第三章 決意

 夏らしい蒸し暑さを感じる朝。いつも通りシオンは、診療所へとやってくる。その手には、クリスから届いた医学書の翻訳が握られていた。

 中に入り、机の上でそれを紐解いたシオンは、小躍りした。

 そこには、肺の病にきく薬の調合法が綴られていた。ただしそれは、症状を治すものではなく、進行を遅らせるにすぎない。

 それでも、これまで何の成果も得られていなかった彼にとっては、十分すぎる情報であった。

 幸い、材料も診療所にあるもので足りる。

 シオンはさっそく薬を調合し、ヴァンの家へと向かった。当然、託された手紙も忘れてはいない。

 しかし、かわりにやってもらいたいことというから何かと思えば、ヴァンに手紙を渡すことだとは思わなかった。

 いったい、どんな内容の手紙か。もちろん気になるが、さすがに中身を見るわけにもいかない。

 子供じみた好奇心をおさえながら、シオンは石畳を軽やかに駆けていった。


 早朝の仕込みを終えたヴァンは、軽く伸びをした。ユールたちが起きるにはまだ時間がある。

 彼は、てきとうなイスに座り、新聞を開く。

 国の未来は心配ない、などと情報操作が明らかなものには目もくれない。彼が見ているのは、各地で起こっている若者たちの暴動に関する記事であった。散発的で、規模もそれほどではないため、すぐに鎮圧されてしまっているらしい。

