第五章 風、吹き抜けて
それからは、実にあっけないものだった。
ヴァン率いる革命軍は、大した抵抗も受けずにトロンヌ王宮を取り囲むことに成功。
彼らはその場で、「王は姿を見せよ」と叫んだ。
気力の失せたロワ一五世は、クリスに連れられ、民衆の前に姿を現した。
さらにヴァンたちは、話し合いの場を持つことを要求。場所には、マニフィケア宮殿が選ばれた。あそこは王族の別邸ではあったが、時には庶民に開放されることもあり、ヴァンたちにとってもそれなりに身近な場所だった。
そして王族は、話し合いの場が持たれるまで、宮殿内に幽閉されることとなった。
ヴァンたちは、サントリアの町長たちが使う議場を借り受け、代表者を選出し、今後の方針を話し合った。
ヴァンやマレーは、現王ロワ一五世を退位させ、クリスをロワ一六世に即位させ、その後は国民から代表者を選出した議会と王とが互いに協力し合いながら、国家を運営すべきだと主張した。
しかし革命軍の中には、王族は完全に政治の世界から切り離すべきだと主張するものたちも少なくなかった。
我らはもう、自分たちの力だけで国を治めることができるはずだ。
革命に成功したという実績は皮肉にも、民衆に根拠のない自信を生んでしまったのだ。
マレーは、そんな者たちを納得させようとしたが、うまくいかなかった。
議論の平行線を見てとったヴァンが、休憩をはさむことを提案すると、その場はたやすくおさまった。
議場の控え室で、マレーは珍しく鼻息を荒くした。
「まったく、みんなはわかっていない。私たちには、圧倒的に政治の経験が足りないんだ。クリスならば、我々の経験不足をうまく補ってくれるだろうに……!」
対するヴァンはイスに腰掛け、どこか眠たそうに目を閉じていた。
「……仕方ないだろ。みんなは、クリスのことを知らないんだ。自分たちの邪魔をされるのが、怖いんだろ」
投げやりな態度に、マレーは首をひねる。
「どうした? 君らしくもない。さすがの君も、緊張の糸が切れたのか?」
「まだなんも終わってないだろ……。けど、そうだな……なんか、力が抜けちまった」
無気力さを漂わせているのは、それはそれで心配だったが、一時のような激しさが鳴りをひそめていることに安心する。
「無理もない。君は、走り続けてきたのだからね」
実際、この英雄はずっと先頭を走り続けてきた。それも、他の人間よりも弱った体で。身近で見守ってきたが、並みの精神力ではない。
うつらうつらするヴァンを見守っていると、ドアをノックして、革命軍の一人が入ってきた。
「失礼します。あの……ヴァンさんにお客様ですが……」
「俺に客?」
気だるげに顔をあげ、ヴァンは首をかしげる。だが、部屋に入ってきた人物を見ると、彼はすぐに立ち上がった。
部屋にやってきたのは、柔らかな雰囲気の女性と一人の赤ん坊――ユールとティフォンだった。
「えへへ~、来ちゃった~」
殺伐とした雰囲気の中で、場違いと思えるほど間延びした声と朗らかな笑顔。やはり、彼女はどこであっても彼女だった。
「お前ら……どうして……」
ヴァンたちに何かあった時に備え、ユールたちはサントリアから少し離れた場所に避難させていた。一区切りしたら迎えにいくと約束していたのだが。
「……ごめんね~。やっぱり、心配になっちゃった」
えへへ、と笑う彼女だが、その足は泥で汚れていた。すべての道のりを徒歩で来たというわけではないだろうが、少しでも早く来るために、無茶をしたのだろう。きっと、いてもたってもいられなかったのだ。
「そっか……。悪かったな、心配かけた」
そんな彼女を慈しむように、ヴァンは優しく抱きしめる。
普段は血気盛んな彼だが、こういうときはちゃんと父親なんだな、とマレーも思わず頬をゆるめた。
「ヴァン……。クリス君たちは、大丈夫だよね?」
小さな呟きに、はっとする。本当にユールは、のんびりしているようで、勘が鋭い。ヴァンを心配してきたのは本当だろうが、それと同じように、クリスたちのことも心配しているのだろう。
マレーとしても、ヴァンの返答が気になった。先ほどの彼が、意図的に口を閉ざしているように見えたからだ。
「……何も心配いらないさ。俺たちはクリスと一緒に、この国を変えて行くんだから」
「そっか。そうだよね~。私たちは、友達だもんねぇ」
その言葉に、ユールもマレーも安心する。
「みんなも、すぐには納得できないだろうがな。だけど、ひとまずの戦いは終わったんだ。ここからは、時間をかけていくさ」
「ええ~、じゃあまだ、一緒にはいられないの?」
「我慢してくれよ。もう少しの辛抱だ。俺は必ず、お前たちのところに戻るから」
「……もう、戦いはないんだよね? 危なくないんだよね?」
「ああ。あるとすれば、言葉での戦いさ。俺たちが〈アヴニール〉でやってきたのと同じことだよ」
「なら安心だよね~。うん、私、待ってるからね。がんばって、ヴァン。あと、マレー君も」
「はは、忘れられてるかと思ったよ」
「ぶ~、そんなことないよぉ」
「こっからは、俺よりもマレーの得意分野だからな。しっかり頼むぜ、親友」
背中を叩かれ、マレーは顔をしかめたが、内心では英雄からの信頼がうれしかった。
「ああ、行こう」
あとは革命軍のみんなを納得させること。そうすれば、この革命は終わり、国は変わる。
ヴァンとユール、そしてティフォンに、少しでも長く穏やかな時間を過ごしてもらう。
そのためにマレーは、改めて気合を入れた。
マニフィケア宮殿で、王族にはそれぞれ一室があてがわれた。彼らはそこで寝起きし、それ以外は広間で共通の時間を過ごしている。
監視はついているものの、マレーは本を差し入れてくれるし、レイナたちと話す時間もある。クリスとしては、それなりに充実した時間を過ごしている。とはいえ、それが一週間も続けば、さすがに飽きがくる。
クリス以上に参っているのが、ロワ一五世とレイナだ。
