2.再会

 事務所に戻ってきた頃には、辺りは完全に暗闇に包まれていた。

 長く手入れされていない錆だらけの鉄筋階段を登り、粗末な鉄扉を開ける。

 区画の外れに位置するビルの三階――そこが俺の探偵事務所であった。

 ちなみに元々誰も借りることのない廃ビル同然だったこともあり、格安で一階のガレージから自室として使っている二階まで、このビル全体を借りることが出来た。


「ただいまっと」


 室内灯を点けると、あまり整頓されていない雑然とした様相が視界に拡がる。

 俺は台所とは名ばかりの手狭なスペースからウィスキー瓶と水のペットボトルを持ち出し、あちこち革が剥げたソファに腰を沈めた。


「そういや、今晩は冷え込むって言ってたか」


 手早く水割りを作り、琥珀色の液体を喉に流し込む。

 冷え切った臓腑に微かな熱が灯るのを感じる。

 夜七時半――

 俺はゆっくりとグラスを傾けながら、ぼんやりと日中の出来事を思い返していた。



 夕方、河川敷で遭遇したツギハギの少女。

 息を吹き返した後、しばらく俺を見詰めていた少女はあれからすぐに意識を失った。

 周囲に人影は一つとして存在しない。見ず知らずといえ、死に掛けのガキをそのまま捨て置くのも目覚めが悪い。

 そう考えた俺は匿名で警察に連絡した後、すぐにその場を離れ、依頼主に犬を渡しにいったのである。

 今頃は病院に搬送されて治療を受けている頃合だろう。


(……ま、助かっても幸せかどうかは知らねえがな)


 身寄りのないストリートチルドレンが一人で生きていけるほど現実は甘くはない。

 もし助かったとしても、粗悪品の身体では長くは保たないだろう。


(……やめやめ。んなこと考えたって仕方ねえ)


 頭の片隅に残っていた同情心らしき引っ掛かりをアルコールで洗い流す。

 そうして軽く酔いながら週刊誌をぱら見していると、机に置いてあったPDAから着信音が鳴り響いた。


「ったく、こんな時間に誰だよ」


 悪態をつきつつ、ソファから身を起こす。液晶画面の表示を確認した後、通話ボタンを押した。


「お久しぶりです、みそぎ先輩。今、時間は大丈夫っすか?」

「ああ。珍しいじゃねえか加治原かじわら。元気にしてたか」

「お蔭さまで。先輩も変わりありませんか?」


 スピーカーから若い男の溌剌とした声が響く。

 この加治原という男は、俺がかつて勤めていた職場の仕事仲間である。


「まあな。つーか、いつまでも先輩なんて呼ぶんじゃねえよ。むず痒くなるだろ」

「そんなこと言わないでくださいよ~。警察を辞めても、禊先輩はずっと僕の憧れなんすから!」


 それから加治原はいかに俺の捜査官時代の手腕が優れたものだったかを、事例をあげて力説し始める。

 俺は半ば呆れながら、遮るように言葉を紡いだ。


「もうその辺にしとけ。そっちは変わりないか?」 

「ええ、人員も環境も先輩が居た頃とほとんど変わりないっす」

「相変わらずこき使われてるわけか。ご苦労なことで」


 苦笑いを聞きながら、ぬるくなったウィスキーを喉に流し込む。

 するとやや声のトーンを落とした加治原がどこか気遣うように言った。


「その、先輩……例の調査の方、何か進展ありましたか?」


 その声を聞いた途端、緩んでいた思考にビキリとヒビが入る。

 深く押し黙ると、こちらの変化を察した加治原が慌てた口調でまくしたてた。


「す、すみません! その、先輩。僕は……」 

「……いや、気にしなくていい。つーことは、そっちも手掛かりは掴めてないんだな?」 

「は、はい……手掛かりや情報と呼べるようなものは何も……」

「そうか。手間をかけてすまないな」

「そ、そんなことないです! 僕だってあの事件のことは――」

「……加治原、それ以上言うな」

「――――!」

「この話は終わりだ。いいな」


 冷たい血が全身を駆け巡るのを感じながら、低く重い口調で言い含める。

 申し訳なさそうに小さく返事をする加治原。俺は話題を変えることにした。


「そうだ。最近ここらで何か変わった事件とかないか?」 

「え? 変わった事件、ですか? ええと、そうですね……あっ、そういえば先輩! ちょっと聞きたいことがありまして」

「ん? なんだ藪から棒に」


 はっと何か思い出したかのように加治原が声をあげる。

 俺はすっかり酔いの醒めた身体に再びアルコールを流し込みながら問い返した。

 

「先輩、何時間か前にうちに電話してきましたよね? 行き倒れの女の子の件で」

「あん? なんでお前が知ってんだ?」


 僅かな驚きと共にグラスを置く。加治原はすみませんと前置きしてから言葉を続けた。


「匿名の通報が気になって記録を見てみたら、先輩の番号がありまして。実は今、うちの少年課の連中がその女の子を探しているんですよ」 

「ま、別に隠す気はなかったからいいけどな。つーかあのガキ、お前らに保護されたんじゃなかったのか?」

「ええ、一度は病院に搬送されたのですが、どうも看護師の目を盗んで逃げだしたみたいで」


 逃げ出したという事実に驚いたものの、あのボロボロの状態から助かったということ自体はそう悪いものではない。

 むしろ逃げ出す元気があるのだから、ある意味ストリートチルドレンらしい逞しさすら感じる。


「ははっ、少年課の奴らも大変だな。一度保護したガキに逃げられて、また行き倒れで死なれでもしたら……」

「はい、監督不行き届きになります」

「明日のワイドショーの見出しは『警察また不祥事 保護した少女を監督不行き届きで死なす』あたりで決まりか」

「『救えたはずの命、なぜ』ってシャレになってないっすよ! だから少年課も血眼になって探しています。先輩があの女の子を見つけた時、何か身元が分かるようなものはありませんでしたか?」

「ん~、特に何もなかったと思うぜ。どうせ孤児だろうしな」


 夕方、河川敷で見たツギハギだらけ身体をぼんやりと思い出す。

 忘れかけていたオッドアイの眼差しが再び脳裏に蘇った。


(それにしても、なんだって逃げ出したんだ?)


