幕間
8.幸福の価値
駅前のベンチに座り、穏やかな街並みに溶け込む一人の女性。
小花柄のワンピースを着たその女性は、うららかな日差しを浴びながら本を読んでいる。
「何の本を読んでるんだ?」
女性に声を掛ける男が一人。
彼女は本の内容を追うのに夢中になって気がついてはいないようだったが、その男はだいぶ前から彼女の前に立っていた。
女性はその声の主に優しく微笑みかけ、本の表紙を目の前の男性に向けて少し傾ける。
分厚い本の表紙に光る英語の題字。
それを見て内容を判読しようとする気が削がれたのか、男はすぐ視線を本から外し女性に向けた。
「向こうの学術書か何かか? 俺には色々と理解できねえよ」
「ふふ。征志郎だって刑事さんでしょ? 医学書とか読まなかった?」
征志郎と呼ばれた男は学生時代の勉強を思い出したのか、苦々しい顔をしながら女性の隣のベンチに座る。
女性も本を閉じ、そんな征志郎をなぜか嬉しそうに微笑みながら眺めていた。
「俺のは法医学や心理学だ。それに警察学校で習うのも肉接ぎやの検死の類であって、
佳苗と呼ばれた女性は征志郎の言葉に何を返すでもなく、今度は空を仰いでいる。
「そういや今日も待たせちまったみたいだな」
「いいのよ。元々の待ち合わせ時間はまだのはずだし、気にしないで。私がただ、あなたを待っているこの時間が好きなだけ」
佳苗はこの言葉通り、待ち人を待つその時間を楽しめるタイプの人間だった。
征志郎との待ち合わせにもいつも三十分以上は前に来て、本を読んだり景色を眺めたりしながら時間を潰す。
その性格を知ってからは、征志郎も極力待ち合わせる場所は今日のように本を座って読めるようなベンチや喫茶店を指定することにしていた。
「そういうもんかね」
「そういうものよ」
ただの駅前のベンチ。
人通りも少なくはないロマンチックとは程遠い場所ではあったが、それでも互いにとって、お互いがそこに居るという事実だけが重要であり、全てであった。
「さて、そろそろ行くか。つーか、本当に今日は俺の家で良いのか?休日に会えるのも久しぶりだし、しかも今回のは佳苗のお祝いも兼ねてどこか美味い所にでもと思ってたんだが……」
征志郎が立ち上がりざま、今日のデートコースの再確認をする。
佳苗の学生時代に書いた研究論文が由緒ある学術雑誌に掲載されたとかで、征志郎も今日はその祝いの席を設けようと考えていたのだ。
詳しい事は征志郎にも良く分からなかったが、そっちの世界では若き俊英と称され研究職としての未来も明るいと言う。
もっとも誰かが本人にその話を聞いたとしても、彼女自身は指導してくれた教授や共同研究者の方々のお蔭と言って、そう気にした様子ではなかった。
「いいの。久しぶりだからこそ気取った所で食べるご飯じゃなく、あなたと二人きりで食べたいんだから。さ、まずは今日の食材を買いに行きましょ」
そう言って佳苗も立ち上がり、征志郎の腕に抱きついた。
先ほどまでのどこか穏やかで掴み所のない雰囲気を醸し出していた女性とは思えない急接近。
甘える時は全力で甘えてくる佳苗の調子に、征志郎はいつも乱されていた。
だが同時に二人でマーケットへ向けて歩く道程に、確かに幸福を感じてもいた。
「今日あなたの家に行くのは、食生活の抜き打ちチェックも兼ねてるのよ? 征志郎は放っておくとすぐに食事で手を抜くんだから」
「はは、お手柔らかに頼むよ」
いつも家に来るたび作り置きをしてくれる佳苗に感謝しつつ、征志郎はこの話は早々に切り上げようと考えた。
「あ、そういえばあれ読んだぞ」
「え、あれって?」
「佳苗のインタビュー記事。海外の雑誌取材受けたろ、向こうので全部英文だったが」
「あ、読んだんだ……。こっちじゃ売ってないのに、もしかして取り寄せたの?」
佳苗は少しげんなりとした表情を浮かべた。
「ああ。タイトルが確か『小さな大才』だったか」
「ひどくない? そりゃ向こうの人に比べれば背は低いかもしれないけど……」
征志郎は少しいたずらっぽい笑みを浮かべている。
佳苗の専門とする研究分野は国外の方が進んでおり、実際彼女の論文が載った学術雑誌やインタビュー記事も全て海外のものだった。
その結果、この国の女性の平均と比べても身長が低く美人と言うよりも愛らしい、率直に言えば童顔な彼女は、何かと紹介記事において『小さな』と枕詞が置かれる事が多かった。
「まあな。でも実際、同じ雑誌に載ってた佳苗の共同研究者とか大学教授なんかは五十代そこらだし、目立ってはいたぜ」
「だったら『若き研究者』でいいじゃない」
征志郎が、ふんすと怒る佳苗の頭に手のひらを乗せ頭を撫でる。
「なあ、佳苗。お前、本当は向こうで研究したいんじゃ……」
「ふふ、まだそんなこと言ってる。この国でも研究できる所はあるし、そんな事ないわ」
研究を行うにしても肩書きにしても、彼女にとっては専門かつ最先端の研究施設が整った他国で研究者になる方が有利である。
実際、佳苗にも各方面からそうしたお声掛けはあった。
だが彼女にとってはそれ以上に大切な事があった。
「それに、私がいなくなったら貴方生きていけるの?」
「はは、違いない」
征志郎にとって昔から何かと世話を焼きに来てくれる佳苗は恋人でありながら、それ以上の存在であるように感じられていた。
「ふふ、そこは『そのセリフ、そっくりそのままお返しする!』でしょう?」
そう言って、佳苗は改めて征志郎の腕に抱きつく。
征志郎にとっての彼女がそうであるように、彼女にとってもまた征志郎は掛け替えのない存在であった。
二人は包み込むような陽光と心地よい風を感じながら、いつもの帰路を行く。
この数年後。
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