与えられた部屋は、一人で生活するには、十分な広さがある。しかしそれでも、トロンヌ王宮の部屋に比べれば、狭い。ロワ一五世にとっては、それがストレスらしい。
さらに、身の回りの世話をしてくれる人間がいないのも厳しいのだろう。仕方なく、ロワ一五世には、世話役の人間が一人ついているが、一〇以上の人間を侍らせるのをステータスとしていた彼にとっては、苦痛以外の何物でもないだろう。
それは、レイナも同じだ。最初こそ気丈に振る舞っていたが、すべてを自分でやらなければならないことには、やはり戸惑いがあるらしい。
今もクリスたちは広間に一堂に会しているが、二人の顔には疲労の色が濃いように見える。ただレイナに関しては、フィオナがよく支えてくれているようだった。今も、彼女の傍に控えてくれている。
「これから、どうなるのでしょうか……」
レイナが不安を漏らす。うるんだ瞳に、普段の高貴さは感じられない。これまで守っていたはずの義妹にもたれかかる姿は弱々しく、まるで村娘のようだった。
けれども、彼女の心配ももっともだ。一週間も、自分たちが放置されているということは、ヴァンたちの間で、何かしらの問題が起きているということだ。おそらくは、自分たちの扱いについて揉めているのだろう。あるいは、王族を処刑せよ、という主張もあるのかもしれない。
そんな不安を押し殺しながら、クリスは自らの妻に微笑みかける。
「革命家たちには、政治の経験が不足している。必ず、僕らの力が必要になる。だから、暗くなる必要はないよ。……それに、ヴァンたちもいる」
最後の言葉は、父に聞かせないようにした。革命軍の中核と親密な関係にあることを、知らせたくなかった。
現王ロワ一五世は、たしかに疲れ切っていた。だが、その目は死んでいなかった。それが、どうにも気にかかる。
まるで、なにか手を残しているような……。
いぶかしげに眺めていると、父はゆっくりと立ち上がる。
「そう。何も心配する必要はない。やつらがいい気になっていられるのも、今のうちよ」
底冷えしそうな重い声に、クリスは背筋を震わせた。
やはり、何か手を残しているのはまちがいない。
「――父上。いったい、どういうことでしょうか。父上の深きお考え、浅学の私めにもお教えいただけないでしょうか」
嫌な予感がする。一刻も早く、情報を引き出さなければならない。使命感に突き動かされ、クリスは頭を下げる。
へりくだった態度に満足したのか、ロワ一五世は得意げに語りだす。
「なに、大したことではない。あの雑草どもの一団が現れたとき、ペルダン伯爵に使者を出しておいた。兵を集め、余になにかあったときは、それらを率いて攻め込むように命じたのだ。そろそろ、準備も整うであろう」
いよいよ、クリスの顔は青ざめた。ペルダン伯爵は、貴族の中でも、それほど大きな力を持っているわけではない。だが、王家への忠誠心が強く、現王の信頼も厚い。
――ぬかった。
あの状況下でそんな余裕を持った行動ができるとは、思っていなかった。クリスの頭の中になかったということは当然、ヴァンたちにとっても想定外ということだ。
「じきに安心しきった雑草どもを、踏みつぶしてくれる。だからお前たちは、安心しているがいい。ふははははは!」
頭を垂れながら、王太子は唇をぎゅっと噛みしめた。まさかここまできて、こんな障害にぶち当たるとは。
――だが、それならばこちらにも考えがある。
日も沈み、クリスたちはそれぞれの部屋へと戻された。
クリスは窓から外を眺めながら、ある計画を練っていた。
もう、残された時間は少ない。迷っている暇はない。ないのだが――。
キイィ、と扉が開く音がして、クリスはそちらへと振り向く。そこには、フィオナの姿があった。
「フィオナ……。どうしたんだい?」
予期せぬ来訪者に、クリスの頭は一気に現実に引き戻された。
そもそも、この時間帯に部屋を出ることは、禁じられているはずだが。
「あの……どうしても、お兄様とお話がしたいと、門番の人に頼みました」
フィオナは国民にも人気があるし、容姿が幼いためか、人の保護欲をかき立てやすい。きっと門番は、彼女の「兄」のような気持ちで、お願いを聞いてしまったことだろう。
「また無茶をするね……。そこまでして、一体何の話だい?」
妹の表情には、彼女に似つかわしくない気丈さがあった。どこか、以前のレイナを思わせた。
「……お兄様こそ、一体何をお考えですか?」
その指摘に、クリスは目を丸くした。まさか、フィオナに見透かされるとは思っていなかった。
「よく気づいたね……」
「……目を見ていれば、わかります。それよりも、何か行うのであれば、私を使ってください」
フィオナは、まるで臣下のように跪く。その態度は、彼女がクリスに全幅の信頼を置いている証だった。
「そんなに僕を買いかぶらないでくれ。僕は、そこまでの信頼を得られる男ではないよ」
今も父を侮り、ヴァンたちを危険にさらしている。
「……いいえ。お兄様は、いつも正しい道を選んできました。私は、そう信じています。今度も、お考えがあるのでしょう?」
「……一応ね」
「……それならば、迷う必要はないではありませんか。駒が必要ならば、私がいます」
妹は、まぶしすぎるぐらいにまっすぐだ。マニフィケア宮殿に来ても彼女が強くいられるのは、自分を信じてくれているからなのだろう。
ならば、自分のなすことは彼女を裏切ることなのかもしれない。それでも――。
「フィオナ。僕がこれからしようとしていることは、正しいこととは限らないんだ」
「……? どういうことですか?」
きょとん、と幼さの残る瞳を丸くする。本当に、自分を信じ切ってくれているのだと実感させられる。でも、だからこそここで教えておかねばならない。
いつまでも、彼女の傍にいられるとは限らないから。
「僕がこれからすることは、王族としてはきっとバカげたことだ。きっと、君たちのことも不幸にしてしまう。だけど、この国のためには、きっと正しいことなんだ」