 それでも、たしかに世の中には、立ち上がっている者たちがいる。それなのに自分は、何もなさずにいる。

 このままでいることを、ユールは望んだ。

 しかし、本当にこのままでいいのか。

 ヴァンの思考は、この堂々めぐりを繰り返していた。

「――っ! ゲホッ、ゲホッ、ゴハッ!」

 胸からこみあがってくるものをこらえきれず、咳き込む。口にあてた手を見ると、べったりと血がついていた。

「はぁ……くそ……」

 最近、血をともなう咳の頻度が増えている。今のところ、ユールには見られていないが、バレるのも時間の問題かもしれない。

 血を洗い流し、一息つく。

 そのとき、店の扉をノックする音がした。億劫に思いながらも、ヴァンは応対に出る。

「んだよ、開店時間はまだだぜ?」

 扉を開けて、ヴァンは驚いた。そこに、シオン・コンダーナが立っていたからだ。

 彼は息を切らしながらも、どこかうれしそうにしている。

「……どうした? シオン」

 ヴァンは、かすかに心が高鳴るのを感じた。シオンがわざわざ訪ねてきたのだ。彼の性格を考えれば、何もつかんでいなければ、そんな行動には出ないだろう。

 その思いに応えるように、シオンは口元をほころばせる。

「進展があったよ、ヴァン……!」


 ヴァンはシオンを店に招きいれ、クリスとの経緯を聞いた。そして、シオンの調合した薬とクリスからの手紙を受け取る。

「それで病の進行はかなり遅らせることができるはずだ。……治す、とまではいかないけど。でも、それで時間が稼げれば、また新しい方法が見つかるかもしれない」

 十分ともいえる成果をあげてなお、申し訳なさそうにするシオンを見て、ヴァンは感謝の念が絶えなかった。

「……すまない。本当にありがとう、シオン」

 すでに死は覚悟した身だ。それならば、一日でも長く生きることが、ヴァンにとって最大の望みだった。シオンは、それを叶えてくれたのだ。

 男の意地で、涙は見せなかった。けれども思いは伝わったのか、心優しき友は静かに頷いた。

「それで、こっちのクリスの手紙は?」

 いつまでも感謝をしているのも照れくさいので、話題をきりかえる。

「僕も中身は見ていないよ。クリスも、まず君に見て欲しいといっていたから」

 ということは、ユールにも見せるなということか。

 軽く二階を一瞥する。特別物音はしない。まだ、起きていないのだろう。

「ユールは二階?」

 このあたりの住宅は、二階建てのものがほとんどで、一階を商売に利用し、二階を居住空間とする場合が多い。ヴァンの家も、その例に漏れない。

「ああ。もうそろそろ、起きてくる時間かな」

「……病気のこと、ユールには?」

「まだ話してねぇ。なかなか切り出しづらくてな……」

 打ち明けるべきだとは思っている。だけどなぜかユールには、弱い自分を見せられなかった。

「……そうか。それなら僕は、そろそろ帰るとしよう」

「すまないな……」

「いいんだよ。もし返事を書くなら、僕のところに持ってきてくれ。薬も、そのときには用意しておく」

「ありがとな……」

 シオンが出て行った中で、ヴァンはくやしさに駆られていた。自分には何もできないのだと痛感した。

 けれど、それでいいのかもしれない。無理に何かをなさなくても、ユールやティフォンと一緒に、穏やかな生活を送れれば、それで。

 机に目をやる。そこには、クリスの手紙があった。

「クリスのやつ……。こんな俺に、何の用だ?」

 静かに手紙の封を開く。そこには、クリスらしい整った文字が綴られていた。

 ――リュイソー川を共に渡ろう。

 手紙には、それしか書かれていなかった。意図が汲みとれず、首をかしげる。

 リュイソー川……リュイソー川……。

 しかし、単語を反芻するうちに、思い出した。〈アヴニール〉にいたころ、クリスがよくしてくれた歴史物語。その中の、英雄リシャールの話だ。その中に、この川が出てくる。

 英雄リシャールは、何百年も前に実在した人物だ。当時圧政を敷いた王家に、わずかな人数で反旗を翻し、戦いを挑んだ人物。戦いの最終局面、孤立無援となったリシャールは、川の対岸に敷かれた敵本陣へ突撃をかけ、あと一歩のところで果てた。彼が死んだその川が、リュイソー川である。クリスは、リシャールと共に川を渡ろうとする同志がいれば、歴史は変わっていたと熱弁をふるっていた。

 この手紙は、きっとそのことを言っているのだろう。では、その意味は――。

 しばし思考し、ヴァンはある結論に思い至った。とたんに、胸の内から、ふつふつと熱いものが沸き上がってくる。

 リシャール自身は戦いに敗れたものの、彼の死をきっかけに、人々は王家に対し、抗議の声をあげはじめた。結果として王家は、税制度などの見直しを余儀なくされた。そこからリシャールは、革命の象徴といわれる。ただ、王家の態度に安心した民衆はそれ以上の行動はせず、そのときの革命は不十分な形で終わったとされている。

 ――リュイソー川を共に渡ろう。

 つまり、クリスはこう言っているのだ。

 自分と共に革命を起こし、今度こそ歴史を変えよう、と。

「ふ……はは、はははははっ!」

 まさか自分に、こんな選択肢が示されようとは、思ってもみなかった。

 まったく、運命はどれだけ自分を翻弄するのか。けれど、それを呪ったりはしない。むしろ、喜ばしかった。

 自分にはまだ、できることがあるのだ。

「ヴァン~? どうしたの~?」

 眠そうな眼をこすりながら、ユールが二階からおりてくる。そんな彼女に、ヴァンは晴れ晴れとした笑みを向けた。

「おはよう、起こしちまったか?」

「どうしたの? うれしそうだね~?」

「ああ、クリスから手紙が来たんだよ」

 クリスという名に反応し、しぼんでいたユールの目が見開かれる。

「クリス君から? え、え? 何が書いてあるの?」

 目を輝かせ、手紙をのぞき込んでくるユール。だが、ヴァンは気にせずに手紙を見せる。

「うわぁ、きれいな字。ねぇ、なんて書いてあるの?」

 気にする必要などないのだ。彼女は、字が読めないのだから。まともに学校に通えない彼らにとって、それは珍しいことではない。ヴァンやマレーは特に熱心に〈アヴニール〉で勉強したり、クリスやシオンから教わったりしたから、それができるのだ。

