第3話
約束の日。彼女のバイトの都合で週末は空いておらず、学校が終わってから僕らは動物園に行くことにした。二人とも授業時間が異なっていたので、現地集合ということになった。
先についたのはえりちゃんの方だった。両手で鞄を持って、交差点の方を見つめていた。
「えりちゃん」
名前を呼ぶと、彼女は振り向いた。今日は、汗をかいていない。かいているのは走ってきた僕の方だ。
「ごめん、遅れて」
「ううん。大丈夫だよ」
えりちゃんは、笑わずに言った。腕時計を見てから、一言付け加えた。「五時で閉まっちゃうんだって。行こっか」
「うん」
ゲート付近の券売機でお互い券を買って、すでに出入りの少なくなったゲートをくぐる。もう閉園まで一時間とないため、園内に人の気配はほとんどなかった。おじいさんとおばあさんが二人で、動物も見ないで足元に視線を落として笑い合っている姿や、ベビーカーを押して歩く夫婦の姿くらいしかいなくて、制服を着た中高生は、僕らだけだった。
「人、全然いないね」とえりちゃんが言った。
「そうだね」と僕は相槌を打つ。
僕はえりちゃんの一歩後ろをついて歩いた。時々表情を確認しながら――彼女は嬉しさも悲しさも怒りも見せない――彼女が話し出すのを待っていた。だけどえりちゃんは、ただ檻の中のサルやウォンバットなどを見るばかりで、何も話そうとはしない。僕も少し周りを見渡してみることにした。
僕から距離がほど近いサルが一声鳴いただけで、辺りは静かだった。風で木が揺れる音がするか、僕らの足が一定の間隔で地面を打つ音くらいだ。不思議とセミの声は聞こえない。サルは、鳴いてから檻に張りついて僕らを追うように移動した。何も珍しい格好をしているわけでもないのになと思うものの、そのサルにとっては注目に値するらしく、檻を横切るまでずっと僕らと平行移動し続けていた。
ふとえりちゃんの方を見ると、彼女との距離が二歩ほど遠ざかっていた。すぐにその距離を詰めて、彼女に尋ねる。
「ここ、来たことあるの?」
「昔、一度だけ」と彼女は答えた。「確か小学校上がる前。保育園の頃だったかな。お父さんとお母さんの三人で」
「そっか」
「それだけだよ。小野くんは?」
「僕も家族とは一回だけ。チケット貰ったからって、小五の春に行って、秋に遠足で行った」
それで彼女は少し笑ってくれたみたいだった。でも、すぐに笑顔を消して言う。
「でも、小野くんの両親は別の場所に遊びに連れてってくれたでしょ?」
「え? まあ、うん。遊園地とか」
「私は、その時限り。他に家族で遊びに行ったこと、ないんだ」
「ごめん」
「ううん。気にしないで」
上手くやろうとした結果がこれだ。返って失敗してしまう。それを取り返そうとあれこれ考えるも、どうも上手くいかないような気がしてならない。
沈黙が続く。正直、苦痛だった。会話を繋げようと話題を探すけど、こういう時に限って何も出てこない。こめかみから汗が垂れてきて、目に入りそうになったところを手の甲で拭い去る。
えりちゃんはずっと同じ速度で歩き続けていた。そしてようやく、ゾウのエリアで足を止めた。手すりに近づく彼女と並んで、僕もゾウを見る。
エリア内には三頭いた。大人のゾウが二頭、一メートルくらいの子どものゾウが一頭。家族だろうか。
「おおっ、あんりじゃねえか! 今日は出てこれたんだな!」
その声は静かな園内によく響いた。えりちゃんの隣の、少し声を張らないと届かないくらいの場所におじいさんがいた。手すりに両肘を乗っけて、笑顔でゾウの親子を見ている。ふと、おじいさんが僕らの方を向いた。その顔は笑顔のままで、むしろ僕らを見てさらに笑ったように感じる。
「あの赤ん坊、人見知りが激しすぎてなかなか姿見せねえんだ。こういう人の少ない時間帯じゃないと見られねえんだぜ。お前らラッキーだな」
おじいさんは僕らの返事も聞かずに、言うだけ言ってゾウに夢中になった。その人の横顔は、不思議と小学生の時によくそういう表情をしていたんだろうなと思わせるものだった。
おじいさんの言葉に、改めてゾウを見てみる。両親に挟まれる形でゆっくりと歩く子どものゾウは、むしろ両親の歩く間から出ないように気をつけているように見える。視線の動きまでは見えないけど、終始首を振って二人の動きを観察しているみたいだ。そんな子どもを、両親は仕方ないといったふうに、そして同時に我が子を愛おしむようにして寄り添い続けている。さすがにそれは、僕の想像だろう。そうだと微笑ましいな、という想像だ。
「初めて動物園に来た時、ゾウが見たくて、真っ先にここに来たの。でも人がいっぱいで。背の低い私はどう頑張ったって見れなかった。だから、お父さんに肩車してって頼んだの。肩車してもらったら、よく見えた。あの親子と同じ、三頭の大きなゾウがゆっくり歩いてた。ゾウの親子って、みんな仲いいのかな?」