 僅かな疑問を抱きながら、ゆっくりとソファから立ち上がる。

 そして、開きっぱなしになっていたベランダのある北側の窓のカーテンに、右手を伸ばしかけた瞬間――俺は窓の外に奇妙なものを見た。


「――うん?」

「先輩? どうかしましたか?」


 ほのかな月光が降り注ぐベランダ。

 一人分のスペースしかない狭いベランダの地面には、何もないのは殺風景だからと友人がくれたオリーブの植木鉢が一つだけ置かれている。

 惰性で水をやっているだけにも関わらず、ぐんぐん丈を伸ばした植木――その正面にある安全柵の上に何か白い影が浮かび上がっていた。

 

「…………?」


 窓ガラスを隔てた目と鼻の先の距離にある異物。

 不審に思い、ゆっくりと視線を上げていくとそこには――真っ白な服を着た少女が、手すりの上に立っていた。


「――――!!?」


 頭が真っ白になる。

 煌々と輝く満月を背に、重力を感じさせない様子で素足のまま柵の上に直立する少女。

 まるで感情を感じさせぬ顔。

 まっすぐこちらに向けられている、印象的な青と金に輝く瞳。

 この深く底の知れない青色、背景の満月にも似た金色は見間違うはずもない、昼間に見たあの少女だった。


 再び目にするその眼差しに、ざらりと胸の内側を撫でられるような感覚を覚える。

 背筋を駆け上がる怖気。少女は身じろぎ一つせずじっとこちらを見つめていた。


 ――ドクン


 まるで宙に浮かぶように、月明りを一身に浴びる少女。

 不気味でありながらもどこか神聖さを感じさせる姿に、突如奇妙な衝動が沸き上がる。

 日中にも目にした接ぎ痕の目立つ顔を見つめ返す。


「…………」

「…………」


 再び視線が交錯する。

 そうして、互いに言葉を継がずただ見詰めあっていると――


「先輩! 禊先輩!」


 突然、耳元に響いた男の声にびくりと身体が震える。

 そこでハッと我に返った俺は、壊さんばかりに握りしめていた端末の手を緩めながら、視線をそのままに軽く咳払いをした。

 

「っと、わりぃわりぃ。うっかり机の角に足をぶつけちまったんだ」


 自分の口から漏れ出した嘘に驚く。

 軽く謝罪の声をあげると、電話先の加治原は安堵したように小さく息を吐いた。


「はぁ~、よかったぁ。いきなり返事がなくなって心配しましたよ。先輩でもそんなドジするんですね。意外です」 

「お前、俺のことをなんだと思ってんだ。つーか、思ったより酔いが回ってるみてぇだ。悪いがそろそろ切るぜ」 

「わかりました。身体に気を付けてください。ではまた」 


 加治原との通話を終えた俺は、一度軽く頭を振ってから再びベランダへと顔を向ける。

 そこには先ほどと寸分変わらぬ様子で、狭い手すりの上で立ち尽くす少女がいた。

 よく見ると少女がまとっている白い服は、病院の支給する患者服にも見える。

 やはり病院から逃げたという加治原の話と一致する事からも、昼間の少女で間違いないだろう。


「あー……その、なんだ……」


 少女が放つ無言の圧力に思わず言葉が詰まる。

 何にせよ、このまま放置しておくわけにもいかない。

 やや警戒心を抱きながら、窓を開けると少し冷たい夜風がざぁと室内に流れ込んできた。


「……とりあえず、中に入るか?」


 困惑を残しながらも、立ち尽くしている少女に手を伸ばす。

 こちらの動きに連動して、少女の視線が俺の手に向く。

 しかし突然ふっと全身から力が抜けたように、前のめりに傾き始めたのを見て、俺は素早くベランダに飛び出た。


「お、おい!」


 倒れ込んだ少女を慌てて抱き留める。

 顔を覗き込むと、目を閉じた少女はこれまでとは打って変わった安らかな表情で、規則正しい寝息を立てていた。

 そこについ先ほど感じた奇妙な気配は欠片もない。

 年相応の子供の寝顔を前に立ち尽くしてしまった俺は、軽く頭を掻きながら呟いた。

 

「……ったく、一体なんなんだよこいつは」


 加治原が言っていたように、この少女は病院から抜け出してきたのだろう。

 しかし何故、俺のところにやって来たのか。

 どうやって三階のベランダまで登って来たのか。そもそもこの少女は誰なのか。

 疑問をあげればきりはない。とはいえ、今考えても解決できる問題でもないだろう。


 俺は胸の中ですぅすぅと寝息を立てる少女を抱き上げ、ソファの上に寝かせる。

 そして放ってあった毛布を適当に被せた後、開きっぱなしの窓からベランダに出て煙草に火をつけた。

 夜空を見上げながら、深呼吸をするように煙を吐き出す。

 そして一度だけちらりと背後を振り返ってから、


「面倒なことにならなきゃいいがな……」


 ゆっくりと夜空に溶けていく白い煙を目で追いながら、俺は小さなため息をついた。

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