 ユールは、文字の勉強にそれほど熱心ではなく、「ヴァンが読んでくれるよね~」というのが口癖だった。

「ティフォンが生まれたことへのお祝いだよ。そういえば、あいつにも教えてなかったな。きっと、シオンあたりから聞いたんだろ」

「そっかぁ。うれしいね~」

 ニコニコ笑うユールを見ても、ヴァンは罪悪感を抱かなかった。それ以上に、彼の心は革命の二文字にとらわれていた。

「返事……書かないとな」

 ヴァンの目は、国の未来を見据えてギラついていた。


 連日の暑さも和らぎはじめ、一か月もする頃には、秋の心地よい涼しさを感じるようになった。その間、ヴァンとクリスは手紙をやりとりし続けた。

 ヴァンは返事を書くたびに、シオンにそれを渡し、シオンはそれをクリスに届けた。正確には、彼と通じている人物に、だ。

 その人物がフィオナであったときには、シオンも驚いたが。

「でも……驚いたよ。君が、こんな役目を引き受けるなんて」

 ただ、ある意味ではいい人選であった。人前で自己を主張できない彼女には、シオンも親近感を抱いており、二人きりだと気さくに話すことができた。

「……私も、兄様たちの役に立ちたいから」

 それは彼女も同様らしく、シオンの前ではいつもより口数が多い気がする。もちろん、クリスを除けばだ。

「それは僕も同感だ。だけど君は、外を出歩いても大丈夫なの?」

 彼女とても王族だ。そう簡単に外に出ることはできないのではないか。

「……大丈夫。私は、いらない子だから。お父様は、私のことなんて忘れてるの」

 淡々とそれを述べるフィオナに、シオンは眉をゆがませた。

「それは……」

「いいの。気にしてない。兄様は、こんな私にも優しくしてくれる。だから、私は兄様のためになんでもする。それだけ」

 彼女を励ます言葉を、シオンは持ち合わせていない。彼にできるのは、ありのままの彼をさらけ出すことだけ。

「……僕も同じだよ。こんな血塗られた僕に、ヴァンたちは優しく接してくれる。だから僕も、彼らの力になりたい」

「……私たち、似てるね」

 かすかに、フィオナが笑う。彼女はきっと、クリスに全幅の信頼をおいているのだろう。シオンだって、同じ思いだ。だけど――。

「……フィオナは、クリスたちが何をやろうとしてるのか、知ってる?」

「知らない。そんなことは、どうでもいい」

「そうかもしれないけど……本当に、それでいいのかな?」

 シオンの疑問に答えることはなく、フィオナは背を向ける。

「……やっぱり、私とシオンは違うみたい」

 迷いなく去っていく彼女の背中を、シオンはただ見守っていた。


 ヴァンの酒場を訪れていたマレーは、微妙な違和感を覚えていた。

 近頃、この酒場の客の顔ぶれが変わっている。以前から、若者が多い店ではあった。けれども、今店にいるものたちは、なにか独特の熱気を持っている。

 ヴァンは、その若者たちとなにやら熱心に話し合っており、マレーのほうに目もくれない。

 ――なにかあった。

 敏感にかぎつけたマレーは、眉間の皺を深くした。

「やっぱりマレー君も、なにかあったと思う?」

 突然ユールに問われ、マレーは少しだけ驚いた。

「……よくわかったな」

「見てればわかるよ~。……ヴァンもいっしょ」

 普段はのんびりした彼女だが、実は感情の変化などに人一倍鋭い。本当は、ヴァンの病気にも気づいているのではないか。そんなことすら、思ってしまう。

「何かあったのか?」

「ん~、何日か前だけどね、クリス君から手紙が来たんだ。それを見てから、ちょっと怖い顔をするようになったかな」

「……手紙? それも、クリスから?」

 それは珍しすぎる、とマレーは考え込んだ。これまで、クリスから連絡をとってくることなんてなかった。それが、どうして突然?

「その手紙の内容は?」

「え~っと、ティフォンが生まれたことを知って、お祝いしてくれたんだって。きれいな字で書かれてたよ?」

「手紙を見たのか?」

「うん。でも、私は字が読めないから、内容はヴァンに聞いたんだけどね」

「そう……か」

 ユールに見せたということは、内容にやましいところがなかったからか。それとも、そのようにごまかすためか。

 マレーはヴァンに視線を送る。彼は会話に夢中になっていて、気づかない。

 彼は、きちんと周囲に気を配ることができる男だ。そんな彼が、自身を見つめる視線に気づかないとは。

「クリスは、ティフォンのことをどうして知ったんだ?」

 マレーの記憶によれば、手紙のやりとりも最近はしなくなっていたはずだが。

「シオン君から聞いたんじゃないかって、ヴァンは言ってたよ? そういえば最近、シオン君のところによく出かけるんだよね~。やっぱり、久しぶりに会うと楽しくなっちゃうのかな。それに、クリス君とも、手紙でやりとりしてるみたい」

