第4話
えりちゃんと動物園に行った日から一夜が明けた。今日も今日とて暑くてうんざりする。だけど僕は、本当のところではそれほど嫌に思っていなかったらしい。放課後、浅田と一緒に帰っている時のことだった。
「先輩、何かいいことありました?」
「え?」
「顔に書いてありますよ? いいことがあったって」
浅田に言われて頬を触ってみる。そんなのはただの言葉の綾というもので、でも実際に書かれているわけではないと分かっていても、つい確認してしまった。
「書いてないじゃん」
「私には見えるんです」
「すごいな」
「勉強のし過ぎですかね。賢くなりすぎて超能力身についたとか」
「だったら北高も余裕だな」
「信じてないでしょ、先輩」
「残念ながら僕は超能力とか信じないんだよ」
「つまんないなあ」
浅田は唇を尖らして視線を足元より少し前に落とした。浅田が話さなくなったので、僕はえりちゃんのことを考える。
昨日彼女は僕に告白した。彼女を苦しませているという僕の考えは見当違いで、こうして一日が経ってみると、思いのほかそのことに安心している僕がいた。ただし、彼女の問題は深刻だ。むしろ僕に原因があった方が解決しやすかったかもしれない。相手が大人、しかも彼女の両親となると……。
家に帰ってから、ずっと解決策を探していた。だけど、これだ、という方法が浮かんでこない。ネットで検索してみても、答えになるようなものは見つからなかった。
えりちゃん本人には、これから聞いてみようと思っていた。だからそれまでは、一つでも方法を見つけたい。
「先輩。先輩ってば」
肩をつつかれて、はっとなる。浅田が訝しげにこっちを見ていた。
「どうかしたんですか?」
「ううん、どうもしてないよ」
「嘘」
「また顔に書いてた?」
「はい」
「そっか……」
「何考えてたんですか」
「何って……」
僕は一瞬だけ浅田から視線を逸らせて考える。
「浅田はさ、小さい時どんなだった?」
「え?」
「えっと、どんなふうに育ててもらった?」
「そうですねぇ……どんなふう。んー……普通ですよ」
「そこを詳しく」
「私一人っ子なんで、家族三人で遊びに出かけることが多かったです。たまにおじいちゃんおばあちゃん家に行ったりして。誕生日はみんなでケーキを食べて、クリスマスは……あ、サンタがうちに来たことがあったっけ。でも今考えてみると、あれってパパなんですよね。だって、眼鏡かけてたんですよ、黒縁の。サンタが!」
浅田は当時を思い出したのか、一人で笑い出した。
普通。浅田はそう言った。だけどえりちゃんのことを知った僕からすると、それは特別だと思った。彼女のその笑顔も、幸せから来るものだ。果たしてえりちゃんは、そんな表情をしたことがあったのだろうか。昨日の話から想像する彼女の過去は、暗く悲しいもののように感じる。
「先輩はどうなんですか?」
ひとしきり笑った後、今度は浅田が質問してきた。
「僕? 僕は……」
僕も普通。そう言おうとして、出かかった言葉を無理やり押し込めた。そして代わりにこう言った。
「たまに遊びに連れてってもらったりしたよ。遊園地とか。でもまあ、それくらいかな」
「クリスマスにサンタは来なかったんですか?」
「来なかったなー」
「まあ来たとしても、先輩は信じないんでしょうね」
「何で?」
「だって超能力信じないから」
「超能力とサンタは違うだろ?」
「じゃあ、信じるんですか?」
「……信じない」と口角を上げ気味になって答えた。
「ほら」と浅田はもう少し笑って言った。「じゃあ、誕生日ケーキは、何食べます?」
えりちゃんは誕生日ケーキを買ってもらったことがあるのだろうか。そんなことを考えながら、僕はゆっくりと口を開く。
「モンブラン」
「へえ、モンブラン好きなんですね」
「苺のショートケーキは母親が好きで、チョコケーキは父親が好きで、ああ、今思い出したけど、確か最初はどっちかのケーキと同じものを選ぼうとしたんだけど、分けてあげるからってどっちともかぶらないケーキを選んだんだった。それがモンブランで、だから今でもモンブラン」
「何かちょっといい話ですね。私は親が何種類か適当に買ってきて、その中で選んでました」
「それもそれでいいとは思うけど」
お互いの過去を話していくと、当たり前にそれぞれの思い出があって、違ってはいるものの大体が似たような経験をしていて、それはつまり、彼女の言った通り普通で、普通だからこそ、えりちゃんのことを考えてしまう。彼女は、僕たちの普通を経験したことがないのだろうか。遊びに行ったのは動物園の一度きりで、誕生日も、クリスマスも、特別な一日にはならなかったのかもしれない。もしかすると、面倒を見てくれたというおばあちゃんは何かしてくれたのかもしれない。だけど、彼女はきっと両親にも一緒にいてほしかったに違いない。えりちゃんの過去には、そして今も、近くにいるはずの存在が、ほとんど遠いところにいるんだ。
「それにしても、先輩。どうして急に昔のことを聞いてきたんですか?」
「どうしてだろう。まあ未来の話はしたことがあったけど、昔の話って今までしたことなかったじゃん。だから、たまにはいいかなって」
「そうですか」
「うん。あ、もう一つ聞いてもいい?」
「はい」
「もし、浅田の両親が仕事ばっかで、浅田のことをあんまり見ていなかったとしたら、どう思う?」
「うーん……ちゃんと面倒見てよって言うかなぁ」
「それでも仕事優先されたら?」
「もっと言う」
「何を言っても聞いてくれなかったら?」
「えーひどくないですか、それ」
「確かに子どものことちゃんと見てって思うけど。どう、浅田は。もし浅田がそんなことされたら、どうする?」
「何を言っても聞かないのなら……家出して心配させます」
「家出か……」
いいかもしれない、とは思ったものの、すぐにだめだと気づいた。だってえりちゃんは、ある意味ではすでに家を出ているからだ。彼女は今隣町で一人暮らしをしている。今の家から出たところで、それは家出にはならない。
「えっ、先輩もしかして家出する気なんですか!?」
「は!?」
突然浅田がそんなことを言ってきて、僕は驚く。
「だって、妙に考え込んでるから」
「いや、別に……」
「何か悩み事でもあるんですか? 家族と上手くいってないんですか?」
「そんなことないよ。大丈夫だから」
僕に関しては本当に何もないのだけど、えりちゃんのことが頭をかすめると、どういうわけか自分のことみたいに考えてしまって上手く否定できなかった。そんなぎこちなさに、浅田は疑わしそうに僕を見ていた。
「先輩、家族は大切にしないとだめですよ。いつも近くにいるから、案外そのありがたみが分からないかもしれないけど、でも絶対、私たちを助けてくれているんですから。ね」
「う、うん……」
意表を突かれた。こんな大人な発言が飛び出してくるとは、思ってもみなかった。
その時ちょうど浅田の家の前に辿り着いた。彼女は、「じゃあ先輩、さよならです」と言った後に、「家族にありがとうって言うのも、たまにはいいかもしれませんよ」と言い残して家の中に入っていった。ドアが閉まる前に、「ただいまー!」という声がして、浅田の家の温もりを感じた。浅田はきっと、愛されている。これまでの言動からも、そしてさっき話したことからも、それは明らかだ。
その一方で、えりちゃんは愛されていない。浅田がもしその立場なら、彼女は家出をすると言った。心配させると言った。そうだ、心配させる。それが重要なんだ。浅田にとって両親を心配させるのは、家出をすること。つまり、姿を消すこと。でも、えりちゃんはもう両親の同意の元でそれを成し遂げている。だとしたら、姿を消す以外で両親を心配させる方法を探すしかない。何か方法はないだろうか。僕は家までの残りの道を、頭を使いながら歩いていった。
夜、父さんが仕事から帰ってくると、母さんがご飯のために僕の名前を呼ぶ。それで僕はリビングに向かう。廊下に出た瞬間から、肉の焼ける匂いが嗅覚を刺激して、途端に空腹を感じる。テーブルにはすでに料理が並んでいた。味噌汁、ポテトサラダ、煮物、牛肉のステーキ。ご飯は各自好きなだけよそうシステムになっているので、テーブルを素通りして台所に向かう。母さんはすでに自分の分のご飯をよそっていて、それをテーブルに運ぶところだった。だけど、その途中で麦茶を出していないことに気づいて、冷蔵庫から取り出して一緒に持っていった。僕は食べたい分だけご飯をよそって、母さんの「コップ持って来て」という言葉が飛んでくる前に食器棚から持てる分だけコップを手に取ってテーブルに向かった。残りは母さんが持って行って、その間に父さんがリビングに入ってくる。父さんはいつも洗面所ではなく台所で手を洗って(うがいはしない)、そして自分のご飯をよそう。
全員が席についた。誰からともなく「いただきます」を言って、各自食べ始める。これが僕の家の食事風景だ。多分、一般的な風景だと思う。部活に入っていたり、浅田のように受験で塾に通い詰めていたり、親の帰りが遅くなければ、こうやって顔をそろえて食べるだろう。だけど、えりちゃんは違う。彼女の両親は仕事で家を空けることが多くて、家族で食べる機会がなかった。えりちゃんによると、近所のおばあちゃんの家でおばあちゃんと二人でご飯を食べていたそうだ。だけど、それも小学三年の夏までしか続かなかった。転校で、彼女は完全に一人になってしまった。その頃から自分で家事をしていたのだろうか。小学三年で、何もかも完璧にこなせていたとは考えにくい。正直僕なんかは、高校生になっても洗濯機の回し方を知らない。ましてや小学生の時なんか、親の帰りを待つくらいしかできなかったのではないかと思う。でも、両親が面倒を見てくれるという環境に慣れ過ぎているために、僕を基準に考えても意味がない。彼女がどれだけのことをやって来られたかは推測するしかなくて、絶対僕よりは上手くやっていて、多分、同じ小学三年の中では飛びぬけて上手くやっていたと思う。つい昨日、彼女の弱い部分を見たけど、裏を返せば、それまでは全くそんな気配を見せなかったんだ。再会した時は、随分と大人っぽくなったと思ったくらいだった。だからと言って、たとえ僕の推測が当たっていたとしても、小学三年生が一人でやるにはいつか限界が来る。彼女は子ども会に入会していたと言っていたけど、僕の小学校にも似たような支援があった。仕事などで帰りの遅い親を持つ子どもを対象に、決められた時間まで学校が預かるシステムだ。当時仲の良かった、今はもう転校してしまった友達もよくそこに通っていて、畳の部屋でおやつをもらっていたのを見かけたことがある。当時はただ羨ましいな、自分もその部屋に入ってみたいなと思っていたけど、今考えてみると、その部屋にいた子どもたちは、何らかの事情を抱えていたんだ。そこにいる間は、確かに彼女も孤独を忘れて笑っていられたんだろう。だけど、その後は? 子ども会は夜寝て、朝起きて学校に行くまで面倒を見てはくれない。きっと彼女は、一人の夜を何度も繰り返してきたんだろう。そう思うと、胸が苦しくなった。
