第2話いかにして浦戸は黒い少女との再会を決意したか
浦戸は薄暗い廊下へと出る。先程浦戸自身が降りてきた階段の方から、一人の女性が歩いてきた。
美しい女性だ。レディースのスーツをきっちりと着こなしているが、豊満過ぎる双丘が胸元を大きく押し上げているせいで、どこかアンバランスに見える。そして胸にばかり目が行ってしまうが、顔の造形も素晴らしいとしか言いようのないものだ。微笑んでいるように緩くカーブした口元。開いているのかどうか分からない弧を描く目。彼女の小さな顔には必要なものが、必要なだけがある。まるで神の戯れか、悪魔の計略によって産み出されたような女性であった。
彼女は浦戸に気がつくと、先程までと変わらない速度で、しかし確実に男の方へと近付いてきた。
そして浦戸の前に立つと真っ赤な唇を開いた。
「どうもどうもっス!何か御用でもありましたっスか?」
温和な美貌とは裏腹に、下っ端のような口調であった。
「なるほど、それは大変でしたっスね~。」
「え、えぇ。」
彼女が胸元のポケットから出したネームカードには
好奇心でこの建物に入り、地下で黒い少女の吸血鬼と出会い、足音がしたので出てみたら未来と出会った。そう大して長い話でもない。時計を見て確認すれば、書類を提出してから精々二十分くらいの出来事であった。
「まーでも、先輩も大変なんスよ。」
そう言って彼女は背もたれにもたれかかる。下手すれば顔よりも大きな二つの塊が振動で揺れる。
視線が固定される自分に気づき、浦戸は前方に顔を向けて虚空を見ることにした。横を向いて胸を見たり、下を向くよりはいくらかマシであろうと考えての行動だ。
「えーと、先輩って言うのは…。」
「浦戸さんが地下で会った吸血鬼のことっスよ。
あたしも吸血鬼なので。」
「へー…えっ?」
「ほら、これ。」
首にかけたままのネームカードを伸ばして浦戸の方へと見せてくる。必然、二人の距離は縮まる。女性慣れしていない浦戸からすれば嬉しいような、恥ずかしいような距離だ。とはいえ見ないのも失礼であり、少し頬を染め、ついでに鼻の下も伸ばし、ネームカードをしっかりと見た。
"
「えっと…警察?」
「はいっス!悪いことしたら逮捕しちゃうっスよ!」
両手で拳銃を作って浦戸を撃つ真似をする。実に楽しそうな彼女につられて浦戸は思わず笑ってしまった。
「おっ!ウケた!いやー良かった良かったっス。なんか緊張されてるみたいでしたし。」
「いやーははは。その、あんまり吸血鬼の方と会うことがなかったので…。」
「あーそうっスねぇ。あたしもお婆ちゃんと…大学で一人いたくらいっス。」
吸血鬼は概ね三種類に別けられる。第一種特定愛玩生物は吸血鬼の持つ、姿を変える能力など特殊な能力を保持した吸血鬼を指し。第二種特定愛玩生物はほとんど人間と変わらないが、一割以上吸血鬼の遺伝子を持つ吸血鬼を指し、第三種特定愛玩生物は犯罪を犯した吸血鬼を指す。一割未満は吸血鬼ではないので特に証明書類はない。
「てことは下にいるのって…。」
罪を犯した第三種が捕まっているという恐ろしい想像が浦戸を襲う。吸血鬼というのは例え第二種であっても人間よりも強靭だ。昔テレビのドッキリでライオンの檻にある男吸血鬼の芸人が入れられた時、ライオンは吸血鬼の首に噛み付くも、その牙が刺さることはなかったのだ。
とはいえその芸人が檻から出てきた後。師匠に「つまんねーよ!」と頭を叩かれてショックを受けていた事の方がはっきりと覚えていたのだが。
「第二っスよ?」
あっけらかんとした未来の言葉に胸を撫で下ろす。第二は一番安全なのだ。
「書類上はっスけど!」
「…え?」
「いやー先輩。この建物が完成する前からだから…えーと第二次大戦の少し後?にはもうここにいたんス。
その時は特に区分とかなかったんで吸血鬼ーってだけ書類にあって。法律で区分ができた後に、今までなんか吸血鬼の能力使ってないしっていう理由で第二になってるっス。」
つまり、あの地下にいた吸血鬼の少女は、どれだけの力があるか分かってもいない。ということだろう。彼女に対してただの鉄の檻がどれほどの意味を持つのか。深く考えたくなくなった男は、とにかく別のことを考えようと口を動かす。
「…うちの婆さんより年上なんだな…。」
「あっはっは!そうっスね!あたしの婆さんも二百なんで、多分それよりも上っスよ!