「手紙のやりとりを?」

「紙が減ってたからまちがいないよ。奥さんは、そういうのもきちんと見ているのです」

 いよいよもって妙だ。ヴァンは字が書けるが、あまりうまくない。彼はそれがコンプレックスらしく、進んで手紙を書こうとはしないのだ。

「……崩すなら、シオンのほうか」

 ヴァンは、そう簡単にぼろを出す男ではない。逆にシオンはそれほど隠しごとがうまいタイプではない。

「マレー君?」

 不安そうにしているユールに、マレーは笑いかける。他人にはほとんど見せない笑み。

「なに、心配はいらないだろう。ヴァンが君やティフォンを泣かせるようなことを、するはずがない」

 それは、自分へ言い聞かせる言葉でもあった。そう信じさせてほしかった。

「うん、そうだよね。ありがとう。マレー君に聞いてもらって、なんだか楽になった」

 ユールの表情から力が抜けたのを見て、安心する。

「では、私は行くよ。また来る」

 ヴァンには挨拶することなく、マレーは酒場を後にする。そして彼はその足で、シオンの診療所へと向かった。


 町の中央通り。大きな商店の立ち並ぶ中に、シオンの診療所はある。建物自体は小さく、両側を大型の商店に挟まれていることもあり、知らない人が見れば、物置小屋のように見えてしまうかもしれない。

 診察を求める患者もいなくなり、シオンの診察所は静けさに包まれていた。

 だが、その空気はどこか怒気をはらんでいる。その原因は、今さっきやってきた男だ。

 シオンは、ムスッとした顔のマレーを前に、困惑していた。

 もともと、マレーとはあまり相性が良くない。彼は、仲間の中ではシオンの職業を気にするタイプだったからだ。

 だから、彼が積極的にかかわってくることはなかったのだが、なぜ突然自分のもとへやってきたのか、見当もつかなかった。

「……最近君は、ヴァンとよく会っているらしいな」

 マレーの責めるような口調に、シオンは不快さを覚えた。まるで、後ろめたいことをしているかのような言い方だったからだ。

「会ってるけど……それがなに?」

 友達どうしが会うことの、何が悪いというのだ。

 そんな言外の意図をこめて返す。マレーの表情は、微動だにしない。

「君は、ヴァンたちが何をたくらんでいるのか、知っているのか?」

 たくらむ、という不穏なワードに、シオンは眉根を寄せた。

「また穏やかじゃない言い方だな。ヴァンたちが悪いことをするとは思えないけど」

「君は盲目だな。それなら君は、彼らの手紙の内容を知っているのか?」

 マレーの指摘に、視線が泳ぐ。シオン自身、気になってはいた。だが、それを見てはいけないと自らを律していた。

「今、手紙を持っているか?」

 射貫くような視線に見つめられ、汗が頬を伝った。今、シオンはクリスへの手紙を、ヴァンから預かっている。そしてそれは、机の引き出しの中にある。

「……そこか」

 ぴくり、とシオンの右手が震える。自分でも気づかぬうちに、手を引き出しに伸ばしてしまっていた。

「シオン。私もヴァンたちのことは信じている。だが、彼らが危険なことをしようとしているのなら、友としてあいつを止める」

「そんな……」

 まさか、そんな大それたことをヴァンたちが考えているなんて、シオンには思えなかった。

「やるさ、あいつなら。それが、ヴァン・ピオニエールという男だ。特に今のあいつは、何をするかわからない。……あいつが死ねば、悲しむ人間もいるというのにな」

 マレーもヴァンの病を知っているのだ、とようやくそこで理解する。たしかにヴァンならば、死を前に何かをなそうと無茶をするかもしれない。そして、そのとき悲しむのは。

「ユール……」

「それだけじゃない。君は知らされていなかったのだろうが、彼らには子供がいる」

「――っ!」

 シオンは、息を詰まらせた。

 きっとヴァンは、自分のプレッシャーにならないよう口を閉ざしていたのだろう。

「あいつはもともと、国の未来をよく考えていた男だ。そんな男に、子供が生まれた。そのときにあいつがどんな行動に出るか、君だってわかるだろう?」

 答えは簡単だった。ヴァンならば、何かしらの行動を起こすはずだ。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 不意にシオンの中で、不安が頭をもたげた。