「恵人、どうしたの?」と母親が聞いてきた。
僕は驚いて顔を上げる。それまでうつむいていたことに気がついていなかった。
「食欲ないの?」
「確かに顔色悪いな、夏風邪か? 気をつけろよ」
手洗いだけで済ませる父さんには言われたくない一言だった。ただ、今それを指摘する気もなかったから、何でもないというふうに流して、止まっていた箸を動かし始めた。
「そう言えば、同窓会、行けるの?」
唐突に母さんが尋ねた。
「あー、どうだろ。まだ分かんない」
と父さんは答える。
「早く教えてちょうだいね。締切、近いんだから」
「ああ、分かってる」
二人は同じ高校の同級生で、でもその当時はクラスも別々で接点がなく、大学を卒業した後に知人の紹介で知り合ったそうだ。だから再会というよりは、初対面という方が合っていて、ほとんど一から関係を築いていったそうだ。
最近はあまり興味がなくて聞かなくなったけど、昔は二人の高校時代の話を聞かせてもらっていた。直接的な接点はないものの、数学の先生が美人だったとか母さんのクラスにいた生徒で、今はプロの将棋士として活躍している男子とか、共通の話題を楽しそうに話していたことを憶えている。他にも修学旅行には海外に行ったことや、文化祭で何をやったか思い出そうとして頭をひねっていたけど、……そうだ、確か一人の男子と一人の女子が、一週間学校を休んだという話を聞いたような……。二人の話を思い出していると、不意にその記憶がぼんやりと浮かんできた。二人の生徒が休んだというたったそれだけのことなら、二人が憶えているはずもなく、ましてや聞いただけの自分が憶えているわけがない。憶えているのには、何かそれなりの理由があったはず。どんな内容だっただろう。……思い出せそうで、どうにもその靄を払いきれない。
「恵人、あんたやっぱり風邪じゃない?」
母さんが、今度ははっきりと心配そうな顔をして聞いてきた。
「冬は風邪の季節って言われてるけど、だからって夏をおろそかにしていいってことでもないんだぞ」
ということを、年中手洗いだけで済ませる父さんにはやっぱり言われたくない。
「風邪じゃない。ちょっと考えごとしてて」
「何?」
「小学生の頃さ、二人の高校時代のこと聞いたことあったじゃん」
「あったね」
「その時、生徒が一週間学校休んだ話、してなかった?」
「あー浜辺くんと岡倉さんのこと」
「その二人、何で休んだだけなのに話してくれたのかなって思って」
「それは二人が風邪で休んだからだよ」横から父さんが答える。え、そんなこと!? って思って声に出そうとする前に、「なんてことで話すと思うか」と言った。その嫌に笑った顔に少し苛立った。
「やっぱり理由があったんだ」
「駆け落ちだよ」
「駆け落ち」
納得しかけて、でもそうだったっけと思い直す。おそらくそれが真実なんだろうけど、それを聞いた時のことを思い出せないから、やっぱり釈然としない。何とか記憶を更新しようとする。
「そう、駆け落ち。俺たちはその二人とも違うクラスだったから、他の奴らから聞いただけなんだけどな、いろいろあったみたいだ」
「何があったの?」
「何でも親が猛反対したんだそうだ」
「それで駆け落ち……」
「まあ浜辺の方がな、ちょっと目立つ奴だったんだ。髪染めたり飲酒したり。一度学校の教師殴って謹慎処分、なんてこともあった、よな」
「あったわね、そんなことも」
「……女子の方は、その浜辺って人のどこを好きになったんだろう」
「さあ、分かんねーな。まあでも駆け落ちするってくらいだから、そいつには魅力的に映ったんだろ」
親に反対されて駆け落ち。自分の周りでそんなことをしたやつは今までにいなくて、それにあまりドラマなどでもそういう場面を見たことがないから、自分にとっては珍しいと思えた。そして高校生になった今、もう一度その話を聞いてみると、ずっと記憶するほど興味深い話でもないように思えた。珍しいとは思うものの、今の自分にとってはそれ止まりだ。一体小学生の僕は、何を理由にその話を憶えていたんだろう。
「それにしても、急にどうした、恵人」
「何が?」
「いや、何でそんなこと聞いてきたのかと思って。お前、彼女できたのか」
「いないいない。何か思い出しただけだよ」
と僕は咄嗟に嘘をついた。家族には浅田と付き合っていることを隠しているのだ。でもその時、僕の頭に浮かんだのは浅田ではなく、えりちゃんの顔だった。どうして。何でえりちゃんが出てくるんだ。……多分、さっきから彼女のことを考えていたからだ。だからふと彼女の顔が浮かんできたんだ。彼女はただの……。ただの、あれ……何……。ただの何なんだろう。
変な気分だった。さっき駆け落ちの話を思い出そうとして、でも思い出せなかったときに感じたもどかしい気持ち。それに似ている。何か当てはめる言葉はあるはずなのに、たとえそうしてみても、どれも納得できない気がした。僕にとって彼女は一体、何なんだろう。
彼女ではない。じゃあ友達? ……しっくりこない。そう、そこが問題だった。僕にとって彼女は友達ではない。いや、それでは語弊がある。クラスメイトの橋本や江藤のような普通の友達ではない。何か別の位置づけがあるはずで、でも僕はそれを上手く見つけられない。見えそうで見えてこなくて、やっぱりもどかしい。
「まあどっちでもいいけど。でももしお前が駆け落ちしようって考えることがあれば……」
と父さんは意味ありげに余韻を持たせる。絶対に見つけ出す、とでも言うんだろうか。
「むしろやってみろって思うな」
「どういうこと、それ」
「子どもが知恵を絞ったところで大人には敵わないってことだよ。浜辺と岡倉もあっけなく見つかったしな。お前もすぐ見つかる」
やってもいないのに頭から決めつけられて何だか腹が立った。
「やってみなきゃ分かんねーだろ」
「おお、その通り、やってみなきゃ分かんねー。でもお前にそんな勇気があるかな?」
どこまでも挑発的な態度の父さんにますます腹が立つ。
「じゃ、じゃあやってやるよ」
……いつか、と心の中で付け加える。
「それは楽しみだ。首を長くして待ってるよ」
一向に態度を変えようとしない父さんの顔を、もうこれ以上見ていたくない。早くリビングからいなくなりたい一心で料理をかき込みかき込み、ろくに噛みもせずに麦茶で流し込みつつ皿を空にしていった。最後の一口を口の中へ放り込み「ごちそうさま」と早口で言って食器を流しへ運んで部屋に戻った。その途中、母さんが「煽ってどうするのよ。もし本当に家出ていったら……」と注意する声が聞こえた。どうせ反論するに決まってる。それを聞くと怒りが収まるのにさらに時間がかかる気がして、父さんの声が届いてこないように大きな音を立てて扉を閉めた。
「ったく子ども扱いしやがって」
部屋に入るなりそう独り言ちた。
父さんにはああいう一面がある。昔から僕に挑発的な態度を取っては、僕が気を悪くしたり怒ったりする姿を楽しんでいた。母さんに相談してみたことも何回かあったけど、決まってそれは父さんなりのスキンシップの取り方だと説明するだけで、どこか認めているみたいだった。スキンシップとはいっても僕にとっては鬱陶しく感じるだけだった。いつもそんなやり取りをしているわけではないのが救いで、もしそれが毎日続くようなら、僕は父さんと顔を合わせることを拒否していただろう。
椅子に腰かけて携帯を取り出す。えりちゃんにメールをするために画面を開く。そこで彼女が今日バイトに行っているのでは、と考える。一応確認のため、『今バイト中? もしバイトなら終わってから連絡くれる?』と文章を作って送信した。案の定返信はなくて、だから彼女のバイトが終わる時間まで風呂に入ったり音楽を聴いたりして過ごした。
十一時過ぎ、えりちゃんのバイトが終わってからメールのやり取りをした。内容は、えりちゃんの問題に対することだ。だけど当の本人から送られてきたメールに、僕は眉をひそめた。
――あんまり真剣に考えなくていいよ。
何でって思った。真剣になるに決まってるじゃんって思った。納得できなくて、「どうして?」と返した。
――昨日はちょっと感情的になり過ぎたところがあったし、それにこの問題は私個人のことだから、他の人には迷惑かけたくないの。
他の人……。僕にはその言葉がやけに引っかかった。いい気持ちにはならない。むしろ嫌な気持ちになる言葉。他の人、他の人……。じっとその白い文字を見つめていると、どうしてそう感じるのかが分かってきた。
きっと、僕はまだ彼女にとって、迷惑をかけてもいい人になれていないんだ。
えりちゃんが僕に秘密を打ち明けてくれて嬉しいと感じたのは、彼女の壁の内側に入り込めたと思ったからだ。でも彼女はまだ、壁を作っているんだ。それがいくつあるのかは分からない。一つかもしれないし、二つ、三つかもしれない。いずれにせよ、近づけたと思った彼女がまた少し遠くなったような気がして、悔しかった。力になれるかどうかは正直分からないけど、力になりたいと思っていたのに、「他の人」という位置づけが僕の心をかき乱す。