ふ…くふ…くふふふははははは!流石っスよね!あははははは!」
何がツボに入ったのか。未来が笑いながら膝を叩く。腹が捩れるという言葉があるが。笑いながら身体を揺り動かす様は、まさにその言葉通りだ。
「あー…はぁ~…ふぅ。落ち着いたっス。
さて、それじゃさっさと出るとするっスよー。」
彼女は背もたれに一度体重をかけて、反動をつけて立ち上がる。そして浦戸へと手を伸ばしてきた。彼女の手を取り、それは意外なほどに柔らかくて冷たい手であった、浦戸も立ち上がった。
「出る?」
「はいっス。一応ここ吸血鬼…おっと愛玩生物の書類出したりするとこっスから。
無関係な人はお引き取りをって感じでお願いしてるんスよ。」
「あぁ、そうなんだ…。
の割に人いないね。」
「まー関連書類は年に一度更新っスし。未だに表記も変えられてないんスよね…。一応呼び鈴を押せば二階に職員が何人か常駐してるんスけど。
まーでもあたしは外様の警備員みたいな扱いなんスけど~。」
面倒なんスけどね。と言って彼女は大きく伸びをしている。その動きに合わせて双峰も大きく動いた。
(このまま、お別れだな。)
浦戸弦の人生において、恐らくもう二度とないであろう。なんとも奇妙な時間であった。人生で一度関われば良い方である吸血鬼と、一日どころか一時間の待ち時間の間で、二人にも出会ったのだ。それだけで今日は価値のある一日であった。
未来の横に並んで歩きながら話を続ける。そう、彼女のような美女と話せただけでも良い一日だ。
だが、浦戸は何かが引っかかっていた。
魚の小骨が刺さっているのだ。男の心の何処かに。いつもであれば放っておくような些細な引っかかり。それがなぜだか今日は異様に気にかかるのだ。
浦戸の歩みは段々と遅くなり、やがて自動ドアの前に来ると完全に止まった。横を歩いていた未来が一歩前に出て、自動ドアが開かれる。そして彼女が振り返った。
「どうしたんスか、なにか…忘れ物でも?」
「あ、いや。」
なんでもない。と言おうとした口が動かなくなる。心に刺さった棘は口を縫い止めて、浦戸に何も言わせようとしない。
(今日は変な一日だな。)
浦戸の脳裏を、今日一日がフラッシュバックしていく。いつもの様に仕事をしていたら、上司が忙しいため代わりに役所にまで足を運ぶことになり、そのため滅多に来ない上、近くに何があるかも分からない役所で時間を潰すことになり。なぜかチェーンの喫茶店を探したり、外に出ることを選ばず、所内案内板を眺め。見慣れない特定愛護生物管理室なんて名前に惹かれて歩き出し。人がいないとはいえ、入っていいかも分からない地下階に足を踏み入れ。挙句、ドアノブをガチャガチャ回して。吸血鬼と出会ったのだ。
あまりにもおかしな日だ。そしてなぜか、浦戸は檻の中の少女の顔が頭に浮かんできた。
何十年も彼女は彼処にいるのだ。あの幼い容貌に不相応な退屈そうな、どうでもよさそうな表情を浮かべて。
そのことが浦戸はどうにも納得出来ないのだ。それが、浦戸の心に突き刺さっていた。納得出来ない。気に入らない。
苦しんで嫌な目にあって働くこともなく、腹を空かせて飢えることもなく、ただただ生きていけるのに。退屈そうな彼女の顔が頭から離れない。
「…あの、やっぱり忘れ物です。」
「ありゃ。なんか落としちゃったんスか?」
その問いに浦戸は答えず、代わりに質問をした。
「あの娘って出ることはあるんですか?
その、檻から。」
「それはないっスね。先輩の保証人になる人間(ひと)がいないっス。
それに先輩自身出たがってないんスよね~。」
不思議っス、と未来は二三度頷いた。
「その…保証人って誰でもなれるもんなんですか?」
「そうっスね…。相手がOKだして、未成年でなくて、しっかり生計を立てていて、しっかりと家があれば、問題ないっス!」
「それじゃ!」
いつの間にか、浦戸の目の前に未来が立っていた。彼女の左手が浦戸の左手を掴んでいる。
彼女の笑みが大きく、深く、妖しいものへと変貌していた。浦戸は動けない。蛇に睨まれた蛙のようにその身を固くしたまま何も出来ない。
「もしかして、弦さんが引き取ってくれたりするんスか?」
「……その、なんというか。
あそこから連れ出したい…そう、思うんです。」
彼女は男の言葉を聞き、何度も頷き、そして、浦戸の手を握り潰した。
「ぎぃいいいいいいあああああああ!」
浦戸が抵抗するとあっさりと手は開放された。膝をついた無様な姿のまま、自分の手を見る。見た目はどこも変わっていないいつのもの手だ。しかし、ジワジワと痛みはまだ残っている。恐ろしいほどの怪力だ。浦戸は未来を睨みつける。
睨みけられた未来は困ったように頬を掻いた。そして、これまでと変わらない口調で浦戸に話しかける。
「…止めた方がいいんじゃないスか?
