第四章 革命の嵐

ルフォー砦は、過去の戦いの遺産である。無骨な石造りの砦は、当時難攻不落といわれ、外敵の侵入を幾度となく防いできた。ただ完全に機能を失ったわけではなく、兵が常駐し、武器も保管されている。

 とはいえ、現在はその威光も陰り、壁などにも苔や雑草が目立つ。

 今日も兵士たちは秋の青空の下、来るはずもない外敵を待ち受けていた。

「あ~あ、なんでこんなところを守らなきゃいけないのかねぇ」

 砦は、サントリアの街から街道に出て、一時間ほど歩いた場所にある。周りにはほかに建物もない。誰かに見られる心配もなく、兵士たちもどこかだらけていた。

「ここを抜かれれば、サントリアは目と鼻の先だ。我らは文字通り、最後の砦なんだぞ?」

「そりゃ、抜く相手がいればって話だろ? そもそも、俺たちがいるのは、サントリア側だぜ? 一体全体誰が攻めてくるんだっての。あ~あ、俺も王宮の警備とかを担当したいぜ。それでこそ、騎士の本懐ってもんだろ」

「騎士という身分は、もう存在しないがな」

 男の言うように、ローワンに職業としての騎士は存在しない。ただ、国家に多大な貢献をした人物には、王家から騎士の称号が与えられる。

すなわち騎士とは、国家に尽くす人間にとっては、一つの目標なのだ。その憧れからか、軍人などには騎士道精神にあふれた者も多い。

「夢がねぇなぁ。たしかに最近は、大きな事件もなくて、騎士の称号を冠する人もいないけどよ……」

 あくびをしながら、なんとはなしに遠くを見やる。すると、何か黒い塊が、砦に向かってきているのが見えた。

「んん……? ありゃなんだ?」

 距離が近づいてくる。どうやら、人の集団らしいが。

「商団か?」

「いや、それにしたって数が……」

 さらに近づいてくる。

走ってくる人間のほとんどは、ぼろい衣装に身を包んでいる。手には、鍬やこん棒、はては包丁など、様々な道具を持っていた。

「なんだ、ありゃあ……?」

 そこで兵士たちは、各地で起こっているという民衆の暴動を思い出した。

「まさか、この砦を?」

「ばかいえ、こんな砦を攻撃して何に――」

 そのとき、兵士の視界を何かが遮った。気づいた時にはもう、それは目前まで迫っていた。

 平和に染まっていた頭を覚まさせるように、鈍い衝撃が頭に走る。固く重い何かが、ごとり、と落ちる。

「ぐわぁぁぁっ!」

 兵士の慟哭がこだまする。自身を襲った物体に目をやれば、それの正体は袋に詰められた石であった。

 それが次々に、見張り台に立つ兵士めがけて投げ込まれる。

「くそ……くそ……なんなんだよ、これはぁぁぁっ!!」

 兵士の叫びは、襲い来る民衆の声にかき消される。

 こうして、革命ははじまった。夏とまちがうような、暑い秋の日のことだった。


 ルフォー砦に迫る民衆の後方で、ヴァンはマレーと共に指揮をとっていた。

「戦況は?」

 ヴァンはきちんと鎧を着こみ、馬にまたがっている。民衆の中でそんな出で立ちのものは彼ひとりであり、狙われる危険性もあったが、それ以上にシンボルとして味方を鼓舞する効果があった。

「ほぼ想定通りだ。砦の守備隊の対応も遅れている」

「クリスの仕込みがきいてるってわけか」

 砦の中では、こちらに賛同した兵たちが、指揮系統を乱すように立ちまわっているはずだ。

「それに、こちらの息がかかっていない兵たちも、民衆を手にかけることにはためらいがあるらしい。日ごろの騎士道精神が裏目に出たな」

「そうか……」

 見張り台の兵士の叫びは、ヴァンの耳にも届いていた。こちらに死者は出ていないが、兵士のほうにはすでに死者も出ているようだ。

「気の毒だが……こっちにためらいはない」

 むしろ、少しでもためらえば、きちんとした訓練を積んでいる軍人たちには、押しかえされてしまうだろう。

 民衆が勝つには、心を鬼にするしかない。

「――よし。俺も前に出る。あとは頼むぞ、マレー」

「大丈夫なのか?」

 ヴァンの乗馬は、クリスに習ったものだ。とはいえ、これまで一〇年近く利用することはなかった。それに、鎧を着ることだってはじめてだ。彼のここ数日は、これらに慣れることに費やされていた。