何で、と思いながら、僕は発信ボタンを押した。数回続いたコールの後、『もしもし』というえりちゃんの声が聞こえる。
「遠慮しないでよ、えりちゃん」
『…………』
えりちゃんは何も言わない。だから僕は続けて言う。
「つらいんでしょ? えりちゃんは。つらくてつらくて、それで僕に教えてくれたんだよね。だったら、僕に迷惑かけたくないなんて言わないでよ。そっちの方が……迷惑だよ……」
思いがけず強くなったような、そんな呼吸の音が、電話越しに聞こえてきた。無言の後で、『ごめんなさい』という声がした。
『ほんとは、話そうかどうかも迷ってたの。恵人くんの迷惑にならないかなって、ずっと考えてたの』
「うん」
『でも恵人くんが私の何かに気づいて、その原因が自分にあるって勘違いしたから、もう迷ってられないって思って。結局中途半端だったから迷惑かけちゃって、昨日話した後、家に帰ってからやっぱり話さなきゃよかったって思った』
「そんなこと言わないでよ。僕は迷惑だなんてちっとも思ってない。むしろ、嬉しかった。えりちゃんが僕に全てを話してくれて。僕じゃ頼りないかもしれないけど、力になりたいんだ」
僕がそう言うと、少し間があってからえりちゃんは『……ありがとう』と消えそうな声で言った。
「近いうちにまた会って話したいんだけど、いつ空いてる?」
『木曜日、かな』
「じゃあ木曜に会おう。場所はえりちゃんにまかせるよ」
『分かった』
「じゃあ、おやすみ」
『おやすみ』
電話を切って、その日は終わった。
木曜日。朝家を出ると、泡みたいに厚い雲が空に浮かんでいて、それで母さんに雨が降るのかと確認して一応折り畳みの傘を鞄に忍ばせた。夏休み前の、どうしても頭に入ってこない授業は滞りなく進み(それが二学期のテスト範囲に入るのだと思うと憂鬱だった)、大きなもめ事も、数日続きそうな魅力的な噂話も、何も持ち上がらなかった。何でもない一日。そう、だから放課後になって、朝に感じた夕立の気配が本物だったことも、夏を過ごしているのならよくあることの一つなんだ。
結局この日もえりちゃんはこっちに来ることになっていた。公園か川で話す予定だった。だけど、駅に向かって自転車を走らせている間に灰色の雲が垂れ込めてきて、雨が降り出した。最悪だ、と思っている間に勢いは増していき、途中まで自転車をこぎ続けていたけど、諦めて傘を差した。折り畳みは風ですぐに裏返るから自転車に乗りながら使うことはできない。そもそも、傘を差して自転車を運転することは禁止されているんじゃなかったっけ。とにかく残りの道は自転車を押して歩いた。そして駅について、えりちゃんが構内の出入り口付近で僕を待っている姿を目にした時、前にもこんなことがあったような気がした。最初はぼんやりとしていたそれは、この雨のように勢いよくはっきりとしていった。
小学三年生の夏休み前のこと。その日は大雨で、雷が鳴ったり警報が出たりして、ちょっとした騒ぎになった。放課後になっても雨が止む気配はなくて、弱まることもなくて、むしろますます強くなっているみたいだった。このままでは帰ることができないから、保護者が迎えに来ることになった。それまで僕らは学校の中で待つことになった。太陽の光は完全に雨雲に閉ざされて、窓の外は暗く陰鬱だった。廊下もいつもよりも数倍暗く沈んで見えて、教室だけが白く明るかった。たまに空が光ったりして、怖がるクラスメイトもいたと思う。誰かが泣いていたかもしれない。それを、男子が笑ったかもしれないし、大丈夫だと慰めたかもしれない。僕とえりちゃんは、仲の良かったクラスメイトと一緒に集まって何か話していた。多分、雨がすごいね、ってことだったと思う。他にも話したことはあったはず。でもその時印象的だったのは、えりちゃんの雨を見上げる表情だった。いつも笑ってばかりいた彼女が見せた、もの悲しそうな表情。その時僕は、雨が降っていて帰れないからそんな顔をするんだって思った。その程度のものだと思っていた。でも、今となっては違っていたのかもしれないということに、思い当たる。
各自思い思いの方法で連絡を待っていると、雨の音に混じって車の走る音が聞こえてきた。そして担任の伊南先生は、迎えが到着したクラスメイトを送り出すのに、忙しなく教室を出入りしていた。一人、また一人とクラスメイトが教室を出ていって、僕らはそれを見ては「遅いね」なんて言ったりしていた。彼女は、僕の言葉には答えようとはしなかった。
やがて僕のところにも迎えが来た。えりちゃんは、昇降口まで見送りに来てくれた。薄暗い外に一度目をやって、そして彼女を見た。やっぱりもの悲しそうな表情だった。僕は「乗っていく?」と尋ねた。えりちゃんは、少し驚いたふうに僕を見て、こう言った。「ううん。もうすぐ来ると思うから、待ってる」
その時えりちゃんは、大丈夫とは言わなかった。親が迎えに来るのを待つと言った。僕は彼女のその言葉を信じて、大粒の雨の中を走っていった。一度振り返ると、彼女はまだ僕を見ていた。次の日、彼女がどうやって家に帰ったかを聞くことはなかった。彼女の言う通り親が迎えに来たか、結局最後まで来なくて、伊南先生の車で帰ったかのどちらかだろう。その時の僕にとっては、どっちでもよかった。ちゃんと家に帰れたのなら、それでよかった。えりちゃんは、昨日見せた表情とは打って変わって、いつものように晴れやかだった。僕にはそれが嬉しかったし、何より、安心した。僕らはその日も、一緒に遊んだ。
彼女の悩みを知った今、見えなかったことが見えてくるような気がした。
彼女の両親は、結局彼女を迎えに来なかったんじゃないか。
彼女が悲しそうな表情をしたのは、それを分かっていたからじゃないのか。
僕の誘いを断ったのは、やっぱり迷惑をかけると思っていたから?
もし全部がその通りだったら、次の日のえりちゃんは、無理をして振る舞っていたことになる。
一度そう考えると、何だかそれが答えのように思えてしまって、少しずつ近づいていくえりちゃんの顔を見ることができなかった。
彼女の前でとまって、どうにかいつも通りを装う。
「雨、すごいね」
「うん。あ、ハンカチでよかったら貸そうか?」
「ああ、うん。ありがとう。でも先に自転車置いてくるよ」
そう言って僕は駐輪スペースに自転車を置きに行った。屋根がないから濡れるのは仕方がない。スタンドを下ろして鍵を抜き、素早く構内に入る。畳んだ傘から水が滴り落ちて瞬く間に小さな水たまりを作った。
「はい」
と彼女はハンカチを渡してくれた。
「ありがとう、ごめんね」
「ううん」
腕や手が濡れていたから、そこだけさっと拭いてすぐに返した。あんまり、人のハンカチを汚す気にはなれない。
「どうしようか、これから」
「喫茶店あったよね」
「ああ、うん。入ったことないけど、あった」
「そこにする?」
「他に何もないもんね。そこにしようか」
えりちゃんが頷いて、僕らは目当ての喫茶店に向かうことにした。でも、歩き出してすぐに、彼女は急に足を止めた。
「あ」
「どうしたの?」
「洗濯物、外に干したままだ……」
「えっ、ほんと?」
「うん。どうしよ」
そんなこと、決まっているはずなのに、えりちゃんは動こうとしない。ただ動揺しているだけだ。
「じゃあ帰らないと!」
そんな彼女に、僕は急き込んで言った。
「う、うん。でも……」
「僕のことはいいから! 話はまた別の日にもできるし、今日は帰った方がいいよ」
「……分かった。ごめんね」
「しょうがないよ」
目に見えて萎れてしまったえりちゃんと並んで、改札まで向かった。大して移動していなかったから、すぐだった。
「じゃあ、また連絡ちょうだい」
「……うん」
彼女の声は、次第に小さくなっていく。そこまで申し訳なく思う必要なんてないのに。だから僕は少しでも彼女を元気づけようと明るく振る舞った。
「そんなに落ち込まないでよ。えりちゃんのせいじゃないんだからさ! 今日は会って話すことはできないけど、でも電話ならできるし。だからさ、元気出してよ。えりちゃん」
えりちゃんは何も言わない。空元気っぽく聞こえてしまったんだろうか。そんなことを気にしていると、
「……きて」
彼女は何かを言ったみたいだった。よく聞こえなくて、僕は聞き返す。
「うちでよかったら、きて」
えりちゃんは、確かにそう言った。すぐ外では全力で雨が地面を叩いていて、改札回りには高校生や電話をしながら歩く大人たちが行き交っている。彼女の声は周囲の音に埋もれてもおかしくなかったのに、僕にははっきりと聞こえた。
「…………いいの?」
「…………うん」
「じゃあ……行く」
そして僕は、えりちゃんと一緒に改札をくぐった。
電車に揺られること数十分。えりちゃんが住んでいる町についた。
「傘、持ってる?」
と僕が尋ねると、えりちゃんは困ったように「ううん」と首を振った。
「あ……そっか。えっと、じゃあ……」
いわゆる相合傘をするのに、僕は躊躇った。何となく、後ろめたさを感じたからだ。えりちゃんはえりちゃんで、申し訳なさそうに顔を俯けていて、僕の答えを待っているようだった。
相合傘ができないのなら、傘は彼女に譲るべきだ。濡れてしまうけど、その代わりタオルを貸してもらおう。
「はい」
広げた傘をえりちゃんに差し出す。目を大きくして驚きを表す彼女に、僕は言う。
「僕のことは心配しないで。でも、家についたらタオルか何かを貸してもらえるとありがたい」
えりちゃんは驚いた顔のまま、しばらく僕のことを見つめていた。やがて視線をそらせた彼女は、躊躇っているのだろう、なかなか手を伸ばそうとしない。それでも、すっと息を吸い込んだ彼女は決心したらしく、僕の手を押し返して……。
「え?」
疑問符を浮かべる僕に、えりちゃんはほとんど消え入りそうな声で言う。
「……二人で使えば、いいんじゃないかな……」