「どうだろう。でも、仲悪いゾウって見たことないかな」
「そうだよね。私もそう。大きいことも印象的だったけど、あの時感じた親子の温もりがずっと忘れられないの。お互いに愛してる、愛されているってことが、真っ直ぐ伝わってくるんだ」
えりちゃんは、ずっとゾウを見つめたまま僕の方を向こうとしない。その目はゾウを見ているのか、はたまた別の何かを見ているのか、判断のつきにくい目をしていた。
「小野くん……。あの、君に話してもいいかな。聞いてもらっても……いいかな」
えりちゃんは視線を下にしてつぶやくように言った。
「うん。話して。聞くよ」
だって、僕はこのために来たんだから。
「私ね、小野くん」えりちゃんがゆっくり僕を見る。「愛されてないんだ」
叫びだ。
何かを直感することは珍しいことじゃない。だけど今、この瞬間のそれは、まるで自分がえりちゃんの気持ちを共有したみたいな、不思議な直感だった。
その叫びは、話し始めた時と同じ声色で、同じ大きさで。でも確実に、彼女の心の奥底で存在を主張していたものだ。
その叫びを吐き出しても、彼女は感情をあらわにしなかった。眉毛も動かなければ、瞬きも少ない。鼻をすすることもしなければ、口角を上げも下げもしない。それは、頑なに表情を変えることを拒んでいるわけではなくて、どういうわけかそれが素の表情なんだと思った。
「……愛されてない」
「愛されてないっていうか……私よりも大切なことがあるんだろうなって感じかな」
「それは、えりちゃんの父さんと母さんのこと?」
「うん」
親に愛されていない。えりちゃんは柔らかく言い直したけど、伝えたいのはきっとそういうことだろう。そこから連想するのは、育児放棄だった。確かネグレクトと言うんだったか。ということは、えりちゃんはずっと育児放棄されてきたんだろうか。疑問は湧いてくるけど、彼女の抱えているものが重くて、簡単に口を開けない。
「お父さんとお母さんが仕事人だって話、この前したよね」
僕が口をつぐんでいると、えりちゃんは話し始めた。
「うん」
「多分ね、あの二人にとっては、私よりも仕事の方が大切なの。三人と一緒に過ごしたことって、憶えてないだけかもしれないけど、ここに来たことくらいなんだよね。本当に、ずっと仕事。だから私の面倒は、家の近くに住んでたおばあちゃんが見てくれたの。ご飯も洗濯も参観も運動会も、全部おばあちゃん」
忙しい両親に代わって、おばあちゃんが彼女の面倒を見ていたのか。理解しようとして、ふとあることに気づく。
「でも、えりちゃんは三年の時に……」
「うん。さすがにおばあちゃんも一緒に引っ越しってわけにはいかなかったから、転校してからは一人だよ」
それって……小学三年生の女の子にとって、あまりに酷ではないか。
「ああ、でも」とえりちゃんは慌てた様子を見せた。僕の顔がそんなに歪んでいたんだろうか。「子ども会に入っていたから、ずっと一人ってわけでもなかったよ。夏にはみんなでキャンプに行ったりしたし、それはそれで楽しかった」
それでも……。
「それでも……一人の時は必ずやって来たんでしょ?」
「………………」えりちゃんは何も言わずに、小さく頷いただけだった。
「おばあちゃんは、両親のことについて何か言ってなかったの?」
「ちゃんと三人の時間を作りなさいって言ってたんだけどね。でもあんまり効き目がなくって。結局おばあちゃんも仕方ないって諦めて、私のことを見てくれた」
「……えりちゃんは、一緒にいてほしいって言わなかったの?」
「言ったよ。でも、ある時私のことで二人が大喧嘩したの。私のせいで、これ以上私から何も奪ってほしくなかった。喧嘩は何とか収まって、それで私は、迷惑のかからない子になることに決めたの。おもちゃもいらない、ご飯を作れなかったらそれでいい。遊びに連れてってくれなくてもいい。何もいらないからって、私は一人でも大丈夫だからって、そうやって生きることに決めたの」
だから、えりちゃんはずっと大丈夫って言い続けてきたのか。迷惑をかけまいとするために。周囲の人間、特に両親を安心させるために。……そんなの、全然安心できるわけがない。
「大丈夫なんかじゃないよ……全然……!」
「小野くん……?」
「だってそうだろ……。えりちゃんはこうして、ずっと抱えていたことを僕に話したんだ。それって、苦しいからだろ。本当は、一緒にいてほしかったんだろ?」
「…………」
えりちゃんは何も答えない。でもそれが、答えのように思えた。だって彼女は、今までずっと自分を押し殺してきたんだから。「大丈夫」と言わないのは、彼女なりの答えなんだ。
「この町に戻ってきたのって、つまりそういうことだったの?」
「そうだよ」
「両親から離れれば、二人の肩の荷が下りるからって?」
「実際、そうだと思うよ」