「なんとかするさ。俺は、背中で引っ張ってなんぼだからな」

 人々を掻き分けるように、ヴァンは前線へと躍り出る。その動きだけで、市民の士気は明らかに上がった。

「さぁ! 誰かが変えてくれるのを待つんじゃない。俺たちの手で、国を変えようぜ!」

 おおーっ! と一際大きな鬨の声があがる。

「いい気合だ! この砦を、俺たちのものにするぞ!」

 大声を張り上げるたびに、体の奥底からこみあげてくるものを、ヴァンは感じていた。

 気を抜けば、吐血してしまいそうだ。シオンの薬がなければ、動くことすらできなくなっているのではないか。最近は、そんな思いに駆られる。

 だが、そんな弱みを見せるわけにはいかない。

 自分は、英雄にならなければならないのだから。

「進め! 俺たちで、革命を成し遂げるんだ!」

 英雄は、力の限りに叫ぶ。親友と神に与えられた命を、燃やし尽くすように。

 人々は、迷いなく進む。自分たちもまた、英雄なのだと信じて。

 兵士たちは、訴える。こんなことをすれば、後には退けなくなると。

 それぞれの声は混じりあい、青い空へと溶けていく。

 革命は、もう止まらない。


 ルフォー砦が陥落した知らせは、夜のうちに王宮に届いていた。クリスはそれを持って、王の寝室を訪れた。

「父上。民衆の攻撃で、ルフォー砦が陥落しました」

 すでに床についていた王は、不快気に眉をゆがませた。

「なにぃ、反乱だと? 雑草どもが、生意気なことを……」

 寝ぼけているからこそ、本音が出てしまったのだろう。クリスは沸き上がる怒りをこらえつつも、自らの意見を口にする。

「いいえ、父上。これは、革命です」

「……革命、とな?」

「父上。彼らは、声を聞いてもらうことを望んでいます。どうか、耳を傾けてはいただけませんか?」

 いったい、父がどんな反応をするのか。王太子は目を光らせる。

 今、民衆と話し合うことを決意してくれれば、被害は少なくて済む。

「……くだらん。クリストフ。軍を率いて、蹂躙しろ。二度と、夢を見る気すら起きなくなるよう、徹底的にな」

 思わず、叫んでしまいそうだった。拳を握りしめ、奥歯をかみしめ、こらえる。

 そうか。やはり、そういうつもりなのか。そうくるのなら、それでもいい。こちらの覚悟は、すでにできている。

「……承知しました、父上」

 表面では恭しく頭を下げ、部屋を辞する。

「……どうでしたの?」

 部屋の外では、レイナが待っていた。手に持ったランプに照らされた顔には、不安が満ちている。

「僕に暴徒を鎮圧するように命令してきたよ。結局は、戦うしかないってことさ」

 自嘲気味に笑うクリスに、レイナは気の毒そうな視線を向ける。

「どうするのです? まさか、本気で戦う気ではないですよね?」

「当然さ。せっかく灯った革命の火を絶やしたりはしない」

「でも……お父様にどうやって報告を?」

 例によって、レイナの陰に隠れていたフィオナがおずおずと口を開いた。そんな彼女に、クリスは努めて優しい笑みを見せる。

「たいした問題はないよ。てきとうに報告して、期間だけ伸ばしておくさ」

「……それで大丈夫?」

「大丈夫さ。父上は、王宮の外のことなど、興味がないんだ。だから、こんな事態になった。今回ウソをついても、いきなりバレるようなことはないさ」

自らの父でありながら、どこか小ばかにしたように語る。

「あなたがそう思うのなら、私たちはそれについていくだけですわ。どうか、御心のままに」

「……ありがとう」