もう真下を向いている彼女の表情を窺い知ることはできない。僕が驚きに固まっている間にも、彼女は手を離して距離を詰めてきた。普通に肩と肩が触れ合う距離。こんなにも近づいたことなんて――
と、不意に彼女とキスをした場面が浮かんできた。そうだ。僕らは今よりもさらに近くにいた。今この瞬間、僕らはキスをしているわけではなくて、ただすぐそばに立っているだけだ。それなのに、胸に何かが詰まったようで、息をするのが少し苦しかった。その影響か、心臓が慌てたように動いている。あの時はそんなこと、起こらなかったのに。どうして、今それが起こるんだろう。答えの見つからない疑問に、僕は混乱した。でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。早くえりちゃんの家に行って、洗濯物を取り込まなくてはいけないんだ。今も続く謎の現象は一旦棚上げして、そして覚悟を決めて、二人で一つの傘を共有することにした。
空はどんよりと曇っていて、雨は降り始めた時の勢いを保ったままだった。傘にぶつかる雨の音も、車が走り去っていく音も、何もかも誇張されている。そんな中で、僕らは反対に無言だった。本当は急がなくちゃいけないはずのえりちゃんの足取りは、むしろ遅くて、でも、今の僕にそれを指摘する気は起きない。代わりに僕は、俯き気味の彼女の様子をちらちら伺いながら、彼女の生活のことを考えた。
正直、えりちゃんがどのような暮らしを送っているのか、興味がないわけではなかった。彼女と再会して、一人暮らしをしていることを聞いて、ふっと生活の一場面を思い浮かべようとしたことは、何度かあった。でも、どういうわけかはっきりと思い浮かべることができなかった。上手く想像できなかった。学校から帰った後、バイトから帰った後、彼女は何をするんだろうか。夕飯はいつ食べるんだろうか。時間ができれば何をするんだろうか。テレビを見る? 本を読む? 勉強をする? いつも何時ごろに寝て、何時ごろに起きるんだろうか。
考えてみれば、僕はえりちゃんのことを知っているようで何も知らなかった。いや、そもそも知っているようで、というところから間違っているのかもしれない。実際よく遊んだ小学三年の時でさえ、彼女の好きなものや嫌いなものを何一つ把握したことはなかった。ただ藤井愛理奈というクラスメイトといつも一緒に遊んでいて、そして夏休みの日にキスをした。たったそれだけの関係だったんだ。
今になってようやく彼女の本質のようなところを知ることはできたけど、その他のことは今でも分からないままだ。家に行くということは、つまりそれが明らかになるということ。そういうことに、僕は……緊張している。
女子の家には何度か行ったことがある。浅田はもちろん、小中のクラスメイト何人かの家だ。だけどその時は全く緊張の二文字は現れなかった。最初の時は、遠慮がちにはなったかもしれないけど、やっぱり緊張はしなかったと思う。浅田なんて、いい意味で女子らしさのない部屋で、むしろ居心地がよかった。
それなのに、相合傘といい、彼女の家といい、えりちゃんのことになれば、平常心ではいられなくなる。確実に近づきつつある彼女の一面に、平静を保とうとする自分が強くなっていく。えりちゃんのことを知りたいのに、同時に覚悟を必要とするんなんてばかげている。そうは思うものの、そうなってしまうんだからどうしようもない。僕は、どうしようもなく彼女をすぐ隣に意識したまま歩き続けた。
「昔」
それからどれくらい歩いただろう。ぽつりと呟くように、えりちゃんが言った。それが道案内ではなく、ごく普通の会話のために発せられた言葉だったから、僕は続く言葉に耳を傾けた。
「大雨が降ったことがあったよね。夏休み前に」
「う、うん。あった」
彼女が言っているのは、駅で彼女を見つけた時に思い出したことと同じことだろう。僕の頭は、またあの日を回想し始める。
「みんなはしゃいでた」
「うん。私たちも、教室の隅っこで集まって騒いでた。で、雨がやまないから、親が迎えに来ることになったよね」
「うん」
「段々と人数が減っていって、私たちはそれを眺めてた」
彼女の言葉に耳を傾けるあまり、相槌を打つのも忘れていた。えりちゃんはちらりと僕の方を見ると、また視線を下に向けて、話を続けた。
「恵人くんの迎えも、ついに来た。私も一緒に下駄箱までついて行った。それで、恵人くんは、確かこう言ったの」
「一緒に帰る?」
えりちゃんが言おうとしていた台詞を、僕は先に口にした。彼女は驚く様子もなく、小さな声で「そう」とだけ言った。
「でもえりちゃんは、残った」
「うん」
「迎えに来るからって」
えりちゃんは首だけを縦に振って、それを肯定した。
「本当に、来たと思う?」
正直なところ、僕にはその答えがすぐに分かった。考えるまでもなく、これまでのことを知っている僕には、もはや明らかだった。
「先生の車で、帰ったの?」
少し間を空けてから、彼女は「そうだよ」と言った。
分かってはいたけど、彼女からそれが真実だと告げられると、やっぱりつらい。あの時の彼女は、抱えていたことを微塵も表には出さないで、いつものように「バイバイ」と言って僕を見送った。そして翌日も、いつもと変わらない態度で僕らと一緒に過ごした。
あの頃からずっと一人で抱えていたなんて。そんなの、そんなの……。
「もっと早く、言ってくれれば……よかったのに」
えりちゃんは無言で、僕の顔を見た。僕の、きっと大げさに歪めた顔を見ても、彼女は何の反応も示さなかった。代わりに一言、「言えないよ」と言った。
「だってその時の私は、親が迎えに来ないことで、悲しい子だって思われたくないって思ってたから。それにまだ、信じてもいた。遅くなっても、絶対来るって。だから、どうしても言えなかったんだよ」
だけど結果として、彼女の両親は迎えには来なかった。彼女の当時の心境を知った今、その事実はさらに鋭さを増して、僕の心に深く突き刺さる。そんなの……あまりにもひどすぎる。
彼女の手前、いくらひどいとは言え、ストレートに彼女の両親を悪く言うことはできない。本当なら会って、直接、叫んでやりたい。彼女がどれだけ苦しんだのか。どれだけ愛してほしいと思っていたのか。叫んでも伝わらないようなら、殴ってやろとも思った。だけど今できることと言えば、下唇を噛んで、傘を握りしめた手に、より一層の力を込めることくらいだった。
「僕は、えりちゃんが悲しい子だなんて思わないよ。家族思いの、優しい子だと思う」
僕には、えりちゃんの望んだ両親がいる。そんな僕が言っても、嬉しくないだろう。むしろ不必要な言葉だったかもしれない。それでも彼女は、ここに来て初めて笑顔を見せてくれた。ほんの小さな、だけど温かみのある笑顔だった。
「着いたよ」
えりちゃんが立ち止まったのは、真新しいとは言えないまでも、比較的新しい二階建てのアパートの前だった。外壁はクリーム色で、外観を意識した植え込みなどもあって、すっきりと落ち着いた印象の建物だ。エントランスのドアロックを解除して、中に入る。えりちゃんは真っ直ぐに歩いて、正面の階段を上っていった。コツ、コツという音を追って、僕も続く。
「ここが、私の部屋」
二階の一番奥まで来た時、えりちゃんはそう言った。
「あの、洗濯物取り込んでくるから……ちょっとだけ待っててくれる?」
視線を合わせずに言った彼女のその心理に遅れて気づいた僕は、「あ、うん、分かった」と上ずりそうになりながら返した。
彼女が部屋の中に消えると、溜めこんでいた息をふっと吐き出した。今日はやけに落ち着かないことが多い。きっと、相手が浅田なら、こうはならない。
そう、相手がえりちゃんだから、変に意識してしまう。どうしてだろう、と答えが出ないことを分かっていながら、それでも降りしきる雨を眺めて考えた。そして数分後、扉が開いた。
「ごめん、お待たせ。入って」
「お、お邪魔します……」
僕を出迎えたのは、かすかな芳香剤の香りだった。靴箱の上にスティックタイプのそれが置かれていて、りんごのような香りが漂っている。ただ、少し意識してみると、りんごの香りに混じって、さらに何種類か別の香りもするみたいだ。それが何の香かは分からないけど、互いの香りとぶつかるようなことはなくて、上手く混じり合って、優しい香りになっている。
玄関の先は、少し開けた空間になっていて、右側の壁に沿ってキッチンが設置されている。反対の壁には、扉が二つ並んでいる。多分、風呂場とトイレだろう。
「狭いかもしれないけど……」
と、申し訳なさそうにえりちゃんが言った。
「全然、そんなことないよ」
僕の周りには一人暮らしをしている知人が今までいなかったから、正直、基準が分からない。だけど、体感覚的には全然狭いとは感じなかった。
えりちゃんの後ろに続いて、オレンジ色の照明の下を歩いていく。すぐにリビングへの扉までたどり着いて、一人ずつ入っていく。
広さは、大体八畳くらいだろうか。ベッドがあって、勉強机があって、箪笥があって。部屋の真ん中には白い丸テーブルが置かれている。
それだけだった。高校生になってから、いや、中学も三年生になってからは女子の家に遊びに行くこともめっきり減った僕にとって、女子高生の部屋をイメージするのは難しい。それでも彼女の部屋は、あまりにもシンプルだった。色調としては、女の子らしい赤やピンクを取り入れてはいるけど、それを黒とか青に変えると、男子高校生や男子大学生のそれと言われても違和感がないだろう。いや、その男子高校生である僕でも、もう少し物がある。そう、彼女の部屋には、生活するために必要なものが最低限置かれているくらいだった。女子高生なんだからぬいぐるみとか、ファッション雑誌とか、好きなアイドルのポスターとか、そういう類があってもいいものなのに一切ない。
彼女の部屋に入れば、彼女のプライベートな一面を覗き見るんだと緊張していたけど、その空間には、予想していたほどの個性を感じることはなかった。
「あんまり女子高生っぽくないけど……」
