第4話かくして浦戸弦は黒い少女を"ナハト"と呼んだ

 沈み出した夕陽が灰色の曇り空を紅く染める。黒い少女は朱色の空を忌々しそうに眺めながら、日差しがギリギリ当たらない場所にあるソファに座っていた。受け取ったばかりの書類は、きっちりと透明なクリアファイルに入れられ封筒にしまい込まれている。そしてその封筒は黒い少女がしっかりと持ち。浦戸はソファにふんぞり返る少女の前で正座をしていた。

「分かる?私の今の気持ち。」

 浦戸は首を振った。そして少女の手を取ると自身の喉へと当てて喋りだした。まだ声が戻っていないのだ。そのため喉の振動だけで少女が聞き取る形になる。

「年の離れた異性の気持ちなんて分かるわけないだろうじゃないわ!どうしてくれるのよ!せっかく大人しくしてたのに!

あなたのせいでパーよ、パー!これからどうなることか分かったもんじゃない!

…そう悪くならないだろうって?はっ。甘いわね。糖蜜水より甘い。あの性悪が作ったものが私達バケモノの助けになんて一ミリだってなりはしないわ!」

 そして少女は、深く深くため息をついて男の背後に声をかける。

「それでアンタは何の用?」

 浦戸が振り返ればそこには先程まで一緒にいた女性がいた。突けば破裂しそうな胸、抱き締めれば折れてしまいそうな腰、重力に逆らい豊満に揺れる尻肉、片腕に抱えた段ボール箱、その目が隠れるほどの笑顔を纏った吸血鬼。羽鳥未来はとりみらがそこに立っていた。

 黒い少女の言葉を実に恭しく彼女は受け取った。

「どうも先輩お疲れ様っス!

いやぁ、それが実はっスね~。許可も法的に認定された飼い主もなしに歩き回っていうのは…マズイんスよね~。」

「あら、どうマズいの?」

「逮捕勾留っスかねぇ。先輩、身元確認できませんし。そのまま専門の施設…っスかねぇ。」

 浦戸が慌てて立ち上がる。そして未来に身振り手振りで必死に伝える。

 彼女は悪くない。引っ張り出したのは自分の責任だ、と。

 どうにか伝わったのか、未来は何度も頷く。しかし、その顔は相変わらず暗い。

「理由があってもダメっス。

あ~せめて飼い主が決まってればなぁ!」

 演技がかった言い方に浦戸が飛びつく。引っ張り出したのは自分であり、彼女は悪くない。そのためならば…。と必死になって弁明する。

 その姿を眺めていた黒い少女の細い鼻梁に血管が浮かんだ。

「まさか、この私に。この男に。飼われろっていうの?」

「そーなるっスねー。そ・れ・に。

たまたま!偶然!必要事項を書き込むだけの書類なんかもあったりなんかしちゃったりするんス!

あとあと、本当に偶々、偶然、書類の提出受付時間があと五分ほどあるんスよ!

なんと更に、たっまたま、ぐぅーぜん!書類認可に必要な役職印と、保証人になれるアタシの印鑑があるんスよね~!」

 次々と彼女が胸元から書類を、印鑑を、ボールペンを、はてはインク壺と万年筆まで取り出す。そしてペンと書類を浦戸に手渡した。ついでにどこからか持ってきていた段ボールを浦戸の前まで押して置いた。

 浦戸は迷うことなくダンボールの机に向かい、ボールペンを取って書類に記入していく。

「ちょっと!何を受け取って…は?俺と一緒にならないかって?

そのくらい自分の口で言いなさいよ!というか早く喋れるように戻りなさいよ!」

 黒い少女が器用に伸ばした両足で ―首が絞まらない程度に― 浦戸の首を掴んで揺さぶる。しかしこの行動の結果はそれほど芳しくはない。段ボール箱の上という、書きにくそうな机の上で書類を記入している浦戸が、より書きにくそうになっただけであった。