 革命は、着実になし遂げられようとしている。しかし、クリスにとってはそれは同時に、己の立場を危うくすることでもあった。いまだに、不安がないわけではない。

 それでも、この国が変わるのなら――。

 かすかに揺れるランプの灯に、クリスは己を見出していた。


 厚い雲が空を覆い、どこかまとわりつくような寒さ漂う秋の日。

 サントリアの町は、ルフォー砦から程近いはずだが、戦いの影響はほとんど見られなかった。多くの人々は今日も、いつも通りの朝を迎えていた。

 シオンもいつものように診療所に来て、新聞を開き、ようやく昨日の事件を知った。

「ヴァン……本当に……」

 てっきり、マレーが止めてくれるかと思ったが、彼もまたヴァンの野望に手をかしたらしい。むしろ、自分がかやの外なのが、悲しく思えてくる。

 とはいえ、親友の活躍がうれしいのも事実だ。新聞には、ヴァンを英雄視するような文言が躍っており、それを見るのはなんとなく面映ゆい。

 ただ、そう喜んでばかりもいられない。今後の展望を議論する記事を見たとき、シオンの表情は曇った。

 そこには、この革命が王族の排除までいくのではないか、ということが書かれていた。

 一方で、民衆が敗北すれば、ヴァンたちの処刑は免れないとも書かれている。

 もし、どちらかが死ぬまで、この戦いが終わらないのだとして。

 そのどちらかを処刑するのは――。

 新聞を持つ手に力がこもり、ぐしゃぐしゃにしてしまう。

「ヴァン……クリス……」

 ふと、窓の外に目を向ける。

 うずくまるものも、職を求めるものも、食料を奪い合うものたちも、もうそこにはいない。

 相変わらず貴族の馬車は、せわしなく道を駆けて行く。

 だが、それを追うように民衆たちもまた駆けて行く。中には、石を投げたりするものの姿もあった。

 以前は、王族や貴族の支配は絶対的なものだった。その意識が、ヴァンたちの活躍で変わったのだ。

 変化が早いのは、それだけ不満がたまっていたということだろう。

 しかし、これは――。

 先ほどの貴族は、馬車から引きずりおろされ、市民の袋叩きにあっている。それを止めるものはなく、むしろはやしたててさえいる。

 そうした光景に、シオンは妙な寒気を覚えていた。


 王国軍が退いたルフォー砦からは、革命に参加した市民たちの笑い声が聞こえてくる。

 軍に勝利して気を大きくした彼らは、わざわざ町から食べ物や酒を持ってきて、宴会に興じていた。

 だが、ヴァンはそれを早々に切り上げ、砦の一室でベッドに腰かけ、黙然としていた。

 どうにも、みんなと一緒に騒ぐ気分にはなれなかった。

 ノックの音がする。中に入るよう促すと、マレーが入ってきた。その手には、木製のカップが握られている。

「どうした? 君らしくもない。こういうときは、誰よりも騒ぐものだと思ったが」

「……そんな気分になれなくてな」

 軽口に乗ってこなかったためか、マレーがいぶかしげな視線を投げてくる。

「どうした? 体の調子が悪いのか?」

「……いや、そういうわけじゃねぇ、と思う。なんつーか、自分でもよくわからねぇんだ。俺のこともわかんねぇけど、みんなのことが、もっとわかんねぇ」

「なんだ? 騒いでるのが、気にくわないのか? 酒場の主人とは思えんな」

 マレーは冗談のつもりで言ったのだろうが、ヴァンはその言葉に腹が立って仕方なかった。ほとんど無意識に、ベッドに拳を振り下ろす。

 それを見た親友は、目を丸くする。

「……革命ははじまったんだ。なのにどうしてみんな、こんなすぐに立ち止まっちまうんだよ。一度始まったら、最後まで走り抜けないとだめだろ! 俺たちには、時間がないんだ!」