「……それがお兄様の成したいことならば、私は信じます。たとえ、それで不幸になろうとも」
「僕は神じゃないよ。目の前のことしかわからない、人間だ。まちがえることだってある。正しさなんてものは、見方一つで変わってしまうからね。だからね、フィオナ。僕らは、考えることをやめてはいけないんだ。自分が成したいこと、成すべきことを、考え続けるんだ。そうすればきっと、君は一人でも生きていける」
まるで死の宣告でもされたかのようにフィオナは目を見開き、しばし呆然としていた。やがて、その体が震えだす。そして、震える唇から言葉を紡ぎだす。
「……まさか、お兄様。死ぬおつもりですか?」
この子は本当に、勘が鋭い。いや、きっと頭がいいのだろう。もしこれで自信をつければ、民衆を導くにふさわしい人間になっただろう。
その将来を思うと、やはりためらいも生まれてしまう。
「……ああ。僕はここで、文字通り命をかける。もしかしたら、君たちにも不幸が及ぶかもしれない」
「……ヴァンたちを、救うためですか?」
「そうだね。でもそれは、友達だからという個人的な理由じゃない。この国は、ようやく一歩を踏み出した。彼らは、希望の灯りなんだ。だから、失わせるわけにはいかない」
フィオナは、値踏みでもするかのように、こちらの目をまっすぐに見つめてきた。それでも、もうためらいはない。彼女と話しているうちに、自分の決意も固まった。
自分は国の未来を望む王族として、過去の栄光にすがる王族を打ち倒す。
「……お兄様。一つだけ、教えていただけませんか?」
「なんだい?」
「……どうしてお兄様は、この国のためにそこまでできるのですか? 王族だから、ですか?」
フィオナは、どこか困惑したような顔をしていた。彼女なりに、改めてクリスの行動について考えてみたのだろう。そして、その行動原理がわからなかったといったところだろう。
もしかしたら、かっこいい答えでも期待されているのかもしれないが、それには応えられない。だって、クリスの行動原理は、至極簡単なものだから。
「高貴なる者の義務、なんていえればカッコいいのかもしれないけどね。――うん。僕は、この国が好きなんだ。この思いには、王族も民もない。そして好きだからこそ、良くなってほしいと願うんだ」
クリスは、子供のころから、様々な人間と交流してきた。城では、権力を持つものと。城の外では、権力を持たぬものと。
そして彼は、あらゆる角度からこの国を見つめてきた。美しいところも、醜いところも。おそらくは、この国のことを最も知る人物といっても、過言ではないだろう。
すべてを知ってなお、彼は国を愛し続けることを選んだ。王族の責務としてではなく、一人の国民として。
それを聞き届けたフィオナはただ、「お兄様らしいですね」とだけ言った。
数日前までの暑さが鳴りを潜め、秋らしい涼しさを感じるようになった夜、ヴァンのもとを、一人の男が訪ねて来ていた。
真っ白な清潔感のある白衣をまとったその男は、ヴァンの顔を見ると微笑んだ。
「うん。顔色は悪くないね。ひとまず安心したよ」
「いきなり顔色の話かよ。すっかり医者が板についてんだな、シオン」
どこか呆れたようにしつつも、ヴァンは目の前の男――シオン・コンダーナを歓迎した。
革命が落ち着いたのを見てとって、わざわざ様子を見に来てくれたのだ。
「僕を名医だと褒めてくれたのは、君だったと思うけど? 君こそ、革命の指導者が板についてきたんじゃないのかい?」
「指導者なんて呼ばれ方は、どうにもこそばゆいんだよな。俺はただ、走り続けてるだけなんだからよ」
「……君は変わっていないようで、安心したよ」
シオンの表情が曇る。マレーに聞いたが、町では暴力事件が多発しているらしい。気に入らないものを、力によって変革する。人々の中には、革命というものをそういう形でとらえている人間もいるらしい。質が悪いのは、その論理を身近な問題への論理に用いる人間だ。何か気に入らないことがあると、すぐに暴力に訴えるような人間が、増えてしまっている。それは、革命がもたらした一つの問題だった。
「お前も、無事でよかったよ。わざわざ来てくれて、ありがとな」
シオンは、自らの意思で来たように装っていたが、おそらくはマレーが呼びつけたのだろう。体調を心配したのと、議論が進まないことへの気晴らしを兼ねてといったところか。
だが、こうして友人との時間を過ごせるのも、革命がひと段落したからか。そう思うと、喜ばしい。いつもはどうしても時間が気にかかってしまうが、こういうときは忘れられる。
「調子も良さそうで、何よりだよ。ただ、健康そうに見えても、君は爆弾を抱えてる。しかもそれは、ちょっとしたきっかけで爆発する。くれぐれも、無茶は禁物だからね」
子供に言い聞かせるように、シオンは眉根を吊り上げて、忠告してくる。
「ったく、母親じゃねぇんだから……。そんなことは、言われなくてもわかってるさ。心配しなくても、もう大きな戦いは残っちゃいない。さすがに議論だけなら、ぶっ倒れたりする心配はないだろ」
もし無茶が必要なら、そのときの覚悟はできている。だけどそれは、シオンには言えなかった。
「……たしかにそうか。あとは、クリスたちと協力して――」
シオンの言葉は、荒々しい足音に遮られた。
そちらへと意識を向けると、扉が乱暴に開け放たれる。入ってきたのは、同志の一人だった。たしか、マニフィケア宮殿の警備を担当していたはずだ。
「た……大変です! 王太子が、ロワ=クリストフ・ラフィーヌが脱走しました!」
男の息を切らしての報告は、ヴァンとシオンの表情を凍りつかせた。
「脱走、だと……? いったいどこに!?」
思わず立ち上がり、厳しい声音で問う。
「わ、わかりません。ですが、馬などが盗まれた形跡はなく、そう遠くにはいっていないと」
「――とにかく捜せ! 見つけたら、俺のところに連れて来い!」