 ――いったい、彼らは何をやろうとしているのだろう。

 クリスやヴァンは、自分とは違う特別な人間だ。どうせ自分には、彼らがやろうとしていることなんて理解できない。

 だから、考えることから逃げていたのかもしれない。

「……見せてくれるな?」

 マレーの問いかけに、シオンは無言で手紙を差し出す。マレーは注意深く、その中身を見た。

「……やはりな」

 手渡され、シオンも中身を見る。そこには、ミミズのはったような、けれども熱意に満ちた文字が綴られていた。

 それには、ヴァンとクリスが革命をもくろんでいること。そして、その手始めとしてルフォー砦を狙っていることが書かれていた。

「これは……」

 二人の考えは、完全にシオンの予想を超えていた。愕然とする彼をよそに、マレーは平然と振る舞っていた。

「……やはりか」

「君は、わかっていたの?」

「……時が来た、といったところだろうな。これで、私のやるべきこともはっきりした」

「何をする気?」

「ヴァンを止める。あいつのことだ。この革命の先頭に立ち、命を燃やし尽くす気だろう。そんなことは、絶対にさせない」

 ヴァンの病状は、このところ安定している。このまま穏やかな生活を続ければ、完治は望めなくとも、それなりの時間をユールたちと過ごすことができるだろう。

 だけど、それをよしとしないのが、ヴァンという男だ。無茶をすれば、命を削ることぐらい、彼だってわかっているだろうに。

 ――医者として、止めなくてはならない。

 シオンもまたそう思ったが、体は動かなかった。

 ――友人として、やりたいことをやらせてやるべきではないか。

 それに、ヴァンたちがなそうとしていることに、まちがいがあるはずない。そんな思いが、シオンの思考を鈍らせていた。

「……君はどうする?」

 シオンの悩みを見抜いてか、マレーが問いかけてくる。

「……僕は」

 それ以上、言葉を継げなかった。それだけで、マレーはすべてを察したらしい。

「……わかった」

 立ち上がり、診療所を出て行こうとするマレー。彼は去り際に、ある言葉を残した。

「――シオン。ヴァンとて人間だ。ときには、まちがいも犯す。だから、考えることをやめるなよ」

 そう言い残し、街灯の灯りの中に消えて行くマレーの背を、シオンは呆然と見送っていた。


 ちょうど、同じ頃。秋の夜の冷たい風に身を縮めながら、人々は家路についていた。

 こう寒くちゃ、酔いつぶれて道で寝るわけにもいかん、と常連客たちもいなくなったため、ヴァンは店を閉めた。

 その後、彼は二階の自室で机に向かいながら、腕を組み、目をつぶっていた。

 その様子は、どこか寝ているようでもあった。

 しかし、実際には彼は、革命へと頭を回転させていた。

 ここ数日、酒場で国に不満を持つ若者たちと接触してきた。その誰もがヴァンたちの思想に共感してくれた。

 それは、ヴァンの人徳もあっただろうが、やはりクリスの働きが大きい。彼のおかげで、具体的な計画を練ることができ、革命が夢物語ではなくなっているのだ。

 それに彼は、軍の人間にも手を回しているらしい。

 ヴァンたちがルフォー砦を攻めたとき、クリスに賛同した軍人たちは、戦いを放棄する手はずになっている。

 砦を陥落させ、武器などを手に入れれば、国もヴァンたちを無視はできないだろう。

 それに、自分たちが成果を示してみせれば、きっと呼応して立ち上がる者たちがいるはずだ。

 ――大丈夫だ。この計画は、きっと成功する。

 ヴァンには、確信めいたものがあった。

 けれども、心配事がないわけではない。

 それは、指揮系統の問題だった。

 もともとヴァンは、人に指示を出すのが、あまり得意ではない。どちらかというと、最前線に立ち、背中で引っ張っていくタイプだ。

 できることなら、後方から適切な指示を出せる人間がほしい。クリスはそういうタイプだが、彼は彼でやることがある。