 今回ヴァンたちの奇襲がうまくいったのは、クリスが手をまわしてくれていたのと、それ以上に相手が油断していたからだ。

 そうでなければ、数で勝るとはいえ、民間人が軍人に勝てる道理はない。

 つまりこちらが勝つためには、相手に準備をさせないことが大切なのだ。それなのに今、みんなは時間を無駄に浪費している。それが、理解できなかった。

「……君の言っていることもわかる。だが、戦闘のプロでないからこそ、適度な休息も必要なのではないか? 私にはむしろ、君が焦りすぎて見えるがな」

 マレーの言葉に、ヴァンは寂しく笑う。どうしようもないずれを感じた。

「一度の戦いなら、時機が良ければ勝てる。だが、最後まで勝ち続けるには、いくら奇跡があっても足りない。どうしても準備の時間が要る。この先の戦いは、ずっと時間との戦いだ。時計の針が大勢の命の行方を刻んでいるんだ。カチ、カチ、ってな。この音が止まったら、俺たちはみんな死ぬんだ。そういう感覚、わかるか?」

「それは……」

「無理すんなよ。わからないほうが、自然なんだ。俺だって、理解されようなんざ思ってねぇ」

 親友に背を向けて、ヴァンは歩き出す。少し、外の風に当たりたかった。

「理解されなくても、俺は駆け抜けるだけさ。途中で倒れる気なんて、さらさらない」

 マレーはまだ何か言いたそうだったが、ヴァンは足を止めなかった。今は、何を聞いても受け入れられそうにない。

 砦の見張り台に出る。夜にもなると、この時期はさすがに寒い。コートを着てこなかったのを、後悔する。ふと上を見上げると、黒に染まった空には、たくさんの星が瞬いていた。この辺りは灯りがないためか、特によく見える。

 何か吸い込まれそうな光景に、流れ星でも見えそうな気がした。だから、願い事を口にする。

 ――どうかまだ落ちてきてくれるな、と。


 ルフォー砦の周りは、青々とした平原が広がっている。苔を生やし、その自然と一体化しつつあったルフォー砦の姿は、長く続く平和の象徴ともいえた。だが、今では砦前の地面に剣や槍が突き立ち、砦の上からは殺気だった男たちが目を光らせている。その様は、かつて難攻不落と呼ばれたころと重なった。

 ルフォー砦が陥落してから三日。そのわずか数日で、砦はかつての威光を取り戻してしまったのである。

 マレーは軍議に使われていた部屋を使い、ローワンの地図を広げていた。そして、時折入ってくる伝令の話を聞いては、地図に赤いバツ印を記していく。

「これで二〇か所目か……」

 ルフォー砦の陥落に呼応するように、ローワンの各地で、民衆による暴動が次々と起こっていた。

 別に、示し合わせたわけではない。ただ、予想はできたことだ。ローワンの国民の不満は、すでに頂点に達していた。しかし、行動を起こす者が少なかったのは、支配階級には勝てないという長年のすり込みがあったからだ。

 ルフォー砦の陥落は、その思い込みを破壊した。そして、燻っていた不満が、一斉に爆発したのだ。

 これまでは散発的だった暴動は、もはや一つの大きなうねりとなった。

 そして、ルフォー砦の一団は、その象徴となりつつあった。最近では、近隣から合流してくる者たちもいる。

 だからこそ、軍がこの流れを止めるには、ここを奪い返すのが最も効果的なはずだ。けれども、軍は、それをしない。

 むしろ彼らは散発的に起こる小規模な暴動に、その戦力を割いている。

 その愚かな指揮をとっているのは、クリスらしい。そのおかげで彼は、暗愚な王太子として囁かれつつあった。

 彼の本心を察することができるマレーとしては、そのように評されるのは複雑だ。

「しかし……これでもだめか……」

 マレーたちは、暴動が激化すれば、王は国民の声を聞くための場を用意すると読んでいた。そのための説得も、クリスがするはずだった。

 だが、いまだに使者などが来ないところを見る限り、王は国民の声に耳を傾ける気はないらしい。

「――話し合う気がないのなら、徹底的に叩き潰してやればいい」

 いつのまにか、部屋にやってきていたヴァンが言い放つ。その顔は、どこか青白かった。

「ヴァン……」

 ここのところのヴァンの態度に、マレーは危機感を覚えていた。ルフォー砦の陥落以来、どうにもヴァンは攻撃的になっている。原因は、病から来る焦りだろう。しかし、それにしたって、極端な気がした。