指示に従い、男は慌ただしく駆けて行った。その背を見届け、ヴァンは大きく息を吐く。
「くそっ……いったいなにやってんだよ、あのバカ……」
ようやく革命が落ち着いたっていうのに、なぜ余計なことをする。こんなことをすれば、反王族の連中を、つけあがらせるだけなのに。
「くそっ!」
いらだちがおさまらず、壁を叩く。鈍い衝撃が体中を走り抜けるとともに、肺のあたりから何かがこみ上げてくる。
「ヴァン!」
シオンに体を抱きとめられる。知らぬうちに、ふらついてしまっていたらしい。
「……すまん」
支えられながら、椅子に座る。呼吸を落ち着けると、頭も少しは冷えた。
「ヴァン……クリスにも、何か考えがあってのことだと思うよ」
「だろうな。あいつは、用意周到なタイプだ。本気で逃げる気なら、こんなに早く発見されることはないだろうよ。それが簡単に見つかったってことは――」
「脱走自体が、狙いではないということかい?」
慣れた動作で、シオンは水と薬を手渡してくれる。この報告の場に彼がいてくれたことは、幸運だった。おかげで、思考の整理もしやすい。
「その目的がなんなのかまではわからないけどな。まぁ、狙いが脱走じゃないなら、あいつもすぐに捕まるだろ。その場で、あいつの話を聞けばいいさ」
親友を安心させるため、ヴァンは笑ってみせる。
しかし、薬を飲んでもなお、病気とは別のざわつきが、ヴァンの胸にまとわりついていた。
それから、一時間ほど。夜も更け、寒さを感じ始めた頃に、クリスは捕らえられた。彼はすぐに、ヴァンの待つ議場へと連行された。ヴァンとマレーは、あえて狭く粗末な部屋を選び、彼と対面した。
彼らの前に現れたクリスは、両の手を縛られていた。足のほうへと目を向ければ、ズボンの布はぼろぼろになり、隙間からのぞく肌は、赤くにじんでいた。その風体は、まさしく脱走者という感じだった。けれどもその目には、いまだに高貴な光が灯っている。
「……ずいぶん大それたことをなさいましたね、クリストフ様」
眉間に皺を寄せ、マレーが口を開く。それに対してクリスも、弱さは見せない。
「……ふん。そちらこそ、王族への敬意が欠けていると見える」
これみよがしに、縄で縛られた両手を見せる。
「……また逃亡されても、困りますから」
「この状況から、また逃げようとは思わないさ。――せめて、人を減らしてくれないか? ただでさえ狭い部屋に、人が多いのでは息苦しくてかなわない。それに、こんな姿をあまり見られたくもないのでな」
今、この部屋ではヴァンたちに以外にも、三人の兵士がクリスを見張っている。当然と言えば当然の警戒だが、見知った人間だけで話をしたいのだろう。
その意思を尊重し、ヴァンは人払いをする。
「心配すんな。もし逃げようとしても、こんな状態の相手なら、俺たちだけでも十分さ」
ヴァンが言うと、心配そうな顔をしていた男たちも、おとなしく出て行った。
「……ずいぶんと慕われているんだね」
人がいなくなったのを認めると、クリスは疲れたように苦笑した。それにつられて、ヴァンも肩の力を抜いた。
「おかげさまでな。しかし、こんな形で再会することになるとはな」
手紙で言葉を交わしてはいたものの、これまで面と向かって話す機会はなかった。
「まったくだよ。まさか、こんな姿を見せることになるなんてね」
「しかし、本当に無茶をしたな。いったい、何があった?」
眉間の皺は消えぬものの、幾分か優しい声音でマレーが問う。
「ああ、実は――」
クリスは緩んでいた表情を引き締め、ここまでの経緯を語った。聞いているうちに、ヴァンたちの表情も、険しいものへとなっていった。
「ペルダン伯か。たしかに、あまり気にかけていなかったな」
ペルダン伯は、民衆思いの貴族としても知られている。領民たちは彼に不満をほとんど持っておらず、領地内では暴動も起きていない。
しかし、それゆえにほかの貴族のように暴動の鎮圧に手を焼くことなく、戦力を集めることができたのだろう。
「この状況下で目立たずに兵を集め、戦う準備を整えるのは、普段よりも時間がかかるはずだ。父上の様子からしても、大部隊を用意させているようだしね。とはいえ、そろそろ準備が整っていてもおかしくはない」
「時は一刻を争う……か。ヴァン、どうする?」
ペルダン伯ならば、交渉を持ちかければ応じてくれるのではないか。そんな意味でマレーが尋ねると、ヴァンは首を横に振った。
「言っただろ? 俺たちは、最後まで走り抜けなきゃならねぇんだ。その障害は、すべて取り除く」
ヴァンの目には、すでに闘志の火が灯っていた。話し合いなどになれば、また時間を浪費するだけだ。それならば、道は力で切り開く。そのことに、迷いはなかった。
「……今度の相手は、こちらと戦うために用意された軍隊だぞ? ルフォー砦やトロンヌ王宮のときのように幸運が続くとは、考えないほうがいい。それでも、君は戦うというのか?」
すでに迷いがないとわかっているだろうに、マレーは水を差して来る。だけど、こうして問いかけてくれる存在が、ヴァンにとってはありがたかった。違う意見をぶつけられるからこそ、改めて自分の中で、覚悟を決めることができる。
「……迷いはねぇよ。その時間すら、俺たちには惜しいんだ。今だって急げば、用意しきれてない相手を、奇襲できるかもしれない。あっちだって、俺たちに嗅ぎつけられたとは、思ってないだろうしな。これも前に言ったよな、マレー。俺たちの戦いは、時間との戦いでもあるんだ。だから、俺は迷わない。奇跡は、待っちゃくれないしな」
マレーへと発した言葉は、自らを鼓舞する言葉でもあった。自分の言葉につられ、体が高揚していくのがわかった。今すぐにでも、馬に乗って走り出したい衝動に駆られる。
「……そこまでの覚悟があるならいい。きっと、みんなもついてくるだろう。私は、彼らに指示を出して来る。お前は、自分の支度に集中しろ」