 そんな振り回される男の耳に顔を寄せて囁くように未来が言う。

「実のところ。割りとマジでヤバイんスよ。まぁ、警官隊やら自衛隊に先輩が負けるとは思えないんスけど。

っていうか勝った方が問題っス。どう転ぶにしろ控え目に言って大惨事っス。

だから、出来れば先輩を受け入れて欲しいんです。」


 黒い少女がその冷たい目を未来に向けた。そして、氷のように冷たい声ではっきりと言う。

だからなに・・・・・

そんな理由で無理に保護していただく・・・・ほど、私は落ちぶれてなんかないわ。」

 浦戸を振り回していた足を離す。両足でソファに立った少女は、今や大人の女性へと変貌していた。すらりと伸びた四肢に、冷徹な美貌、足元まで届く長い黒髪。どこにでもあるTシャツと丈の短いパンツが、まるで一流のモデルの着る服にすら見える。

 彼女の美しい黒髪が伸びていく。天井に届き、床に届き、窓を覆い尽くす。一番近くにいた浦戸は段ボール箱ごと彼女の髪の繭に取り込まれた。

「ちょ、ちょーっとこれは…予想外っス…。」

 未来は冷や汗をかいている。その時、少し離れたところで息を潜めて見守っていた職員達が慌てて動き出す。ある者は逃げ出そうと荷物を取って、ある者は隠れようと机の下へ、ある者は警報機に手を伸ばし、ある者は警察へと電話をかけようとした。

 しかし、その全てを影から這い出した黒髪が縛り止めた。

「あら、ちょうどいいわ。しばらく吸ってなかったし。

お腹一杯になるまで、吸ってあげる。」

 そう宣言する黒い女は未来など見てもいない。人外の膂力を持つ未来ではあるが、目の前の黒い女はあえて言うならば吸血鬼バケモノ外の膂力の持ち主だ。一合持てば幸運。二合持てば奇跡。そのくらいの差がある。

 彼女が生きていくには今のこの世界は脆すぎる。だからこそ、なぜか、まともに会話をしていた浦戸に面倒を任せられないかと未来は思ったのだ。

(鎖の付いた猛犬なら怖くないんスけどね…。)

 何をしでかすかも分からない圧倒的な力を持つ存在。不発弾のような黒い女をどうにかしようと思った未来であったが、その代償は彼女で払いきれるものではなさそうだ。

 悲壮な覚悟で拳を固め、未来は立ち向かう構えを取り、黒い女を見定め、気が付いた。

「……あれ、浦戸さんは?」

 黒い女の足元にいたはずの浦戸がいない。彼がいた繭はなくなり、いたはずの場所は黒い髪の濁流に覆われているだけだ。

 周囲を見回す未来を黒い女が笑う。

「追い出したわよ。ほら、御覧なさい。」

 浦戸がいた辺りの髪の毛が解けて床が見えた。人一人落ちれそうな穴が空いている。断面は鏡のように磨き上げられ、一体どうすればあのサイズの穴を、これだけの時間で空けることができるのか。未来には想像もできなかった。

(時間稼ぎも出来ないっスね。これは…。)

 だが、彼女は警察官であった。警察官だから、彼女は市民の幸福を手伝いたかったし、市民の身を守るために身体を張る覚悟があった。死ぬ覚悟は今決めた。

「さて、あの男か。幸運な誰かがおかわり・・・・を連れてくるまで。暇をつぶさないといけないわね。

しばらくやってなかったから、下手になっているかもしれないけど……大丈夫よね?だってこれだけ居れば何度でも試せるもの。」

 黒い女には、職員たちも、未来も、等しく不細工な肉人形にしか見えなかった。

 臭いがするのだ。混ざりあった臭い。自分と他人の。複数の誰かの臭いを撒き散らしながら、同じく、複数の者たちの臭いを撒き散らす者と、その臭いを重ね合わせる。その臭いは彼女にとって、鼻がもげるような異臭であった。

(くさい。)

 黒い女はそう感じる。臭うのだ。だから彼女は嫌いであった。人間を?違う、臭いを撒き散らす全てをだ。彼女が好きな匂いはただ一つ。かつて自らを救ってくれて、愛し合った、一人の女の匂いだけであった。

 ただ、なぜか、驚いて腰を抜かすような、間抜けなあの男の匂いを彼女は嫌いになれなかった。同じ混ざりものの匂いであったのに、なぜか不快ではない匂いであった。だからこそ、妙に構ってしまった。そのせいでこんな事になった。

 彼女の脳裏に浦戸の顔が浮かぶ。真っ直ぐに睨みつけてきた茶色の目。ほとんど気のつかわれていない髪型。手入れの行き届いていないスーツ。

(なんだか妙に腹が立って来たわね…。

さっさとどこかに行って、警察でも自衛隊でも赤帽子でも呼べばいいのよ。それか怯えて丸まってればいいわ。そうすればもう二度と顔を見ることは………あら?)