 シオンは……だめだ。彼は人に遠慮しすぎるところがある。それに、自分に自信を持っていなさすぎるのもよくない。

 迷いなく、ときに冷酷な判断ができる人物。かつ、信頼できる人物となると、なかなかいるものではない。

 ヴァンが思考の泥沼に入りかけていると、不意に窓が鳴った。

「……?」

 風で鳴ったのではない。何か、小さなものが当たったような……。

 また、音が鳴った。ヴァンは窓に近づき、下を見る。するとそこには、マレーの姿があった。

 それで、思い出す。かつて、マレーを遊びに誘うとき、ヴァンはよく彼の部屋の窓めがけて、木の実などを投げて、合図を送っていた。彼は、それと同じことをやったのだろう。

 つまり、ヴァンだけに伝えたい何かがあるということ。

 ヴァンはコートを羽織り、家の外に出た。

「どうしたんだよ? こんな時間に」

 夜も更けた今、外はかなり肌寒い。気づけば、夏も終わろうとしているのだ。

「……君の考えていることを知った」

 マレーの言葉に、ヴァンは眉尻をぴくり、とあげた。

「お前……シオンを脅したな?」

「人聞きが悪いことを言うな。君たちが何をしでかそうとしてるのか、知りもしないのはどうなんだ、と問い詰めただけだ」

「そういうのが脅しなんだよ。お前の顔、こわいんだから」

「茶化すな。……君たちは、本気で革命を起こすつもりなのか?」

 マレーの口調は鋭いものだった。思わずヴァンも、身構える。

「……冗談で、あんな手紙のやりとりをすると思うか?」

「君は、自分の体の状態をわかっていないのか? 無茶をすれば、君は――」

「わかってるよ。わかってるから、無茶をするんだ」

 自分の命は、もう長くはない。シオンの薬で状態は落ち着いているが、タイムリミットは近づいてきている気がした。

 もう長くは生きられないのなら、せめて何かを残したい。その野心に、ヴァンは逆らえなかった。

「君は病気から逃げて、死に場所を求めているだけじゃないのか? そして、ユールたちを悲しませようとしてるんじゃないのか?」

 マレーの目が一層ギラつく。

 本当に、ユールのことになると、文字通りに目の色が変わるやつだ。

「ああ、そうかもしれないな――」

 刹那、体が浮遊感に襲われた。マレーの顔が、すぐそばまで迫っている。胸ぐらをつかまれたのだと、わずかな間をおいて、理解した。

「ったく、病人に何すんだよ……」

「言ったはずだぞ。ユールを悲しませるなら、許さないと」

 ぐっ、とマレーの手に力がこもる。以前のヴァンならば、たやすく振り払うことができたはずなのに、最近は体にも力が入らなくなっていた。

「……ならお前は、この国が変わらなくていいっていうのか?」

「たしかにこの国は、変わらなくてはならない。だが、それをなすのは、君でなくともいいだろう!」

 その言葉に、ヴァンの中で何かがはじけた。自身を締め付けるマレーの手を握る。その握力に、マレーが顔をしかめた。

「それじゃだめなんだよ。誰かがやってくれる。そんな考えじゃ、この国はいつまでたっても変わらない。だから俺が、俺たちがこの手で、国を変えるんだ!」

 痛みに耐えかねてか、マレーが手をはなす。

「ヴァン……君は、やりきれない思いをぶつける相手がほしいだけじゃないのか?」

 それを聞いて、ヴァンははっとした。あるいは、幼馴染の言葉は的を射たものだったかもしれない。

 自分は、死んでしまうという不安を、理不尽を、この国そのものにぶつけようとしたのではないのか。

「俺は……」

 うまく、言葉が出てこなかった。

 ヴァンの両親は、彼が生まれる前から酒場を営んでいた。食料や酒を手に入れるルートにも恵まれ、食べるものに困ったことはない。それなりの売り上げもあり、税金に悩まされたこともない。一七歳になったときには、父の跡を継ぐことになり、就職を心配したこともない。ヴァン個人は、国を恨むような理由がないのだ。