「任せたぜ、マレー。ただ、お前自身は残ってくれ」
「何?」
ついてくる気満々だったのか、マレーの眉間の皺が深くなる。明らかに不満そうだ。
「私を置いていくだと? いったい、どういうつもりだ?」
「クリスのことが心配だ。俺たちの留守の間に、反王族派に暴走されたんじゃ、誰も止められないからな。お前がいてくれたら安心だ」
マレーはヴァンとクリスとを交互に二、三度見てから、口を開く。
「……わかった。しかし、君は一人で大丈夫なのか? 私がいなくては、君の事情を知るものがいなくなるのだぞ?」
革命軍の中で、ヴァンの病気のことを知っているのは、マレーくらいのものだ。彼が離れていては、万が一が起こった時に、適切な行動をとれるものがいなくなる。ヴァンにとって、それは命取りになりかねない。
「……仕方ないだろ。万が一のことなんて、気にしてられるかよ」
「――それなら、僕が行く!」
声と共に、勢いよく扉が開き、白衣をまとった男が入ってきた。
「シオン……」
「僕を連れて行ってくれ、ヴァン。僕なら君の助けになるはずだ」
どうやら、事情はすべてわかっているらしい。
ヴァンは呆れたようにため息をついた。
「お前……聞いてたな?」
あ、と一瞬シオンは動きを止める。それから、ごまかそうとしたのか、わたわたと動き、やがて観念したように肩を落とした。
「……ごめん。どうしても、気になったから」
「まぁ、お前にならいいけどな。……というかお前、本気で言ってるのか?」
たしかに、シオンがついてきてくれるなら、体調面の不安はほとんどなくなる。それに、戦力面でも――。
「……本気だよ。僕も、君たちのために剣を振るう」
はっきり言って、シオンの剣術は天才的である。ヴァンたちはもちろん、軍の中にもまともに相手をできる人間は少ないだろう。
といっても、彼がその実力を見せることはほとんどない。見せるとしたら、仕事のときくらいのものだろう。
そもそも、死刑囚に余計な苦痛を与えない太刀筋を求めて、彼は剣術を極めたのだ。優しさに端を発するがゆえに、彼はむしろ剣術を褒められることを嫌う。
だからこそ、最高の戦力になることを知りながら、ヴァンはシオンを戦いから遠ざけていたのだ。
それでも今、シオンは自ら戦いの渦中に身を投じようとしている。
「……本当にいいんだな? 俺たちは、最後まで走り抜ける。手を貸したら、もう戻れなくなるぜ?」
彼の優しさをよくわかっているからこそ、ヴァンはもう一度問う。戦場に出れば、彼をかばう余裕などないからだ。
「……僕は、ずっと寂しかったんだ。新聞で君たちのことを見るたびに、君たちが遠い世界に行ってしまったような気がして。そして、ずっと辛かった。君たちだけに、重荷を背負わせてしまうことが。だけど、僕なんかにできることはないって決めつけてた。僕は、剣が嫌いだ。だけど、それが君たちの役に立つというのなら。僕は君たちと共に、罪を背負うよ」
シオンは、いつも迷ってばかりの気弱な人物だ。しかし、一度これと決めたときには、絶対に譲らない芯を持っている。
きっと今のシオンは、ヴァン以上に頑固だ。だからもう、何も言わない。
「……わかったよ。それじゃあ、一緒に行こうぜ、シオン」
笑って、ヴァンは手を差し伸べる。ふと、シオンとはじめて出会ったときのことを思い出した。あのときもこうして、手を差し伸べたのだ。処刑人の一族ゆえに周りから避けられ、家に閉じこもっていた彼へ。
シオンも、同じことを思い出していたのだろう。どこか照れくさそうに笑いながら、彼はその手をとった。
統暦一〇一二年ノヴァンヴルの月。革命軍が戦いの準備を整えたときには、すでに空が白みだしていた。風はないものの、気温はかなり低い。どこか、冬の到来を感じさせた。
出陣を控えたヴァンのところには、ユールとティフォンの姿があった。
「ヴァン……大丈夫、だよね?」
いつもはのんびりとしているユールも、今ばかりは不安げな表情だ。
「心配すんな。俺は、こんなとこでは死なないよ。まだ、何も終わっちゃいないからな。それに、シオンもいる」
ヴァンの傍らには、シオンの姿がある。医者の証である白衣を脱ぎすて、所々に赤いシミのついた、黒いロングコートを羽織っている。それは、彼のもう一つの仕事着だった。
彼はあれを着ている時だけは、「死神」として振る舞うことができるらしい。
「シオン君……」
「大丈夫。ヴァンは死なないし、殺させない。『死神』が言うんだから、確かだよ」
シオンの言葉に、ユールは笑顔を見せた。いつもの柔らかな笑みとは違う、硬い笑顔。無理して笑っているのは見え見えだったが、それでもヴァンの心は救われた。
「必ず、帰ってくる。そうしたら、今度こそ戦いはおしまいだ」
「はい。いってらっしゃい、旦那様」
愛しい家族の見送りを受け、ヴァンたちは出陣した。
出陣した彼らは、ルフォー砦の先に広がるオリゾン平原において、接敵した。
後にオリゾンの戦いと称されるこの戦いは、革命がはじまってから初となる本格的な戦闘であった。
戦力においては革命軍が三〇〇〇に対し、ペルダン伯の軍は一〇〇〇人と革命軍が有利であったが、敵は戦闘のプロである軍人や傭兵で編成されていた。こちらは、ほとんどが民間人。一人で三人を相手にするなど、敵にとっては楽な話であった。
ただ、この戦いにおいてヴァンは三つの幸運に恵まれた。
一つは、敵の指揮官がペルダン伯自身であったこと。彼はたしかに、指揮官としても優秀な男であった。しかし、この戦いにおいては、民衆を手にかけることへの迷いを捨てきれず、思考を鈍らせていた。彼の代理などが指揮を務めていれば、ヴァンたちは容赦なく蹂躙されていた可能性もある。
もう一つは、クリスの存在だ。彼の捨て身の行動により、ヴァンたちは敵の存在を知ることができた。それは、敵にとっては想定外のことだった。接敵したとき、伯爵の軍は戦闘準備ができておらず、革命軍は期せずして奇襲をしかける形となった。