 黒い女の動きが止まった。それまでの氷像のように冷徹な雰囲気が掻き消え、口を開けたまま驚いた顔で虚空を見つめている。

(今っス!)

 決死の覚悟を固めていた未来が、一歩足を踏み込んだ。その足が女の髪に縛り止められた。引き千切ろうと力を込めた時、彼女の左右に髪の壁が生えてきた。

「あっ。」

 残酷なほどに硬質な音がして、未来は壁に挟み潰された。


 黒い女は驚いていた。階段を登る足音がする。既にこの建物には彼女の髪が張り巡らされ、誰も出ることも入ることもできないようになっている。そして髪は極めて機械的に一定以上のサイズの動く物を捕らえる。

 ある者以外は。

 階段を登る音が止まる。すぐ近くだ。扉が向こう側から三回叩かれ、開かれる。

「お邪魔するよ。」

「あら、忘れ物でもしたの?」

 蠢く髪が浦戸に押し寄せる。男の前で広がり腰辺りで壁のように組み合わさっていく。黒い女の方へ来ないようにするための壁。でも会話はできる程度の低さの壁。

「あぁ。ちょっとな。」

 かすれた男の声は震えていた。黒い女には聞き慣れた、恐怖と蛮勇の混ざった声だ。

 そのまま男は足を踏み出す。髪の壁は解けて崩れ、男を追いかけるようについていくだけとなった。

 その動きを注視する黒い女の前を通り過ぎ、背を向けて人のいない受付に立つと、一枚の書類を置いた。

 そして、振り返ると女に向かって言った。

「よし。じゃ帰るぞ。」

 女が言う。

「どこへ?」

 男が言う。

「俺の家だよ。」

 女が言った。

「見て分からないの?」

 男が言った。

「まぁ、俺も頭下げるよ。」

「……はぁ?」

「君の気持ちを考えてみたんだけどさ。」

 男はようやく戻った、かすれて震える声で喋る。その声には恐怖と蛮勇が混ざっていた。黒い女は自分に向けられる恐怖には慣れていたが、男の声に混ざる恐怖はどうやら彼女に向けられたものではないようだ。

 では、何に対する恐怖か。

 震えた声で男が言う。 

「君をあそこから連れ出した責任、取らせてくれないか?」

 黒い女は大きく目を見開いて、ぐらりと仰け反った。

「な…っ!あんた…!今の状況分かってるの?」

 男は周りを眺めて困ったように頬を掻く。

「まぁ土下座すればどうにか…?」

「ならないでしょ…。

あぁ、もう、いいわ。なんか気が抜けた…。」

 その言葉を皮切りに、髪の毛が女の元に戻っていく。勢い良く巻き戻る髪が、先程まで捕らえていた人々を解放し、虚ろな顔をした職員たちの顔が次々と現れていく。魅了というわけではないが、面倒を減らすために放心状態にさせていたのだ。

 開放されたのは彼らだけではない。

「し、死ぬかと思ったっス……。」

 髪の壁が崩れると、無傷の未来が現れた。崩れ落ちるように膝をつきかけるが、どうにか二本の足でしっかりと立っている。

「未来さん、無事だったのか!」

「棺桶に全身入ったところだったっス…でも、どうやら…上手く行った感じ?」

「そうね、不本意ながら。」

 黒い少女がソファに立っていた。簡素なTシャツと丈の短いパンツを履いた、小学生低学年くらいの体格の少女だ。彼女はソファから跳び下りると、浦戸の元へと走った。そして彼の手を掴む。

「さて。彼は私の所有者よ。

ところで私達捕まるの?」

 堂々としている黒い少女であったが、その横では大の大人が震えていた。

 黒い少女は気付いた。浦戸が怯えていたのは彼女ではなく、法律に罰せられることであったのだ。彼は少女を震えながらも庇うように立っている。浦戸は少女が罰せられることを恐れているのだ。