「何でっ……」
つらいはずなのに。苦しいはずなのに。僕に向かって叫んだのに。何で……何でまだ大丈夫な振りをするんだ。
「これが、私。驚いた?」
「……うん……驚いた。今でもまだ、完全に飲み込めてない」
「そうだよね。うん、分かるよ。だって私――」
「遊んでるときは、全然つらい表情なんて見せたことなかったから」
「そう」
「僕たちと一緒で、本当に楽しそうにしてたから」
「そうだよ。小野くんたちといるときが、一番楽しかった」
「あの頃のえりちゃんはずっと笑ってた。って言っても、遊んだのは夏休みの途中までだけど。でも、だからかな。えりちゃんは眩しく見えたよ」
「そっか」
「うん。でも、一度だけ。不思議な表情を見せたことがあった」
「いつ?」
「体育館の裏で、キスをした時」
「そっか」とえりちゃんは今日初めて笑った。困ったふうだったけど、確かに笑った。
「どうして僕にキスしたの?」
「どうして、かな。……キスって、愛情表現でしょ? でも、私はそれを近くで見たことがなかったの。でもある時、ドラマか何かでそれを目にしたんだ。とっても幸せそうだった。それが印象的だったっていうこともあるけど、君にキスをしたのは……何でだろう。……好きだったのかな。それとも好きになろうとしたのかな」
「何となく、兄妹のように思ってたのかも。でも普通の兄妹じゃなくて、親の違う兄妹。……ごめん。やっぱり分かんない」
「そっか」
僕らはそれから無言でゾウを見続けた。全てを話した彼女はどこかすっきりしたようにも見えるけど、でも話しただけで何も解決したわけではないということを分かっている僕は、今の彼女の表情を肯定的に捉えることができない。
一方で僕は、これまで考えていたことは見当違いだったと分かって、安心していた。と言っても、それは感情のほんの一部分で、僕の心は彼女の悩みに対することでいっぱいだった。まさか彼女がこんな悩みを抱えていたなんて。でも思い返せば、彼女と再会した日から何か違っていたような気がする。こういう話を聞いた後だからそう思うのかもしれないけど、僕らが一緒に遊んでいた頃は眩しかった彼女が、再開したあの日、どこか影をちらつかせていた。ただそれは、大して注目するようなものではないと思っていたから、それが今、目を逸らせないものだと知って、混乱している。
えりちゃんは、どうしたいのだろうか。
そして僕は、どうしたいのだろうか。
僕は……僕は、彼女を助けたい。運命なんてことは僕にはあまり似つかわしくないし、そういうものを信じてはいない。だけど、こうして再会できたことには、何か意味があるはずだ。あっていいはずだ。もしないというのなら、それは僕が僕の手で意味づけする。この再会を、無意味なもので終わらせたくない。彼女にとって、ためになる再会にしたい。
「えりちゃん」
「何?」
「えりちゃんは、これからどうしたい?」
「……どう、したいんだろうね」
「もう、ごまかすのはやめよう」
「………………」
「僕はえりちゃんじゃないから、完全には理解できないけど、これまでえりちゃんが自分を押し殺して生きてきたから、それが難しいっていうのは、何となく分かる。僕だって、気持ちをぶつけられないときもある。でもさ、僕らだけの時は、そういうの、なしにしよう。僕には何だって言ってほしい。さっきえりちゃんが抱えていることを叫んだ時みたいに。僕にだけはぶつけてほしい。……だめかな……?」
言いながら段々と恥ずかしさが込み上げてきた。僕は何を熱くなっているんだ。大声は出してはいないものの、体が彼女の方に迫って、手にも力が入り込んでいる。急に暑く感じて、やり場のない手で首元をかきながら彼女との距離を開ける。
無言が続いて、何だか気まずい……。
「…………れたい。……されたい。……い……されたい。……あい、され、たい。……愛されたい。愛されたい。愛されたい。愛されたいっ!!」
園内に響くその声は、叫びだ。ただそれは、ボリューム的な意味の中でのこと。彼女のその言葉は、紛れもなく願いだ。
だから僕の答えは、決まっている。少し得意になって、返す。
「僕も考えるよ。えりちゃんが二人から愛されるようになることを」
「……ありがと、恵人くん」
えりちゃんは、こぼれる前に涙を拭った。彼女は今までずっと心で泣き続けていたに違いない。もうこれ以上彼女を悲しませたくない。彼女にとっての幸せを見つけてあげたい。だから、彼女が泣くのはこれで最後にしなくちゃならない。
閉園を告げる放送が流れる。初夏の日暮れはまだ遠い。それでも確実に暗くなりつつある園内を、僕らは出ることにした。
二人の足音は、お互いにどこか決意を表したように鳴り響いていた。
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