そして最後の一つが、シオンがついてきたことだ。オリゾンの戦いは数日間に及び、最前線に立ち続けたヴァンの体は、明らかに疲弊していた。もしこの間、シオンが気遣ってくれていなければ、彼はここで倒れてしまっていたかもしれない。さらに、シオンの剣術も革命軍の助けとなった。
ルフォー砦の兵士たちもそうであったが、ローワンの軍人たちは、王から騎士の称号を賜ることを一つの目標としている。そのために騎士道精神にあふれた人間が多いが、それは戦いの場においても発揮される。
具体的にいえば、腕に自信のあるものが、相手の実力者に対し、一騎打ちを申し込むのだ。これは特に、貴族同士の争いの際に見られる。ここで勝利すれば、相手の士気をくじけるし、うまくいけばそれだけで敗北を認める場合もある。ペルダン伯にとって、一騎打ちの申し出は民衆に余計な犠牲を出さないための救済策でもあった。
ヴァンは逡巡したが、シオンが名乗り出たために、彼に任せることにした。
「ペルダン伯旗下、ジャン・ラパス! 反乱軍に、一騎打ちを申し込む!」
ジャン・ラパスはベテランともいえる傭兵であった。戦いを好み、争いのにおいがするか否かで、つく主君を変えるという話で有名だ。幾度もの戦場に立ち、鍛え上げられた剣は、ローワンでも指折りとの噂もある。
「革命軍、シオン・コンダーナ。一騎打ちを受諾します」
シオンがジャン・ラパスに向き合うと、まるで子供と大人のような体格差があった。しかし、見上げるような相手を前にしても、シオンにはまるで臆した様子がなかった。
そして実際彼は、数合打ち合う間に、ジャン・ラパスを斬り伏せてしまったのだ。
それを見て、革命軍は勢いづき、ペルダン伯軍は怖気づいた。
もともと迷いを抱えていたペルダン伯は、革命軍の奇襲に一騎打ちの敗北が加わり、完全に混乱した。さらに、急ぎ集められたペルダン伯の戦力は、烏合の衆に過ぎず、指揮の乱れを悟ると、逃亡する者も少なくなかった。
対する革命軍は、迷いを捨てたヴァンのもと、一体と化していた。
戦いが始まって数日。勝敗はすでに、火を見るよりも明らかだった。
やがてペルダン伯もそれを悟り、革命軍へと降伏した。
こうして、オリゾンの戦いは、革命軍が奇跡的勝利をおさめる結果となった。
オリゾンの戦いから、数週間がたとうとしていた。冬の到来が近づきはじめ、最近ではそろそろ雪が降るのではないか、という話を耳にするようになった。
サントリアの病院の一室に、ヴァンの姿はあった。戦場の重圧は、やはり彼の体を蝕み、静養を余儀なくされてしまったのだった。
ただ、あの一戦の効果は思ったよりも大きかった。革命軍の勝利に民衆は沸き立ち、革命は可能なのだ、という自信を深めることになった。さらに貴族たちは、革命軍の実力を改めて認識し、いよいよ静観を決め込むことになった。下手に動けば、まさに国民全体を敵に回すことになる。おかげでヴァンたちは、これからの国の在り方への話し合いに、注力することができるようになったはずだった。
ただ、戦場から帰ってきたヴァンは体調を崩し、長時間の議論に耐えられなくなった。彼はこじんまりした病室の白いベッドに寝そべりながら、話し合いの報告を受けるという日々を送っていた。
もたらされる情報を聞く限り、状況は思わしくない。
クリスの脱走の意図を知らない者たちは彼を責め、やはり王族は政治の世界から排除すべきという主張を強めているらしい。中には、王族を処刑すべきだと論じている者たちもいるとか。
マレーがなんとか抑えこんでいるようだが、やがて限界が来るだろう。彼は何かを指示すれば、期待以上の仕事をするし、人を動かすのもうまい。ただ、自ら主張することは、あまり得意な人間ではない。
せめて自分がいれば、対抗できるのだが。思い通りにならない自身の体がふがいなく、ヴァンは唇をかんだ。
「……ヴァン? どうかした?」
傍らに控えていたユールが、首をかしげる。
「いや、ちょっと、自分が情けなくてな……」
そんなに表情に出ていたか、と自省する。どんなにごまかしたところで、ユールにはばれてしまうのだが。
今も、一言ですべてを悟ったのだろう。ヴァンの心境を気遣うようにしながらも、笑顔を見せる。
「ヴァンは、がんばったもん。ちょっとぐらい休んでも、みんな許してくれるよ~」
「だけど、俺は……」
最後まで、走り抜けると決めた。それなのに自分は、どうしてこんなところにいる。それに、自分に残された時間は少ないのだ。
自身にかかる白布を握りしめる。握った拳が、震える。もう握力も、だいぶ落ちてきていた。
あの戦場から帰って来てから、緊張の糸が切れたかのように、体の感覚が鈍ってきている。唯一敏感になっているのは、肺だけだ。少し興奮しただけで、熱を帯びるような感じがし、痛みが走る。
いよいよ、自分には時間がない。最近は、それを体感している。だからこそ、こんなところにいるわけにはいかないのに――。
「ねぇ、ヴァン。私やティフォンといるのはつまらない?」
ヴァンのベッドの隣には、小さなベッドが置かれており、そこにはティフォンが寝ている。ヴァンの看病をするユールのことを気遣い、マレーが用意してくれたのだ。
ユールはそこからわが子を抱き上げ、顔をヴァンに見せる。国の状況も、ヴァンの病状すら知らぬ無垢な笑顔に、ヴァンは涙がこぼれそうになった。
「つまらないわけ、あるかよ……!」
やるべきことがある。それはわかっているのに、こうして家族といると、このまま優しい時間に浸っていたくなる。
それは、いけないことなのだろうか。もう、自分は長く生きられない。それなら最後ぐらいは、楽な時間に生きても、いいのではないか。
マレーは優秀な男だ。今は追い込まれていても、なんとかするかもしれない。それに、シオンだっている。クリスだって、そう簡単に死ぬような人間じゃない。
――それをなすのは、君でなくともいいだろう!