「まさか……トロンヌ王宮に攻め込むとでもいう気かい?」

 軍には、クリスが手をまわしてくれているとはいえ、さすがに王宮の守りは堅い。人数が増え、武器も手に入れた今ならば、ある程度戦うことはできるかもしれないが、それでも数え切れないほどの犠牲者が出るだろう。

「まさか、じゃねぇよ。王を動かさなきゃ、革命は終わらない。だったら、トロンヌ王宮を攻めるのは、当然のことだろ」

「だが、トロンヌ王宮の戦力を考えれば、どれだけの犠牲が出るか」

「国を変えるんだ。みんな、多少の犠牲は覚悟のうえさ」

「本気で……言っているのか……」

 マレーは体を震わせた。あのヴァンが、そんなことを言うのが、信じられなかった。

「冗談なんて、言うわけないだろ? 王が交渉の意思を見せないときには、徹底的に戦う。これは、クリスも望んでいたことだ。俺は、やるぜ」

 この男はきっと、死の覚悟なんてすんでしまっているのだろう。それを、周りにも強いるというのか。

「……誰もが、君のような覚悟を持っているわけじゃないぞ」

 ヴァンは、革命を志す者たちの間では、英雄視されつつあった。それでも、憧れの気持ちだけで、民間人が命まで捨てられるものだろうか。

「そうかもな。だけど、ここにいる連中は違うさ」

 友人の自信めいた笑みに、マレーは眉根を吊り上げる。彼の思い通りに進むはずがない。

マレーにも、別の確信があった。


 太陽が顔を見せ、その暖かさで頭と体が目覚め始めた頃、革命を志す者たちはルフォー砦の正面に集まっていた。彼らの視線の先には、演説用の台が用意されていた。

 そこに上ったヴァンは、彼らを前に、トロンヌ王宮への進軍を宣言した。

「今、この国では俺たちと志を同じくする者たちが、各地で立ち上がっている! 彼らは、俺たちのために、王国軍を引きつけてくれているのだ! わかるか! 俺たちは、彼らの思いに応えなくてはならない。恐れるな! たとえどれだけの屍を積み上げることになろうと、正義は俺たちのもとにある!」

 一瞬の静寂が訪れる。ほら見たことか、とマレーは思った。

 彼らは、やはり民間人だ。死の覚悟など、できるはずがない。それに、ヴァン自身、まだそこまで英雄視はされていまい。

「う……うおおっ! やってやるぜーっ!」

 が、民衆から上がった声は、予想に反するものだった。

「な……」

 同志たちは、口々にルフォー砦に攻め込む意思を見せた。その声はしだいに大きくなり、秋空に吸い込まれていく。

 まさか彼らは、死ぬのが怖くないとでもいうのか。

 目を丸くしてみていたが、そんなことはない。彼らの足は、震えていた。

 みな、死を恐れているのだ。それなのに、なぜ。

「……そうか、これは君の力か」

 足を震えさせながらも、彼らが輝く瞳で見つめる先には、一人の英雄――ヴァン・ピオニエールがいる。

 まだ、ヴァンは英雄たりえていないと思っていた。だが、彼はすでに英雄となっていたのだ。

「一緒にいたのに。すごく、遠いな……」

 なぜか急に、ヴァンがはるか遠くの人になってしまったような気がした。誰も、自分のほうなど見向きもしない。別に英雄になりたいわけではないが、どうしてここまでの差がついてしまったのだろうか。

「いや、それも当然か……」

 マレー自身は、理想を語っていたに過ぎない。それは美しいことであったが、同時に弱さを示した。

 ヴァンは、自ら先頭に立って、行動してきた。それは自らの手を汚すことであったが、同時に強さを示した。

 英雄とは、誰よりも汚れた存在のことをいうのかもしれない。

 だとしたら、自分が汚れるのは、いつか――。

 いま、マレーは英雄になりたいわけではなかった。けれども、やがて来るだろう友人の死を無駄にしたくない気持ちは、持っていた。


 いよいよ、革命軍が動き出す。その噂はサントリアの町を駆け巡り、人々を沸き立たせた。だがその熱気は、王宮には届いていなかった。

 トロンヌ王宮は、ルフォー砦からサントリアの町を抜けた先の、小高い丘の上にある。一応、町を見下ろせるようになっているが、その様子を窺い知ることは、ほとんどできない。