声もなく扉の前で立ち尽くす僕に、えりちゃんは言った。彼女も気にしているみたいだ。
「ああ、うん。全然、僕は好きだけど」
そう。何も彼女の部屋が嫌いなわけではない。ただ、僕はがっかりしたのかもしれない。家族との問題があったせいで、彼女は周りに迷惑をかけないように、一人で生きていく決意をした。それはつまり、他人への自己主張を極力控えようとすることだ。僕に対しては、迷惑をかけても構わないと言ったから、彼女はそうすることに躊躇いを薄れさせつつあるように感じるけど、せめて自分にだけは、自分を主張してほしかった。自分の部屋って、つまりそういうものだと僕は思っていた。本棚には好きな本を、クローゼットにも好きな服を、部屋の隅にはよく使うギターとかゲーム機とか。そういう自分の個性で埋め尽くされた空間というものが、自分の部屋なんだと、僕は思っていた。だけど彼女の部屋には、彼女の個性を感じられなくて、だからこそ僕は、曖昧な気落ちみたいなものを感じたんだ。
でもさすがに、そんなはっきりとしたものではない感情を彼女に告げられるほど、僕は言葉選びが上手くはないから、もうこれ以上部屋のことについては言及しないことにする。
「好きなところに座って。お茶、入れてくるね」
「ありがとう」
入れ替わるように、僕とえりちゃんは動いた。僕はベランダに背を向ける形でテーブル前に腰を下ろし、反対側の扉付近に目をやった。すぐにそこから彼女が両手にコップを持って現れ、僕の向かい側に腰を下ろした。
ありがとう、ともう一度礼を言って一口啜った。麦茶はほどよい冷たさで、飲んでから意外と喉が渇いていたことに気づく。もう一回だけ飲んで喉の渇きを潤す。
「あ、そうだ。タオルいるよね」
えりちゃんは僕のシャツを見てさっと立ち上がる。確かに僕のシャツは、防ぎきれなかった雨水を吸って下に着ている服を透かそうとしていた。
箪笥から一枚のタオルを取り出した彼女に、「悪いね」と言ってそれを借りる。思ったよりも傘が大きかったのか、彼女の方に傾けていた割には対して濡れていない。一通り水分を取ると、彼女に返した。それを風呂場まで持っていく彼女を見届けて、戻ってきたところに尋ねる。
「洗濯物、どうだった?」
「ダメだった」とえりちゃんは苦笑した。「今乾かしてる」
「そっか。やになるね、夕立」
「うん」
そして、沈黙が降りた。室内に響く音といえば、閉めた扉の奥からかすかに聞こえてくる乾燥機の音くらいで、後はずっと降り続けている雨の音くらいだ。そんな空間で、僕は何を話せばいいんだろうかと頭を動かし続けている。会って話したいと言ったのは僕の方なんだから、僕から話を――
って、そうだ。話があって今日はここに来たんだった。えりちゃんと、両親の関係を改善する方法を探すために。
「あの、えりちゃん」
静かな空間に、普段よりも小さめで発した声はよく聞こえた。
「えりちゃんの両親のことなんだけど」
えりちゃんは静かに僕の言葉を聞いている。
「やっぱり、もう一度言ってみるべきだと思う。もっと一緒にいたいって」
彼女の話によると、昔はそれを伝えたことがあるらしい。でもそれが叶うことはなかった。それ以来、えりちゃんは一度も伝えていないという。彼女の、人に迷惑をかけないという意思の下で、決めたことだろう。それは分かる。だけど――
「えりちゃんは、きっとそれが両親の迷惑になるんだって思ってると思う」
僕の言葉に頷こうとして頷けないでいるえりちゃんに付け足す。僕のその言葉は、当たっていたようで、顔を上げたえりちゃんの瞳が微かに揺れているのが分かった。
「でも、違うよ。それは迷惑なんかじゃない。むしろ、普通のことなんだよ」
「普通……」
「そう、普通だよ。えりちゃんが両親と過ごしたいって思うことは、何も迷惑なことなんかじゃない。だから言っていいんだよ。一緒にいたいって」
えりちゃんは揺れる瞳で僕のことを見つめていたけど、やがて顔を俯けて言った。
「でも……。あの二人は……」
えりちゃんはまだ躊躇っている。今までずっとそうしてきたんだから、いきなり考えを変えるなんてことはできないのかもしれない。でも、僕たちはそこを越えていかなければいけない。苦しんでいるのは、他でもないえりちゃんなんだから。
「またそうやって他人に迷惑をかけないでいようって思うの?」
僕にしては珍しい早口気味の言葉に、えりちゃんも目を見張った。
「ずっとそうしてきて、えりちゃんは苦しんできたんでしょ? 確かに他人には迷惑をかけなかったかもしれない。でも、それで何よりも苦しんでいるのは自分じゃないか。もう、自分を苦しめるのはやめようよ、えりちゃん。今は僕もいるから、僕も一緒に言うから。だから、もう一回言ってみようよ」
「………………」
えりちゃんは薄く開けていた口を閉じた。唇の内側を噛んでいるみたいに少しだけ動いて、また開いた。
「……迷惑じゃ、ない」
「うん。迷惑じゃない」
しっかりと目を見つめて、力を込めて頷いた。
「……言ってみる。言ってみる」
最初は視線を合わせないで。二回目は僕の目を見返して言った。僕がもう一度頷くと、えりちゃんは鞄から携帯を取り出した。操作を始めた彼女に、僕は尋ねる。
「どっちに電話するの?」
「まずはお母さんにしようと思う」
そう言ってえりちゃんは母親に電話をかけた。
彼女の耳元で断続的にコール音が鳴る。息を潜めて見守る僕に届いてきたのは、あの機械音声だった。「ただいま電話に出ることができません」から始まる定型文が聞こえ出した瞬間、僕らは顔を見合わせる。えりちゃんはすぐに携帯を耳から離して、言った。
「仕事中、だよ」
その言い方には、色濃い諦めの気配が漂っていた。それでも僕は、彼女の雰囲気に呑み込まれないように言った。
「それじゃあ、お父さんの方にかけてみよう」
えりちゃんは無言で頷いた。そしてさっきと同じように携帯を操作して、父親を呼び出す。しかし――
『ただいま電話に出ることができません――』
返ってきたのは、またしても機械音声だった。
やっぱり平日の昼間となると難しかったんだろう。ましてやえりちゃんの両親は、彼女に全然構ってあげられる暇もないくらいに働いていたと聞いている。
でも、それじゃ前と一緒なんだ。相手のことばかりを気にしていては、何も始まらない。相手に迷惑をかけてでも、自分が苦しんでいることを伝えなくちゃならない。そのために僕らは、今こうして行動しているんだ。
という僕の考えが伝わったのか、流れ始めていた沈黙を破ったのは、えりちゃんの耳元で鳴るコール音だった。どちらにかけているのかは分からない。お母さんか、お父さんか、どちらにせよえりちゃんにもそれなりの覚悟があるということは、張りつめた表情を見ていると強く伝わってきた。
果たして電話口からの応答は、機械音声だった。ただ、今回はそこで切るのではなく、えりちゃんは携帯を耳に押し当てたまま、その音声を聞いていた。そして音声が、録音の開始を合図する音を流し始めると、彼女は一度深く息を吸い込んで言った。
「お母さん。忙しいところごめんなさい。少し話したいことがあるの。また電話します」
そう言ってえりちゃんは電話を切った。僕らは自然と目を合わせたけど、何も言わなかった。全く進めなかったというわけではなくて、でも期待した通りに進んだわけでもないから、ここまでの行動をどう評価していいのか分からなかった。そしてそれは、次に何をすべきなのかという問題にもかかわってきて、僕らは考えを巡らせた。
と、視界の端でえりちゃんの携帯の画面が点灯し、そこに母親の名前が表示される。彼女の母親からの着信が来たのだ。
えりちゃんは素早く携帯を取って、耳に当てる。
『何?』
冷たい声だった。僕には、そう聞こえた。それでもえりちゃんは覚悟を決めて話し始めた。
「お母さん……あの、話したいことがあるの」
えりちゃんの声は、さっきとは違って確かに強張って聞こえた。
『それは聞いたわ。早く言いなさい』
「ごめんなさい……」
そして同時に、一音を発する度に声も小さくなっていく。
「えりちゃん」
と僕は小声で呼びかけた。険しい表情の彼女に向かって、大丈夫だよと頷く。彼女も小さく頷いて、そして口を開いた。
「あの、私……お母さんとお父さんと、もっと一緒にいたい。いろんなこと話したい」
えりちゃんの、ずっと心に秘めていた想い。言いたくても言えなかった本当の気持ち。しかしそれは、相手には届かなかった。
『何なの急に。一人暮らししたいって言ったのはあなたでしょう? もうホームシックになっちゃったの?』
「違う……違うの」
えりちゃんはひたすら首を振って否定した。それをやめても、髪は少しだけ揺れ続けた。
『じゃあ一体何なの。ねえ、えり、私今仕事中なのよ? あなたもよく分かってるでしょう? それなのに邪魔してきて。あなたももう大人なんだから、物事の良し悪しは分かるわよね?』
…………邪魔。その言葉を聞いた瞬間、僕とえりちゃんは同じような反応をした。驚きのあまり、強く息を吸い込んだ。
そう。彼女の母親にとって最優先事項は、えりちゃんではなく、目の前の仕事なのだ。仕事の妨げになるものは、たとえ自分の娘であっても邪魔になるのだ。それを、何でもないことのように彼女の母親は言ってのけた。僕らにはそれが信じられなかった。
えりちゃんは薄く口を開けたまま、呆然と白いテーブルの上に視線を落としていたけど、その目はそこを見てはいなかった。
『えり? ねえ聞いてるの? ちょっとえり?』
母親の声がする度に、電話を持つ手がするすると下がっていく。もう、彼女は完全に気力を削がれてしまっていた。そして下がった手が、通話を終了させようと――
僕は反射的に、その手を掴んだ。えりちゃんがはっとして顔を上げて僕を見るのも気にしないで、その手から携帯を奪い取る。そして電話の向こうにいる相手に向かって言った。
「どうして……そんなことが言えるんですか」
いきなり話し相手が変わったことに、これまで淡々と話していたえりちゃんの母親も、さすがに驚きを滲ませた声で答えた。
