からもらった服も汚しちゃった……うぅ……」


 ところどころ破れ、汚れが見えるシャツを見て悲しげに呻く少女。

 おそらくバイクが爆発した時のものだろう。


「さすがにそのままじゃまずいな。帰ったらまた新しいのを貸してやる。それぐらい別に気にすんな」


 この年頃の子供は、人から貰ったものを汚したりすると過剰に気に病むことが多い。

 努めて声色を和らげて言葉を重ねると、少女はようやく安堵したのかホッと小さく息を吐いた。


(……ま、そのうち買ってやるか)


 素直な反応を見せる少女にふとそんなことを思ってしまう。

 再び歩き出しながら、俺は少しずつ情が移ってきている自分を自覚する。

 だがそれと同時に、どこか形のない不安めいた感情が胸の奥で渦巻くのを感じた。


(……今のこいつとさっきブローカーを捕まえた時のこいつ。本当に同じ存在なのか?)


 意味のない問答なのはわかっている。

 だが、時折この少女が何か得体の知れない別の何かではないかと感じることがあるのだ。

 最初、事務所のベランダで能面のような無表情で佇んでいた時。

 そしてつい先程、屋上に立っていた時も。

 会話を交わしているときは年相応の少女にしか見えないのは確かだ。

 それでも暗闇の中で輝く色の違う両目と、月明かりに照らされた青白い肌と髪が目に焼き付いて離れない。

 そう、俺はあの時――この少女がまるで月からこぼれ落ちてきたような錯覚を――

 

「……雫」

「シズク……?」


 知らず口を突いて出た言葉に少女が聞き返してくる。


「いや、お前を見てなんとなく思っただけだ」


 何故そんな連想をしたのだろう。あの時の少女はもっとそら恐ろしい圧倒的な気配を纏っていたのに。


「しずく……シズク……」


 少女は今しがた俺が漏らした言葉を反芻するように何度も口にしている。

 その様子を訝しんでいると、やがて少女はまっすぐ俺の目を見詰めて言った。


「私の名前! シズクがいい!」

「……は?」


 一瞬、何を言いだしたのかと戸惑ってしまう。

 しかしすぐに数時間前、事務所の玄関で話したことを思い出して得心した。


(そうだった。こいつの名前を決めなきゃいけないんだった)


 確かにいつまでもこの少女を名無しにしておくわけにもいかない。

 だが俺は自分で口にしておきながら、なんとなく「シズク」という名は気が乗らなかった。

 なぜなら、語感的にも意味的にどこか物寂しさを帯びているからである。

 月の雫、泡沫の夢――まるでふと目を離した隙に飛沫をあげて消えてしまいそうな儚い響き。


「まあ、お前を見てそう思ったのは確かだが……」


 脳裏に浮かべた情景をそのままに口ごもる。

 しかし少女はすっかり気に入ったように、もう一度その名を口にした。


「シズク! すっごくキレイな名前だと思う! わたし、征志郎がシズクみたいって思ってくれてうれしい!」


 心の底からそう思っているように、少女は何度も「シズク、シズク」と繰り返している。

 そこまで大手を振るって賛成されると、俺としてはもう何も言えない。


(……ま、本当の名前が分かるまでの話だ)


 無邪気に喜び続けるシズクとそれに呼応してはしゃぐジェニファー。

 俺は一人と一匹と連れ立って歩きながら、ぼんやりと頭の中で明日からの行動計画を立てていた。

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