なら、どうして自分は、こんなにも国に敵意を向けるのだろう。それが、わからなかった。

「ヴァン、悪いことは言わない。憎しみで、国を変えようというのなら、やめるんだ」

「俺は……」

 ティフォンのためなどといっておきながら、その実、自分の欲望のために戦おうとしていたのだとしたら、自分は――。

 ヴァンの心が揺れ動きかけた、そのときだった。

「――待って」

 その声に、ヴァンもマレーも驚いた。それは、聞こえてはいけないものだったからだ。

「ユール……」

 いつから聞いていたのか、そこにはもう一人の幼馴染の姿があった。

「ごめんね、ヴァン、マレー君。全部、聞いちゃった……」

 申し訳なさそうにするユールを見て、ヴァンはなんとなく肩の力が抜けた。

 終わった、と思ってしまった。

 ユールを泣かせてまで革命に赴く覚悟を、今のヴァンは持ち合わせていない。

 対するマレーは、勝ちを確信したように、声を弾ませた。

「ユール。聞いていたのなら、君からも言ってやってくれ。ヴァンは、君たちと一緒に静かに暮らすべきだと」

 ユールはヴァンをまっすぐに見据えていた。普段はぼーっとしているくせに、その実すべてを見透かすような、不思議な瞳。これまでずっと、自分の隣にいてくれた瞳。

「……うん。ヴァンにはやっぱり、一緒にいてほしいよ」

 薄く笑って、彼女が言った。

――ああ、それが彼女の望みなら、仕方ない。

 ヴァンは全てを諦め、愛する人へ身を委ねようとする。

「――でもね」

 だが、幼馴染の言葉は、それでは終わらなかった。

 マレーの表情が、こわばる。

「このまま私たちと一緒にいても、ヴァンは抜け殻になってしまうと思うんだ。だから、うん。もし、なし遂げたいことがあるのなら、それを果たしてほしいかなぁ」

 間の抜けた笑いを、ユールは見せる。幼いころから、まるで変わらない。周りをも、笑顔にしてしまうような笑顔。

「な……君は本当に、それでいいのか?」

「うん。ごめんね、マレー君。でも、私が好きなのは、目をキラキラさせたヴァンなんだ。だからね、ヴァンにはいつまでも子供であってほしいの」

「ユール、お前……」

 きっと彼女は、すべてをわかっていたのだろう。病気のことも、革命のことも。それでもなお黙って、それを見守ってくれていた。

 なんだか、迷っていた自分が情けなくなる。

 ユールやティフォンを泣かせたくない? そんなのは、ただの言い訳だ。弱気な発言だ。

 しっかりしろ、ヴァン・ピオニエール。どうせなら、革命をやってなお、生きて帰ってくるぐらい、約束してみせろ。

 そうした、すべての思いをこめて――。

「ありがとな、ユール」

 ヴァンは、ユールの頭を優しくなでる。子供のころから、よくやっていたことだ。これをやるとユールは、気持ちよさそうに目を閉じる。どこか、猫みたいだ。

 ふと、目と目が合う。それだけでたぶん、すべては伝わった。

「そうか。それが、君の、君たちの望みか……」

 立ち去ろうとするマレー。その背に、ヴァンは声をかける。

「待てよ、マレー。お前も、俺たちに協力してくれないか?」

「……悪いな。私は君たちのように、子供にはなりきれない」

 振り返りもせず、マレーはこたえる。

「それでいいんだよ、お前は。今回のことで、よくわかった。お前みたいな大人が控えててくれれば、俺たち子供は、安心して戦える」

「私に、尻拭いをしろ、ということか?」

「俺と幼馴染になったのが、運の尽きだな。あきらめろよ」

 子供のころから、ヴァンはいろいろ無茶をしてきた。それを事前に止めたり、それを尻拭いするのは、マレーの役目だった。

 損な役回りかとも思われるが、本人はそれを楽しんでいるようだった。

 一度、こっぴどく叱られたとき、ヴァンはマレーに謝ったことがある。だが、マレーは笑顔で言った。

 ――君はそのままでいろ。でなければ、面白くないからな。

「……ずるいな」

 マレーは、足をとめて、振り返る。その顔には、あのときと同じ笑顔があった。

「そう誘われては、断るわけにはいかないだろう」

 ヴァンが無茶をいい、ユールがそれに乗ってしまい、ついにはマレーも加わる。その在り方は、まさに昔の彼らの在り方そのままであった。

 ――これで、革命の準備は整った。

 それを国中に伝えるかのように、空には満月が輝いていた。統暦一〇一二年、セプタンブルの月だった。

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