『あ、あなたは誰なの? えりはどうしたのよ。ねえ!』
「えりちゃんは……ただお母さんとお父さんと楽しく笑って過ごしたかったんだ。どうしてそれが分からないんですか! どうしてえりちゃんのこと、邪魔なんていうんですか!」
『だからあなたは一体誰なのよ! えりのお友達か何か? ねえ、あなたも高校生なら分かるでしょう。仕事の邪魔をしていいなんて学校で教わったの? 悪戯なら今すぐにやめないさい!』
「……最低だ」
『ねえちょっと今なんて言ったの!? もう一回言ってみなさいよ!!」
ついに怒りを露わにした相手に、僕も怒りが込み上げてきた。そして、どこか遠くで自分の声を聞きながらこう言った。
「母親失格だって言ったんだよ! ほんとに最低だ!!」
携帯を耳から離すと、何か聞こえてくる前に通話を終了した。携帯をきつく握りしめた手をテーブルの上に置くと、思いのほか勢いが強くて指の関節が痛む。そこで段々と頭が冷えてきて、冷静を取り戻していく。
「……ごめん」
自分の声がこんなにも驚くほど低くて情けないなんて思わなかった。僕は、まだ微妙に痛む中指の関節を意識しながら、携帯を前の方に置いた。えりちゃんはそれを取らずに、じっと僕の方を見ているみたいだった――何せ僕は、自分の言動にひどく驚くと同時に、後悔もしていて顔を上げられなかった。
「ほんとにごめん。えりちゃんのお母さんのこと、悪く言い過ぎた……」
それは驚くべきことだった。友達とも家族とも大した喧嘩をしたことがない僕が、ましてや他人の親に向かって、「最低」だとか「母親失格」なんて言葉が出てくるとは思ってもみなかった。さらに悪いことに、目の前にはその親の子どももいた。やけに冷静になった頭であらゆることを考えていくと、後悔が際限なく膨らんでいった。いっそのこと、えりちゃんに殴られたかった。「私の親のことを悪く言わないで」って怒鳴られたかった。しかし、彼女はそうしなかった。
「恵人くんは……何も悪くないよ……」
思いもよらない言葉に、僕は顔を上げた。涙は流さなくても、確実に潤んだ瞳は今もテーブルの上に向けられている。
「やっぱり、ダメだよ」
その言葉は、僕の胸に深々と突き刺さった。あまりにも鋭くて、本当に胸の奥に痛みを感じた。
もう僕は何も言い返すことができなかった。まだ何か方法があるはずだって、思うことには思うけど、今それを口にすると、まだ見ぬ可能性が全て潰えてしまう気がしてならなかった。
重い重い沈黙が僕の背中にのしかかる。僕はそれを、歯を食いしばって耐えるしかなかった。そして自分の無力さに、爪が肌に食い込むくらいに両の手を握り締めることしかできなかった。
僕が提案した方法の結果を嘲笑うかのように、雨はますます勢いづいた。もはやそれは、夕立の域を越えていた。それでも、僕は彼女の部屋から出ていこうとした。失敗に終わったこともそうだし、何より、怒りに任せていたとはいえ、彼女の目の前で親のことを悪く言ってしまったことで、もう彼女の前にい続けることが難しくなっていた。今すぐ、逃げ出したかった。
「……ごめん、えりちゃん。今日はもう帰るね……」
彼女に話しかけるのさえ躊躇われて、無理やり押し出すようにして流れた声は、何歳か老け込んで聞こえた。
考えるだけ無駄だとは分かっていても、今すぐ透明になって一瞬で姿を消すことができればいいと思ってしまう。僕が立ち上がるために足を動かした時や、鞄を掴むために手を伸ばした時も――とにかく一挙手一投足に、その思いが募っていく。
彼女の横を、どうしようもなく意識しながら通り過ぎようとした時、不意にズボンの裾を掴まれた。驚くことも、慌てる暇もなく、えりちゃんは言った。
「……帰らないで。……一人に……しないで……」
そして、とん、と彼女の重みが伝わってきた。鼻をすするくぐもった音が、僕の胸を揺さぶった。
足が床に根を張ったみたいに離れようとしなかった。いや、そもそも。もう僕はその時点で足を前に動かす気がなくなっていた。相変わらず彼女に対しての申し訳なさに心は乱れていたけど、今すぐここから離れたいとか、叫びたいとかは思わなかった。ただ、えりちゃんの悔しさや悲しみがぐっと突き上げるように伝わってきて、それしか考えられなかった。
いつしか鞄を握り締めた手はゆっくりほどけていって、支えを失った鞄が重力に従って床に落ちた。膝を折って、床につける。するとえりちゃんは僕の脇腹辺りに顔を押しつけた。なおも声を押し殺して肩を震わせる彼女に、僕はそっと手を伸ばす。彼女の柔らかい髪を、一回、二回と撫でる。彼女に優しくする権利なんか、今の僕にはないと思うのに、こうして心の叫びをぶつけてくる彼女に、僕は他にどうしていいのか思いつかない。
膝立ちの状態から、膝をたたんで完全に座りこむ。えりちゃんも僕の動作に合わせて、脇腹から膝の上に顔を押しつけ直した。余計小さく見えるようになった彼女の頭と背中を、罪悪感を拭えないまま撫で続けた。
ごめん、えりちゃん。と心の中で謝り続けていると、いつの間にか彼女の呼吸が落ち着いていることに気づく。それに合わせて僕も手の動きをさらに遅くする。数分もしないうちに、膝の上で彼女は眠ってしまったようだ。馴染んだ動きを止めて、彼女から手を離す。泣いていた状態のまま眠ってしまったので、寝るのには少しつらい体勢だろう。僕は彼女を起こさないよう気をつけながら足を崩してあぐらをかく。そして同時に、うずくまるようにして眠る彼女を横向きにして寝やすいようにする。一通り体勢を整えると、僕は彼女のベッドに寄りかかることにした。薄暗い天井を見上げて、すぐに目を閉じた。雨の勢いがさらに増したように感じるのは、目を閉じたからだろうか。いつ止むともしれない雨に耳を傾けていると、意識に靄がかかり始めた。眠りに落ちるのに、そう時間はかからなかった。
ふわりと泡が水面に上昇するみたいに、眠りから覚めた。感覚的には短時間だったけど、電気をつけていない部屋は暗く、完全に夜であることを示していた。
夏の夜は遅い。僕は焦りとともに携帯を見た。……八時を十分ほど過ぎていた。親からの電話が一回、浅田からの電話が五回。きっと晩ご飯のことや、浅田に関しては一緒に帰ろうという誘いの電話だろう。そう考えて、焦りを抑え込むことにした。
それでもえりちゃんの家に長くいすぎたことは事実だ。これ以上の長居は迷惑だろう。と、腰を浮かしかけて気づく。えりちゃんが僕の膝の上で寝ていることに。
……暗闇の中で、目が合った。僕がえりちゃんを見ようとしたら、すでに彼女は顔を上げて僕を見ていた。それに驚いたのが一つ。もう一つは、闇の中でも関わらず、彼女の瞳が滑らかに光っていたこと。その二つの理由があって、僕はしばらく彼女から目が離せなかった。そして今更ながら、彼女がこんなに近くにいることに戸惑い始めた。眠ってしまう前はそれを受け入れられたはずなのに、今はこの状況に困惑している。それは彼女も同じようで、わずかな驚きを表現していた顔が、状況の理解に合わせて徐々に赤くなっていった。
「あっ…………」
「あっ…………」
ひどく間抜けな声だった。それを恥じている間にも、えりちゃんは
「ごめんなさい!」
と飛び退いた。これが正解のはずなのに、開いた距離にどこか寂しさに似たようなものを感じた。
「ほんとに、ごめんなさい。私寝ちゃうなんて……。あ、それに、ズボンもごめんなさい。……涙が」
ポケットからハンカチを取り出そうとするえりちゃんに、僕は手を振って遠慮した。
「大丈夫。全然、気にしないで」
暗い室内に沈黙が落ちた。どうにも耐えられそうになかった僕は、タイミングを見失わないうちに部屋を出ることに決めた。
「あの、それじゃあ僕そろそろ……」
「あ、うん……」
えりちゃんはさっきよりも一段と小さな声で言った。でも僕は気にせずに鞄を持って立ち上がった。彼女は座りこんだまま立ち上がらない。いまだ恥ずかしさから解放されていないのだろうか。そっとしておこうと決めた僕は、「お邪魔しました」と言って部屋を出ようと
「よかったら……」
という声が聞こえて、僕は動かしかけた足を止めた。えりちゃんはなおもうつむいたままでいたけど、覚悟を決めたように顔を上げて、そして言った。
「よかったら……夜ご飯、食べて行って」
雨はすっかり止んでいた。部屋には明かりがついて、空間を白く照らしている。窓には無数の水滴が付着していて、その下に部屋を映し出していた。景色を見ないで、窓に映った部屋と自分を見つめていると、不意に香ばしい香りが扉の向こうから漂ってきた。
結局僕は、彼女の誘いを受け入れることにした。散々部屋から出たがっていたくせに、その割には二つ返事で頷いたことに、自分でも驚いた。待っている間、今度は別の緊張感みたいなものを感じて、落ち着きがなくなった。部屋の向こうにいる彼女に聞こえるように声を大きくして、「手伝おうか?」と聞いたけど、「大丈夫だから座って待ってて」と返ってくるだけだった。やむなくそれに従って、視線をいろんな場所にやって料理が出来上がるのを待った。
と、ベッドの片隅に、さっきまでは見えなかったものが見え隠れしていることに気がついた。まだ料理を運んでくる気配がないことを確認して、手を伸ばす。
ぬいぐるみだった。ネズミをモチーフにした黄色いモンスターで、両頬は真っ赤。小学生の頃に流行って、今も子どもたちを魅了し続けているアニメに登場するキャラクターだ。中学校に上がってからはめっきり見なくなってしまったから、あまり目にする機会はなかった。
懐かしいな、と感じると同時に、でも、どうして? とも思った。どうしてえりちゃんはこのぬいぐるみを持っているんだろう。それによく見ると、色が薄れたり汚れがついたりしていた。いくら大切に扱ったとしても、何年も持ち続けていると最低限それくらいは消耗してしまうだろうという具合だった。それこそ、小学生の頃から持っていると、そうなってしまうだろう、という具合に。
えりちゃんは、昔からこのキャラクターが好きだった?