 小動物に守られているような事態に黒い少女はその表情を崩す。微笑ましく、そして頼もしい。彼女の長い生涯の中で初めての感情であった。

「やっぱり逮捕…かな?土下座とかで許しては…。」

「ちょっとやり過ぎちゃったし、厳しいんじゃないかしら。」

「これで俺も犯罪者、かぁ…とほほ。」

「大丈夫よ。またすぐ会えるわ。」

 二人のお涙頂戴な劇模様を見て、未来はため息をついた。

「…分かってやってるっスよね。先輩。」

「え?」

「あらもうネタばらし?」

「先輩は"黒"って呼ばれる吸血鬼の中でも、特に長命種エルデストな吸血鬼で。国際愛玩生物法では特例措置をとられてるっス。則ち"公共に対して多大な被害を及ぼさない場合は之に関わるな"

……多分っスけど、死んだ人も、怪我した人もいないっスよね…?」

 黒い少女は悪魔のように笑う。

「えぇ。壊したものも、ね。」

 未来が深い深いため息をついた。少し離れたところでは職員たちが大きく伸びをしている。誰も彼も先程まで死ぬかどうかの瀬戸際にいたような顔ではない。授業中に熟睡した学生のように爽やかな顔をしている。

 その様を見た浦戸が嬉しそうに少女に言う。

「なんだかんだ優しいんだな。」

 少女は嘲笑う。

「私、面倒なことは少ない方が好きなの。動く血袋なんて相手にしてられないわ。」

 そう言った少女の顔は冷酷そのものであった。


 結局、二人には何の罪も与えられなかった。羽鳥未来が上司に報告したところ、触らぬ神に祟りなしとのことで、被害もないのであれば、飼い主に吸血鬼との付き合い方のセミナーに参加のお願い。とはいえ実質強制参加。それと、少女にはGPS機能を付けた物品を常着するように。それだけであった。

 今更ながら少女のとんでもなさを感じる浦戸であったが。一度手を繋いでから、決して離そうとしない彼女を見ていると。彼もその手を離す気は起きなかった。

 そして、夜になってからようやく二人のに着いたのであった。

 手を繋いだまま、鍵を開けて先に入った浦戸が少女を招く。

「おかえりなさい。えーと…そう言えば名前は…"黒"っていうのか?」

 招かれて敷居を超えることのできた少女は、物珍しそうに辺りを見回している。

「ただいま。

それは髪の色でそう呼ばれてるだけ。最初にそう呼ばれてからずっと変わらなくてね。

でも、こだわりがあるわけでもないし、好きに呼んでくれてかまわないわ。

……ねぇそれより、色々見てもいい?」

「あぁ、もちろん。今日からここが俺たちの家だ。」

 そう言って浦戸が手を離す。嬉しそうに少女が玄関からダイニングキッチンへと走っていく。その背を見ていた浦戸の手が止まる。部屋の電気を付けようとしていた浦戸であったが。しかし、月明かりが照らす室内で、はしゃぐ少女の姿がまるで妖精かなにかのように見えたのだ。その幻想的な風景に、蛍光灯の明かりは無粋すぎて。

 そう夜の妖精。むしろ、夜そのもの。夜闇から滲み出してきたような髪と瞳。月から零れ落ちたような白い肌。まるで、月だけが浮かぶ夜空。

「……"ナハト"」

 口に出すと、まるでパズルのピースが揃ったような不思議な感覚を男は感じた。夜のような少女にぴったりの名前ではないだろうか。

 少女の動きが止まる。そして、男へと顔を向けた。

「ナハト?」

「あぁ、ナハト…どうかな、君の名前。」

「ナハト?私の名前…ふふ、ふふふふふ!」

 嬉しそうな顔の少女が走って戻って飛びついてくる。浦戸がしっかりと受け止めるが、勢い余って離れたばかりの玄関に戻りそうな二人であった。ぐりぐりと顔を埋めてくる少女に困ったように男が言う。

「ど、どうしたんだ。「ナハト!」な、ナハト。」

 勢い良く少女が顔を上げた。その顔には嬉しそうな笑顔が湛えられている。

「名前を呼ばれるって案外嬉しいのね!私、知らなかったわ!

あの娘にはずっと"黒"って呼ばれてたし。あぁ!そういえば男性の部屋に入るのも初めて!」

 見た目相応の子供のように喜ぶ少女。浦戸は心に少しだけ残っていた不安がなくなるのを感じた。


 かくして、浦戸弦は黒い少女を"ナハト"と呼ぶようになり、二人の生活が始まるのであった。

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吸血鬼と過ごす日々 ノーマッド @No_mad

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