先輩あたしより強いし……惨いっスよ?カワイソーとか、ぐへへ好きにしてやるゼーとか、そういうの嫌っスし。単なる同情なら、もう一度顔を合わせただけで、弦さんがどんな目に遭うか。
あたしが知ってる限り何人か先輩に声をかけてるっスけど。どっかの家族とか、お医者様とか、芸能事務所の人とか。だ~れも先輩と話すら出来てないんスよ?」
浦戸の口端が上がる。じわじわする痛みが逆に彼の思考をはっきりとさせて、一つ気が付いたことがある。
「実は、俺さっきあの娘と話したんですよ。」
「…へぇ。」
「言い忘れたことが、あるんですよ。俺。ちょっとこれ言わないと帰れません。」
ニコニコと弧を描いていた両目が、開かれていく。冷たい三白眼が浦戸を射抜く。先程までと雰囲気が全く違う。オーバーリアクションで可愛らしい女性が。今やまるで冷酷な女主人のようだ。
「それでも、あたしは弦さんを先輩と会わせたくないっス。
あたしと、弦さんは、ここから出る。ね、そうっスよね?」
浦戸はビビっていた。歯の根は合わずにガチガチ言っているし、膝が震えていて立てないし、冷や汗で全身がびしょ濡れだ。下から漏らしていないのが奇跡なくらいに。生まれて初めて、死の恐怖というやつを全身で感じている。今すぐ土下座をしたい。そして何もかも忘れてコーヒーでも飲みたい。いつもならそうする。いつもならばこんな馬鹿なことはしない。
しかし、今日はおかしな一日なのだ。
「いえ、ちょっとあの娘と話します。」
浦戸の言葉を聞いた未来は、三白眼で男を睨みつけたまま、一歩近付いた。座り込んで見上げる浦戸を見下す未来。再び彼女が手を差し伸べる。左手だ。
普段ならば、絶対にその手を取りはしない。また握り潰されでもしたら、今度は下から何もかも漏らしてしまう。
しかしだからこそ、浦戸は左手でその手を握った。
(頼む、頼む、痛いのだけはなしで…。)
目をきつく閉じ、震える歯を噛み締め、襲ってくるであろう痛みに浦戸は耐える準備を整えた。
しかし、痛みはなく。浦戸は未来に引き上げられて、その場に立った。
「…えっと。」
間抜けのような顔で浦戸が立っている。驚きのあまりあらゆる震えすら忘れられている。
未来は再び両目を弧のように、そして口元には微笑みが浮かんでいる。
「全く、それならしょうがないっスねー。
じゃ、あたしは用事があるんでさよならっス。」
くるりと浦戸に背を向けた。
「い、いいの…あいや、ですか?」
浦戸の言葉に顔だけ振り返った未来は、先程までと同じ笑顔のままで言う。
「あたしが先輩と会ってから、まともに会話した相手なんて聞いたこともないっス。それに、あたしと握手して、それでも手を握ったのは……弦さんが初めてっス。
一度なら無視できても、二度続けば、もしかしたらって。」
彼女がその左手を振る。あの痛みが一瞬だけ思い出され、反射的に浦戸は何度も頷いた。弱みを握っても意味があるのは、相手が自分と変わらない立場にある時だけだ。大きな差がある相手の弱みを握ったところで何の意味があろうか。
「じゃ、頑張ってくださいっス!先輩を連れ出せるよう、応援してるっスよ~!ファーイトっ!」
そう言うと未来はスキップしながら自動ドアを超えて外へ出て行った。そして、せり出した日除けの下で、どこからか取り出した黒い折り畳み傘を広げ、気持ちの良い青空の下を歩いて行く。
その姿が消えるまで見つめていた浦戸であったが。見えなくなると、自分の頬を両手で叩いた。叩いたはずの左手が特に痛い。消えたと思っていた先程までの痛みがぶり返してくる。その目に涙を浮かべながら浦戸は宣言した。
「よしっ!行くか!」
彼女と会って一緒に住みたいかどうか。彼女をあそこから出したいかどうか。男は結論が出ていない。だが、浦戸弦には言いたいことがあった。普段ならば忘れてしまうほどの、小さなことであった。
しかし、今日はなぜか言いたくてしょうがない。だから言いに行く。どうなろうと、知ったことではない。
東から登った太陽が、中天を超え大きく西へと沈んでいっている。日没までもうそれほど時間はないだろう。今日という日は終わりかけ、太陽が沈む頃には何もかも終わる。なぜだか男はそう思った。
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