第2話

 翌朝、家を出て自転車に乗る直前に携帯を見ると、メールが一通届いていた。えりちゃんからだった。鍵を差し込み、回すだけ回してメールを開く。文面は、四時半に僕の最寄り駅で待ち合わせでもいいかと確認するものだった。それ以外には何もない。質問への答えも、当然なかった。ただ、会ってくれるということは、そこで答えが聞けるかもしれない。僕はすぐさま返信画面を開いて、「分かった」と返信した。

 放課後、ホームルームが終わると、友達に用事があると告げて先に学校を出た。まだ放課後になったばかりの駐輪場は、ほとんどの自転車が残っていた。両隣の自転車が乱雑に止めてあって、ぶつけないように注意を払って出した。

 時間は十分にあった。何せ待ち合わせは昨日えりちゃんを送り届けた駅だ。どこにも急ぐ必要はない。でも、僕の足は気持ちとは逆に、ペダルを勢いよく踏み込んでいく。

 駅についたとき、時刻はまだ四時十分前だった。駅前の広場の入り口に自転車を止めて日陰になったベンチを探す。いくつかある中の、一番駅に近いところを選ぶ。そこで改札の方をぼんやりと眺めて彼女の到着を待つ。

 本当は学校についてから、僕が彼女の最寄り駅まで行こうかとメールを返した。でも彼女は「大丈夫」と言って、変更しなかった。その待ち合わせ場所についた今でも、何だかそわそわと落ち着かない。その件のせいか、そもそも彼女に会えることが原因か、もしかすると両方かもしれない。暑さも何となくぼんやりとしか感じることがなく、そんな状態でえりちゃんを待った。

 少し遅れるとの連絡が入ったのは、四時を回ってからのことだった。僕の方は全然気にしないから、大丈夫だよと返信した。そしてペットボトルの水を飲み干し、自販機横のゴミ箱に捨てる。ついでに新しいものをと、財布から硬貨を二枚取り出す。キャップ部分を手に、ベンチに戻る。

 えりちゃんは予定より五分ほど遅れてやって来た。空の色に大した変化はないようだった。まだ青いままで、日は高い。改札の向こうに彼女を見つけると、彼女の方も僕に気づいて、元々焦っていた表情に申し訳なさも付け加えて走ってきた。

「ごめん、なさい……」

 肩で息をしながらえりちゃんは謝ってくる。

「全然。むしろ、いきなり会おうだなんて言ってこっちがごめん」

 彼女の萎れる姿を見ると、急に申し訳なくなってきた。

 僕が謝るのに対して、彼女は勢いよく首を振った。その瞬間、彼女の顔を流れていた汗粒が飛び散る。

「あっごめんなさい」と素早い動作でハンカチを取り出してシャツについた汗を取り払おうとする。

「ううん。僕の方は大丈夫だから、自分の汗拭きなよ」

 彼女は手の動きを止めて僕の顔を見上げる。黒く豊かな髪の一部が顔や首に張りついている。その姿を見た途端、あの夏の日を思い出した。彼女はいつも汗で髪を肌に張りつかせていた。でも僕が一番不思議な気持ちになったのは、彼女が僕を見上げていることだ。見上げているんだ。そんなに身長は変わらないけど、それでもいくらか僕の方が高くて、昔は同じ目線のはずだったのに、変わっちゃったんだなと変な気持ちになる。この気持ちをどう処理していいのか分からない。