そう考えたところで、突然「お待たせ」という声が聞こえて思った以上に慌てて振り返った。両手に器を持ったまま現れたえりちゃんは、僕の手に握られたそれを見ると、一瞬だけ複雑な表情をした。どういった感情を抱いたのかは分からなかった。僕に分かることは、彼女が口を小さく開けて「あ」と呟いたことと、わずかに目が大きくなったことだけだ。笑ったわけではないから、決して望ましいことをしたわけではないだろう。ともすれば、それは彼女のなりの怒りのサインかもしれない。
「ご、ごめん」
僕はぬいぐるみをベッドに戻して謝った。するとえりちゃんは、気を取り戻したみたいに「ううん」と言った。料理をテーブルの上に置いて、そして僕のそばまで来ると、ぬいぐるみに手を伸ばした。えりちゃんの元にやってきた時からずっと笑顔を向け続けたままのぬいぐるみは、やっぱりその分の時間を過ごしてきたから、今の状態はむしろ自然なのだろう。でも、彼女の清潔な空間にいるからか、それとも大人びて見える彼女の手にあるからか、そのぬいぐるみはひどくアンバランスに見えた。
「ボロボロだね、これ」
と彼女は皮肉っぽく言った。僕はどこかで彼女がそれを受け入れていないのだと思っていた。だから彼女がそのぬいぐるみに対して皮肉を言ったのを聞いて、僕は驚いた。でもそんなことを彼女に言えるはずもなくて、僕が言葉にできたのは、「えりちゃんって、そのキャラクター好きだったんだ」ということだった。
するとえりちゃんは、困ったように笑ってこう返した。
「うーん、好きというか……まあ好きなんだけど……。でもこれは、ただ好きなだけじゃなくて、すごく大切なものなの」
えりちゃんの声には深い嬉しさのようなものが込められていて、その大切さが真っ直ぐに伝わってきた。
「誰かからのプレゼント、とか?」
僕がそう尋ねると、えりちゃんはうっすらと口元に笑みを浮かべていった。
「憶えてない? これくれたの、恵人くんだよ」
「え、嘘」
「ほんと」
僕はもう一度彼女の手に握られたぬいぐるみを見た。先端が黒く尖った耳、稲妻型の尻尾、全体的にふっくらとした姿。じっと見つめていても、どうしても思い出せなかった。
「ダメだ……思い出せない」
「昔、みんなでゲームセンターに行ったこと、憶えてない?」
「ゲームセンター…………ああ、うん。行ったこと、ある」
必死に記憶をたどると、おぼろげなイメージがいくつかの写真のように浮かんできた。
「その時私が少ないお金を全部使っちゃったけど取れなかったぬいぐるみがあったの。これ、なんだけどね。それでも諦めきれない私に、恵人くんは解散した後、ここで待つようにって、私に言ったの。恵人くんはお家からお金を取って来て、それで二人だけでまた挑戦したんだ。でも取れなかった」
えりちゃんはそこで一度言葉を切った。僕が思い出すかもしれないと考えて、その時間をくれたのかもしれなかったし、彼女自身も記憶を確かめ直したかったのかもしれない。残念ながら、前者だと僕はまだ思い出せない。そして僕の反応が変わらないことを確認すると、えりちゃんは続きを話し始めた。
「肩を落としながら帰ろうとした時、さっきから見てたっていう高校生たちに声をかけられて。それでぬいぐるみが欲しいこと言うと、その人たちが挑戦して、何回目かで取ってくれたんだ。それを恵人くんに渡して、恵人くんは私に渡してくれた」
でもそれって……。
という僕の考えを先読みしたのか、えりちゃんはうっすらと笑って続けた。
「ぬいぐるみを取ってくれたのは高校生。でも、私が嬉しかったのは、恵人くんが私のために頑張ってくれたことだよ」
照れくさくって。とにかく照れくさくって、僕は「そんなこと……」と言うくらいしかできなかった。
不思議と温かみのある静寂は、「ご飯冷めちゃうから食べよっか」という声で続くことはなかった。
料理はハンバーグだった。普段家で食べるものより格段に小さいのは、二人で晩ご飯を食べることが予定されていなかったからだ。だからハンバーグに限らず、野菜も、ご飯も、いつもより量が少ない。それでもえりちゃんは僕に気を利かせて、彼女よりも多くしてくれた。
「美味しそう……」
「口に合うといいんだけど……」
えりちゃんは小さく笑った。
電話をかけた時と同じ位置に座って、僕らは「いただきます」と言い合った。
どれから食べようか、と迷うこともなくハンバーグから食べることにした。適度な大きさに割くと、分かれたところから湯気が立ち上る。熱いのは一目瞭然で、二、三回息を吹きかけてから口に入れる。
「うま……」
と言った時にはすでに唾液が溢れてとまらなかった。僕はすかさずご飯をかきこんで、一緒に胃の中へ送る。その間わずか二十秒程度。
「よかった。でもちゃんと噛まないとダメだよ」
「頑張る」
とは言ったけど、それは結構難しかった。正直この量じゃ全然足りなかった。もっと欲しかった。と思うくらいに、えりちゃんの料理は美味しかった。
「やっぱり何年も料理してる人のご飯って美味しいなあ」
言ってから、つい口を滑らせてしまったことに気づいた。えりちゃんはぴたっと箸を止めて、真顔になって、僕の言葉を理解してから苦笑した。
「……ご、ごめん。あの今のはその……」
今日の自分はやけに失態がすぎる。どうしたんだろう。まさかえりちゃんの部屋に入ったことが今もまだ僕を乱しているとでもいうのだろうか。
と、えりちゃんが持っていた箸を置いて真っ直ぐに僕を見た。その眼差しに怒りの色は見えなかったけど、えりちゃんは感情を隠すのが上手いから、きっと怒っているのだろう。母親のことを悪く言ったこともあるし、むしろ当然だ。
覚悟を決めて彼女の怒りを受け止めようとした。えりちゃんの口が、開く。
「私、ずっと一人でご飯を食べてきたから、いつかは慣れるかなって思ってた。でも、全然慣れなくて。放課後はバイトで、夜に友達とファミレスで過ごすこととかもできないし、かと言って家に誰かいるわけでもない。今日、恵人くんがうちに来ることになって、本当はこうやって一緒にご飯を食べられたらいいなって思ってたの。やっぱり、誰かと食卓を囲むっていいね」
と、えりちゃんは笑った。本来なら家族との温かいひとときになるはずの夕食の時間を、彼女は長い間一人で過ごしてきた。そんな彼女だからこそ、その言葉には確かな重みがあったし、その笑顔もぐっと心に突き刺さった。僕は、泣きそうになった。喉の辺りがきゅぅっと痛くなって、鼻にも違和感が訪れ始めた。その先に発展しないようにと、僕は彼女に笑い返して、「僕でよかったら、いつでも行くよ」と言った。でも、彼女は首を横に振った。
「恵人くんにはご飯を作ってくれるお母さんも、その時には帰ってくるお父さんもいるでしょう? だから、家族の時間を大切にして」
誰よりも家族の価値を知っているえりちゃんに言われては、うんと頷くしかなかった。でも、僕の本当の気持ちは、可能な限りえりちゃんんと一緒に晩ご飯を食べたいということだった。言いたくても言えないその思いを、ご飯と一緒に飲み込んだ。
それから僕らはぽつぽつと話しながら食べ続けた。学校の話とか、試験の話とか。お互い部活はやっていなくて、彼女の方はバイトで時間が取れないから仕方がないけど、僕の方はその分の時間を何に当てているのか、という話になった。放課後は、友達と遊んだり、家でゲームをしたり漫画を読んだり、他は……。
浅田と一緒に帰る。
そう、僕らは今まで好きな人や恋人の話をしなかった。いや、そうじゃない。避けていたんだ。すぐに理由は思いつかないけど、でも逆にそれが避けていた理由になるのかもしれない。
「恵人くん?」
話の途中で急に黙り込むものだから、えりちゃんが心配した様子で僕を見てくる。
「ううん、何でもない。そうだな……放課後は、友達と遊んでばっかだよ」
「いいなあ」
「あはは」
嘘を、ついた。自分を正当化するのなら、それは嘘ではなく真実で、でも全てではない。ここで彼女がいるということを打ち明けると、何かが壊れる気がした。だから笑ってごまかした。
「あの……聞いてもいいかな。恵人くんってさ……」
だからえりちゃんが言いづらそうに何かを聞いてきた時は、その「何か」を予感した。あれ、違う、そうじゃない。そうじゃない。「聞かないで」とか「あ、そう言えば」とか、話を逸らしてしまえば、僕がえりちゃんの聞こうとしていることに気づいているとバレてしまう。だから下手に動くことはできない。反対にこのまま彼女が話すのを待ってもいられないけど、この状況では何をしても無意味だと思えた。僕には、彼女がそれを言葉にするのを待つしかなかった。