かつてマレーはそういった。自分には、信頼できる友たちがいる。それに、仲間だってずいぶん増えた。
もう、すべてを任せてもバチはあたらないはずだ。
「ユール……」
ヴァンは体を起こし、妻へと向き直る。そして、そのまま彼女と息子を抱きしめた。
「ヴァ、ヴァン!?」
さすがのユールも、戸惑いを露わにし、頬を朱に染める。
柔らかな感触や自分より高い体温にほのかに甘い香り、高鳴る鼓動。さらに少し下の方から、ティフォンのはしゃぐ声が聞こえる。
ヴァンは、二人を抱いた腕の中で、その存在をたしかに感じていた。
自分を支えてくれた二人。自分が支えるべき二人。
「ユール。ティフォン。――ありがとう。それから、ごめん」
腕の中で、ユールがはっとするのがわかった。至近距離で、目と目が合う。
うるんだ瞳に、罪悪感が頭をもたげる。それでも、やっぱり自分は――。
「……ごめん。俺はやっぱり、大人にはなれないみたいだ」
「……そっか。うん、そうだよね。ヴァンを必要としてる人はいっぱいいるもん。独り占めは、できないよね~」
「怒らないのか?」
どう反応したらいいのかわからないといった様子で、ユールは笑う。そういえば、結婚を申し込んだときも、こんな顔をしていた気がする。
「本当は、怒るべきなのかもしれないけどね~。でも、仕方ないんだ。私が好きになったのは、そうやって目をキラキラさせてるヴァンなんだから」
不意打ちだった。思わずヴァンは、今までこらえていた涙をこぼしてしまう。それを見られないように、もう一度強く、ユールたちを抱きしめる。
「本当に……ありがとう」
「お礼なんていらないよ~。今度も帰ってきてくれるって、信じてるから」
「心配いらない。俺が最後に立ち止まるのは、お前たちの傍だ」
「……うん。そうしたら、楽しいこといっぱいしよう~。ティフォンの誕生日だって、もうすぐなんだから~」
「ああ。そのときは、お前らのお願いをなんでも聞いてやるよ」
「ふふ、それは楽しみだね~。それなら、今一つだけお願いしてもいい?」
「なんだよ?」
ヴァンがたずねると、ユールの体がわずかに傾き、ヴァンに体重をかけてきた。
「もう少し、もう少しだけ、このままでいさせて。ヴァンの、心臓の音を聞いていたいから」
耳をヴァンの胸に押し当てて、ユールは眠るように目を閉じた。それはヴァンの鼓動の音を記憶しようと努めているようでもあった。
「……わかった。もう少しだけ、な」
家族との時間をかみしめるように、ヴァンもまた目を閉じた。
季節が、いよいよ冬の寒さを感じるようになった中で、ヴァンは国民議会に復帰した。
休んでもなお、その影響力は健在であった。口を開くだけで場の空気をかえ、反王族派ですら耳を傾ける。
生まれ持ってのものもあるのだろうが、今ではそこに革命の実績と文字通り命を削る凄みが加わっている。
ヴァンはもはや革命の象徴であり、文字通りの英雄だった。
今日の分の議会が終わり、ヴァンとマレーは廊下を歩いていた。
「もうひと押しといったところかな?」
マレーがほっとしたように切り出す。ヴァンは、表情を変えることなく、「そうだな」とこたえた。
「しかし、君があそこまで人の穴をつくのがうまいとは思わなかった」
「あんなのは、あいつらの自滅だろ」
ここのところの議論では、反王族派が持論を展開する中で、ヴァンは的確にその論の矛盾などを指摘してきた。
たしかに崩せてしまうような論理を用いる相手のほうが悪いのだが、それに気づく感覚の鋭さたるや、並みはずれたものがあった。
「最近の君は、なんというか……神がかっているような気がするよ」
そのようにマレーが評するのも、無理もない。ほかの人間も、そのように思っていただろう。当の本人だけが、一笑に付す。
「大げさだな。しいて言えば、〈アヴニール〉にいたころ、クリスとさんざん話してた経験が、今頃活きてるんだろうよ」
昔からクリスとは、国の未来について議論を戦わせていた。本来なら、平民のヴァンが政治を語れるはずはない。しかし「本物」との対話が、彼を鍛え上げていた。しかも、クリスはヴァンに対しても、本気で接していた。知識不足があれば叱責してきたし、間違いがあれば容赦なく正してきた。だからこそヴァンからみれば、周りの革命家たちは経験不足の未熟者たちともいえた。
「耳が痛いな。やはり私には、君の代わりは務まりそうにない」
「俺の代わりになる必要なんてないだろ。お前は、お前のやり方でやればいい」
ヴァンのやり方は、相手の意見を真っ向から否定し、自分の意見を貫き通すやり方だ。一方でマレーは、他人の意見をしっかりと聞き、自分の意見と折衷し、新たな方向性を導き出すことができる。
今は、少し相手の言い分を聞きすぎている気がするが、マレーの考え方はこれから先、必要になるものだろう。
「私のやり方か……」
物思いにふけるように、マレーは窓の外に目をやった。窓の外は、もう暗くなっている。やがてその目が、何かに気づいたように丸くなる。
「驚いた……もう降ってきたようだぞ」
つられて、窓の外を見る。ほとんど黒に染まった風景。その中で街灯に照らされながら、時折白いものが舞っている。
「――雪か!」
億劫そうにするマレーに対し、ヴァンは童心に帰ったように顔をほころばせた。
「……君は、よくはしゃげるな。寒ければ、体にだって障るだろうに」
「今さら、そんなこと気にしてられっかよ。雪が降ると、なんかワクワクすんだよ。特に去年からはな」
ヴァンは昔から、雪を見ると犬のようにはしゃぎまわっていた。それに加えて、雪は最高の喜びを思い出させてくれる。
「去年? ――ああ、ティフォンの誕生日か。そういえば、あの日も雪だったな」
昨年のデサンブルの月、ティフォンが生まれた日も雪が降っていた。外に出るのをためらうぐらいの大雪だったのだが、喜びを抑えきれなかったヴァンは、報告のためにコートも羽織らずに、マレーの家に押しかけた。
当時、彼はすでに病の兆候を見せていたため、マレーからは祝福よりも先に説教を受けることになった。ただそのあとは、二人とも心の底から笑いあった。国の情勢が悪化しつつあり、未来に不安しかない中で、久しぶりに希望を抱けたのだ。
今にしてみれば、二人の、少なくともヴァンの革命はあのときからはじまったのかもしれない。
「もう一年、か……」
しみじみと呟くと、マレーは珍しく眉間の皺を薄くして、穏やかに笑った。
「はじめての誕生日、どう過ごすつもりなんだ?」
「そうだな……できれば、盛大に祝いたいな。お前とシオンと、できればクリスたちも一緒にさ」
「まるで、君が騒ぎたいだけみたいだな」
「んなわけねぇだろ。いろいろあって、みんなにティフォンを見てもらってないからな。自慢の息子のお披露目も兼ねてってところだ」
「ふ……お前の息子の誕生日会に、〈アヴニール〉の同窓会か。――悪くないな」
マレーは、こみ上げてくる笑いを、こらえているようだった。