 窓から見えるサントリアの町を見つめながら、クリスは嘆息した。

 どうにも、人々の生活が遠い。これならば、マニフィケア宮殿のほうが、民の生活に寄り添うことができる。あの宮殿は、郊外ではあるが、町の一部となっている。

「ヴァン……君たちはどう動く?」

 ルフォー砦の陥落から、三日がたっている。この間、クリスは父に話し合いを勧め続けたが、それは叶わなかった。ヴァンたちのほうでも、それは理解できているはずだ。

「それでも、待ち続けるか。それとも……」

 このトロンヌ王宮を攻めるか、という言葉は、口にできなかった。

 覚悟はしているつもりだ。それでも、ためらいはあった。

 自分は、どんな目にあっても構わない。だが、レイナやフィオナに危害が及ぶのではないか、という心配があった。

 彼女たちはその覚悟もあると語るが、やはり彼女たちだけでも安全な場所に逃がしておくべきだろうか。

 だが、レイナとフィオナはそれを拒むだろう。それならば、その意思は尊重すべきだと思う。

 しかし――、とクリスはそんな思考の堂々巡りを繰り返していた。

「……ん?」

 何気なく町を眺めていると、妙なことに気づいた。

 ――町が、動いている。

 いや、違う。そんな錯覚を覚えてしまうほど、人があふれているのだ。そして、その人の群れは、サントリアの大通りを進み、こちらへと、トロンヌ王宮へと向かってきている。

 先頭を歩くものだけが、馬に乗っている。その顔は見えなかったが、クリスにはその人物の正体がわかっていた。

「これを、彼が……。まさか、ここまで……」

 思わず、体が震えた。それは親友の底知れぬ器への、恐怖だったのかもしれない。

 ほとんど、自分は力を貸していない。ただ、きっかけを与えただけだ。

 それだけ、たったそれだけなのに。

 あの男は、たった一人でこの国を変えるというのか。

「もし、英雄がいるのなら、君のような者が、そうなのだろうな……」

 そういえば、昔から彼は突出していた。はじめてヴァンたちの学びの場である〈アヴニール〉に参加したとき、クリスは当時学んでいた書物を彼らに見せた。すると、ヴァンだけがそれをその場で理解してしまったのだ。クリス自身ですら、理解するのに一週間はかかったというのに。

「まったく、君というやつは……」

 そのとき、廊下のほうから足音が聞こえた。慌てながらも、なお尊大な歩調。誰かは、すぐにわかる。

 部屋の扉が乱暴に開かれ、現王ロワ一五世が入ってくる。鼻息は荒く、その顔には焦りがにじんでいる。

「クリストフ! あれはいったいどういうことだ!?」

 慌てた様子の父に、クリスは嘆息した。

 ――本当にあなたは、何も知らないのですね。

「各地で暴動が起きているのは、ご報告申し上げていたはずです。私が、その鎮圧を行っていたことも」

 努めて冷静に、淡々と答える。それが気に障ったのか、父王は顔を紅潮させた。

「ふざけるな! 鎮圧できておらんではないか! 今すぐ軍を率いて、やつらを蹴散らして来い!」

「……無駄ですよ、父上。いまさら、あれを止めることはできません」

「なんだと……? 貴様、王族が雑草ごときに膝を屈するとでもいうのか!?」

 血管の一つでも切れそうな勢いで、ロワ一五世はまくしたてる。しかし、ロワ一六世となるはずの男は、寂しげに笑う。

「ええ、その通りですよ父上。ラフィーヌ家が一〇〇〇年守り続けた王国は、たった一人の庶民の手によって、崩れ去るのです」

 昔から、腐りかけていたこの国を変えるのが夢だった。その夢はまもなく、叶おうとしている。

 だから、喜んでいいはずなのに。

 自分がどれだけ努力しても、叶えられなかったその夢を。

 あの男は、こんなにもたやすく叶えてしまう。

 そのことが、たまらなくくやしかった。

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