僕は必死に普通を演じた。どうせ待つことしかできないのなら、あえて何も気づいていない振りをすることにした。
「えりちゃん?」
と僕は不思議がっている表情を意識しつつ尋ねた。僕の言葉の後もしばらく自分の中で葛藤していたえりちゃんは、ついに口を開いた。
「やっぱりやめた。……ごめんなさい。気にしないで」
「え、ああ、うん……そっか」
少し張っていた神経が緩むのを感じた。思わず深い息を吐き出しかけて、どうにか修正する。
どうして聞いてこなかったんだろう。無礼な質問とでも思ったのだろうか。何にせよ、諦めていた結果になったので、僕としては願ったりかなったりだ。まだ少しだけ残っていた食器を空にするため、僕は箸を動かし始めた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「うん」
家を出る前に時計を確認すると、九時を過ぎていた。塾に通っていた半年前までは普通に外にいる時間帯だったけど、部活も夜遊びもしない今となっては珍しかった。
「お邪魔しました。あと、ご馳走様でした。ほんとに美味しかった」
「そう言ってもらえて、よかった」
「あ、見送りはいいよ。道憶えてるから」
「じゃあ家の前まで」
「分かった」
そして僕らは一緒に家を出た。
「雨、やんでるね」
「うん。えりちゃんが晩ご飯の準備してるときにはやんでたよ」
「じゃあ寝てるときにやんだのかな」
とえりちゃんが言った時、その時のことを思い出して恥ずかしくなった。それは彼女も同じようで、ほとんど消え入りそうな声で「ごめんなさい」と言った。僕は熱くなった顔を落ち着かせるのに必死で、もごもごと何か言った。
階段を降りて建物から出る。雨上がりの、湿ったぬるい風がひとつ町に流れた。
「それじゃあ、また」
「うん。気をつけて帰ってね」
「うん。バイバイ」
「バイバイ」
手を振る彼女に僕も手を振り返して、そして歩き出した。
「恵人くん」
と不意に呼ばれて、振り返った。彼女との距離はもうだいぶ離れていて、白い街灯の下で、彼女の白い制服が光に溶けてぼんやりと見えた。顔には、髪や滑らかな肌の曲線が複雑な影を作り出していた。僕は、遠くからでも強い輝きを放つその目を見つめた。
「ありがとう」
えりちゃんが笑って、そして影の形が変わった。そして彼女は光の外に飛び出してアパートの中に帰っていった。
ありがとう、なんて言われるほど僕は何もできちゃいないのに……。
彼女は優しすぎるんだ。過度な優しさは、時に冷たさよりも強い痛みをもたらす。僕の心は今、優しさの温かさとそれを受け取る資格がないという苦しさの中にいる。どちらが居心地がいいかは明白だ。だからこそ過度な優しさは痛みを伴う。いっそのこと、もう君には頼らないと言われて傷つけられた方がよかった。そうしたら自分の無力さをとことん呪ってやることもできた。でもこうして、ありがとうなんて言われたら……。
まだ自分には何かできるかもしれないって、勘違いしてしまうじゃないか。
電車の中で、僕はぼんやりと次の手を考えた。電話で話したえりちゃんの母親は、ちっとも子どものことを理解していないように感じた。何を言っても考えを改めるような性格ではないことは、短い対話の中で理解した。だったら、どうすべきだろうか……。
閉じた視界の中で、数時間前のやり取りがとりとめもなく繰り返される。時系列には沿わず、印象的な場面が断片的によみがえっては消えてを繰り返す。いつの間にか考えることをやめて、記憶を再生することだけに集中していた僕は、ふと聞こえてきた案内放送に目を開けた。最寄り駅が二つ先のところまで来ていた。その時になって、僕は自分が電車を降りるまでに新しい方法を見つけなければならないという制限をつけていたことに気づいた。もう着いてしまうんだ、と思ったからだ。電車を降りれば、何かが終わるような気がした。言い換えれば、電車に乗っている間は、まだ続いている気がした。何が? えりちゃんのこと? 別にそれはこの移動に関係なく続いて、そして確かな答えの下に終わりを迎えるだろう。でも……そう。この妙な胸騒ぎは何かの終わりと始まりを予感している。僕はそれを、ほんの数分後に知ることになる。
電車から降りた場所は、改札へ続く階段からほとんど反対の位置だった。まずはそこまでの距離を歩いて、それから階段を上った。改札を出て家まで歩こうとして、ふと自転車をとめていたことを思い出す。全身を隈なく濡らした自転車は、じっと持ち主の僕を待っていた。鍵を差し込んでスタンドを上げる。濡れたサドルに座るのは気が引けたから、立って自転車を漕いだ。水たまりを避けつつ自転車を走らせ、家に向かう。あまり帰りたくないと思うのは、果たして気のせいだろうか。いや、そんなことを言うと、えりちゃんに対して失礼かもしれない。僕はハンドルを握り直した。
角を曲がった途端、家の前に人の姿を見つけた。その横を通り過ぎるなら問題はなかったけど、その姿は明らかにそこで誰かを待っているようだった。雨は降っていない。ただし月はなく街灯もその間隔が広くて、あまり闇を照らさない。それでも僕は、それが誰なのかすぐにわかった。
「……浅田」
自転車から降りた僕を、浅田は無感情に見た。
「どうしたの、こんな時間に」
とてつもなく重い沈黙に耐えかねて、僕はすぐに次の言葉を投げかけた。
「先輩こそ、今帰りですか? こんな時間に」
「ああ、うん。ちょっと」
浅田は、その言葉に初めて反応らしい反応を見せた。わずかに笑ったみたいだった。
「ちょっと、っていうには遅いんじゃないですか? 私、何度も電話したんですけど」
と浅田は携帯の通話履歴を見せてきた。そこには僕が初めて目にする時刻が書いてあった。ちょうど、電車で帰っている時だ。
「ごめん……」
「一体今までどこに行ってたんですか? 何してたんですか?」
浅田の追求は終わらない。でも、それも当然と言えば当然だろう。彼氏が彼女の電話を何時間も無視していたのだから。気にするのは当たり前だ。
ただ、そこで真実を言えるほど話は簡単ではない。電車に揺られている時に感じたあの予感は、今この瞬間につながっていたわけだ。
浅田はなおも僕の顔を見上げている。その顔には、怒りや心配を混ぜた感情が宿っていた。
「浅田……僕は……」
僕は…………僕は…………。
「遊んでた。友達と」
その時僕の背後から風が吹いて、浅田の方向に流れていった。
浅田の目が、意味ありげに見開かれた。その程度はごくわずかでも、近くにいたから見逃さなかった。
僕は焦った。嘘をついた罪悪感よりも、バレてしまったのではないかという焦りの方が大きかった。
「その、皆結構盛り上がっちゃってさ。本当はもっと早く切り上げるつもりでいたんだけど、夏休みの予定も話し合おうってことでだいぶ時間かかっちゃったんだ」
とにかく嘘がバレないようにと祈った。いや、祈りはもっと清らかなことに対してするべきだということは分かっているけど、そうせずにはいられない。
浅田は目を逸らして、顔を俯けた。数秒後、悲しくも僕の邪な祈りは通じることになった。
「そう、ですか。楽しかったですか?」
「……うん、楽しかったよ」
「なら、よかったですね」
と浅田は微笑んだ。その笑顔を見ていられなくて、「ごめん」と呟いた。
「別にいいですよ。楽しいとつい時間忘れちゃいますよね。よくあることです」
何を言っても、心が傷ついていくだけだった。そうなるようにしたのは紛れもなく自分なのに、それに耐えられる強靭な心を持っていないがために、今すぐ浅田の前から姿を消したかった。すると僕の思いを察したかのように、浅田は言った。
「私、塾の帰りだったんです。今日も疲れたから、もう帰りますね」
「ああ、うん。お疲れ様……」
「先輩こそ、お疲れ様です。それじゃあまた」
と言って浅田は歩いていった。今さらながら、浅田が別れのハグも、髪を撫でることも、ましてやキスなんて。何一つとして求めてこないことに気がついた。
この日、目には見えなくても一つのことが終わって、そしてまた一つのことが始まりを告げたことは、明らかだった。それが好ましい展開だと言えるのか言えないのかは、僕の気持ちがはっきり示していた。
……僕は、後悔していた。
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