「素直じゃねぇな。ったく、こんな話してたら、あいつらに会いたくなっちまうじゃねぇかよ」
ここのところは、議論に集中するため、ユールたちのもとを離れ、マレーと共に議場の控え室で寝泊まりしていた。もう、半月近く会っていないのではないだろうか。
「……こんな時間から会いに行っても、長くはいられないぞ。それに、明日の準備だってまだできていないだろう」
ヴァンたちの話し合いは、王族の扱いについてだけではない。税制度に人事、外交など決めなければならないことはたくさんある。
それらのことに関して、自身の考えを主張するために、資料を集め、原稿をつくったりしなくてはならない。
しかもそれが、連日続いているのだ。とてもじゃないが、家に帰ってゆっくりする余裕はない。
王家の打倒は、革命のゴールではなく、はじまりに過ぎなかったのだ。
ヴァンも、それはわかっているが――。
「あー……頼む!」
ティフォンのもとへ行かせてくれという意味と準備を代わりにやっておいてくれという意味を込めて、マレーを拝む。
親友は一瞬眉間の皺を深くしたものの、あきらめたように嘆息した。
「……行ってくるといい」
「え、いいのか!?」
まさか、あのマレーがすんなり了承してくれるとは思わず、ヴァンのほうが驚いてしまう。
「ティフォンの父親は君しかいないからな。だが、明日の議会には遅刻するなよ。私では、君の代わりは務まらないからな」
「恩に着るぜマレー。この借りは、議会で返すからな」
ヴァンが手を握ると、マレーは照れくさそうにそれを払いのける。
「いいから、さっさと行け。……ユールによろしくな」
「ああ!」
心優しい親友に背を向け、ヴァンは躍るように駆けだした。
雪が降っているために覚悟はしていたものの、外は思った以上に寒かった。
街中はシンと静まり返っていて、人影はない。ただ規則的に並んだガス灯だけが、舞う雪を照らしている。
コートを羽織ったヴァンは、軽い足取りで石畳の上を歩いていた。いつもは、石の小気味いい音がするのだが、今は水の音が混じっている。
「はは、こりゃ積もるかな」
ティフォンは、雪の日に生まれたというのに、雪を見たことがなかった。降ったら見せてやりたいと思っていたので、その願いが叶うことになる。
ふと、家の窓際に置かれた人形が目に入った。そういえば、ティフォンへの誕生日プレゼントはどうしようか。……さすがに、まだ早いだろうか。
みんなだったら、どうするだろう。マレーは、まだ早いと言いそうだ。クリスは、本など近い将来ティフォンに必要になるであろうものを持ってくるだろう。シオンに至っては、さんざん悩んだ挙句、微妙にずれたものを買って来るに違いない。それぞれの光景が、目に浮かぶ。
そのあとは、みんなで思い出話に花を咲かせたり、これからのことを話したりするのだ。きっと、楽しいに違いない。
そして、それは決して夢物語ではない。
ティフォンたちに会いたくなったのは気まぐれだったが、状況が切羽つまっていれば、そんな気まぐれは起こさない。すべては、余裕が生まれたからこそ、だ。
マレーの言ったように、あと一押しすれば、反王族派は折れるだろう。そうすれば、クリスたちを解放し、いっしょに政治を行うことができる。
クリスが政治に参加することに、民衆は反発するかもしれない。あの脱走事件は、王族と民衆の溝を深くしてしまった。
しかし、クリスは誰よりこの国のことを考えている。その想いは、きっと伝わるはずだ。
彼が入れば、議論はこれまでにないペースで進むだろう。そうしてこれからの国の基礎をつくることができたのなら、いよいよ思い残すことはない。
そうなったら、あとはユールたちと余生を過ごさせてもらおう。ティフォンにも、お前に託せる国をつくったぞと胸をはろう。
そういえば、クリスたちにはまだ、子供ができないのだろうか。今度、訊いてみよう。マレーやシオンも、早く結婚しないのかとからかってみよう。
未来を託したい子供がいるからこそ、がんばれることもあるのだから。
――自分が、そうだったように。
少し急ぎすぎたのか、心臓の鼓動が速くなってきた気がする。呼吸も、なんとなく苦しい。
シオンにも、異変を感じたときは無理をするなと言われている。街灯にもたれて、落ち着くのを待つ。
「ふぅ……」
背中を預けた街灯は、ひどく冷たい。だが、体の内はやたら熱かった。興奮しすぎただろうか。
つぅ、と口元を何かが伝った。雪でもついたかと思い、それを拭う。
手へと目をやって、ヴァンは固まった。
そこについていたのは、赤い液体だった。
「え……?」
瞬間、胸のあたりから何かがこみあげてきた。こらえようとするが、そんな抵抗はゆるされなかった。
「が……ごほ……」
これまでにない量の血が口からあふれ、足元に血だまりをつくる。
地上へと舞い降りた白い雪が、それに触れた瞬間に赤く染まる。
ヴァンは、静かな驚きをもってその光景を眺めていた。それから体の芯を、底冷えするような寒気が駆け抜け、手足が震えだす。
――ああ、わかってしまった。自分の、命の終わりが。
衝動的に、彼は走り出した。せめて最期に、家族の顔を見たいと願った。
今も、体の内からこみ上げてくるものがある。それを必死でこらえ、足を動かす。
しかし、雪にぬれた石畳がその願いをあざ笑う。足をすべらせ、ヴァンはその場に転がった。
「げほっ……ごぼっ……」
また、おびただしい量の血を吐き出す。それでも立ち上がろうとして、足先に力を入れるが、動かない。かわりに、鈍い痛みがやってきた。どうやら、ひねったかなにかしたらしい。
「く……そ……」
手のひらに力をこめる。まだ、足よりは動きそうだ。続いて、腕に。
這うように、腕だけで進んでいこうとする。今度は、下が滑りやすくなっているのが幸いした。少しずつだが、進んでいる。
体が濡れることなど、気にならなかった。
「まだだ……俺はまだ……走り抜けちゃ……」
まだ、クリスを救っていない。
まだ、誕生日を祝っちゃいない。
まだ、未来に託せる国を作っていない。
まだ、やるべきことがいっぱいある。それなのに、こんなところで終わるわけにはいかない。
手の感覚がなくなってきた。体が、鉛のように重い。視界がかすみ、自分がどこにいるのかもわからない。
「ユ……ル……」
最後に立ち止まるのは、彼女たちの傍だと誓ったのに。
泣かせたら許さないと、マレーに言われているのに。
視界が暗くなり、意識が沈んでいく。もう、抵抗する気力もない。
「ごめん……な……」
統暦一〇一二年デサンブルの月、革命の申し子、ヴァン・ピオニエールは死んだ。
遺体は、彼の自宅前で発見された。そこまでの道に刻まれた血の跡は、最期のあがきの跡であった。
だがその努力が、不幸な第一発見者を生んでしまう。
第一発見者の名は、ユール・ピオニエール。彼の妻であった。
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