「小野くん……?」

 一度瞬きしてえりちゃんを見ると、その顔から汗がなくなっていた。

「ごめん。何でもない」

「待たせすぎちゃった、かな」

「ううん、待ってない」

「でも、顔赤いよ」

「暑いからね」

「やっぱり、待った?」

「えっと、そういうことじゃなくて。夏だから」

 それで彼女は納得してくれたみたいだ。

「じゃあ、日陰行く?」

「僕は別に大丈夫だよ。それより、ほんとによかったの?」

「え?」

「わざわざここまで来てもらって」

「ああ、うん……」

 えりちゃんは曖昧に口元を動かす。どうやら笑ったみたいだった。

「私が来たかったから」

「そっか」

「うん」

「えっと、どこか行きたいところある?」

「行きたいところ……」

 えりちゃんは僕から目を逸らして考え始めた。

「小野くんの行きたいところでいい」

「僕?」

「うん」

「ほんとに、それでいいの? 行きたいところないの……って」

 言いながら、気づく。

「ここ、観光スポット的なのなかったね……」

 転校してしまったとはいえ、えりちゃんも一時期この町に住んでいたんだ。地理はある程度憶えているだろう。その証拠に、えりちゃんは困ったように笑った。

「商店街の方、適当に歩こうか」

「うん」

 そして僕らは歩き出す。この時僕は、普段通りに振る舞っていたけど、昨日のことで彼女が気になって仕方なかった。

 商店街に着くまでに目につくような場所はやっぱりなくて、唯一見つけたのは、商店街の入り口にあったくじだった。商店街で五〇〇円買いのするごとに一回引けるらしい。

「特賞ハワイ旅行だって」

 と僕が言うと、

「当たんないよね」

 とえりちゃんは苦笑した。

「うん。当たんない」

 そうして僕らは再び歩き出す。と、何となく彼女の気配がないように思って横を見てみると、えりちゃんは立ち止まったままだった。どうやらとある一点を見つめているみたいだ。

「えりちゃん?」

 呼びかけても反応しない。何がそんなにえりちゃんの気を引くんだろう。気になって僕も見てみることにした。

「……動物園?」

 それは、この地域だとほとんどの人が知っているであろう動物園のポスターだった。店の閉まったシャッターに貼られていて、小学生が描いたと思われる動物のイラストが目立っていた。

 はっと我に返ったえりちゃんは、

「ごめんね、何でもないよ」

 と言って僕を置いて歩き始めた。

「あ、ちょっと……」

 本当に何もないのかな。僕はそう思えて仕方なかった。あんなにじっと見入っていたんだから、何かしら興味を惹かれたのは間違いないと思うけど。

 考えれば考えるほど気になる。思い切って聞いてみようか。

 というところでタイミング悪くえりちゃんが口を開いた。

「あっ、私晩ご飯の食材買いに行かなきゃ」

 さらに運悪く、目指す先にはスーパーがあった。僕はそこまで出かかっていた疑問を飲み込み、代わりに「じゃあ行こっか」と言った。

 平日夕方のスーパーは混んでいる。主婦の人たちに混じって、えりちゃんは食材を選んだ。僕はかごを持つ役に回って彼女について行った。

「ここのお店、結構安いね」

「そうなの?」

「うん。十円二十円とかの世界だけど、それが重要なの」

 そう話すえりちゃんは、もう立派な主婦みたいに見えた。その反面、周りの大人たちよりも彼女は若くて、買い物をしているその姿は何だかアンバランスに見えて不思議だった。

 空っぽだったかごがそこそこ重くなると、えりちゃんの買い物は終了した。この店がそれほど安かったのか、はたまたいつもこれくらい買うのか、僕にとってはかなりの買い物に思えた。

「ちょっと買いすぎちゃったかな」

 という言葉が聞こえたのは、レジを待っている時だった。どうやら安かったから買い込んだみたいだ。

 その後すぐに僕らの順番が来て、えりちゃんに聞きながら贖罪の袋詰めをした。

 スーパーを出ると、むっとした暑さが迎えた。

「自分でご飯作るって、えらいなぁ」

 僕は尊敬の念を込めて言った。

「そんなことないよ」

「家に帰ればご飯があるって、実はすごくありがたいことなんだなって思うよ」

「……そうだね。ありがたいことだよ」

 ――羨ましい。

 そんな声が聞こえた気がした。

「え?」

「ううん、何でもない」

「そう?」

「うん……」

 えりちゃんの表情が、少し陰ったような気がした。笑顔もどこか、無理やり張り付けたように見える。気のせいだろうか?

「帰ろっか」という彼女の言葉で考えるのを打ち切る。「うん」と頷いて駅に向かって歩き出す。

 込み出した商店街の中を歩く間、僕らは無言だった。僕の方はさっき見た彼女の表情が気になっていて何を話せばいいのか分からなかった。彼女の方は、やっぱり何かあったのか俯きがちに足元を見ていた。

「えりちゃん。大丈夫?」

 足を止めて聞いてみる。

 えりちゃんは、数歩歩き続けたのちに足を止めた。振り返って僕と目を合わせる。

「大丈夫だよ」

 笑って、そう答える。

 ずっと疑問に思っていたことがある。彼女は、心配されると必ず「大丈夫」だと言う。果たしてそれは本心からだろうか。これまでにも何度か違和感を覚えていたけど、今日のこの瞬間、それははっきりとした疑問に変わった。何か強がらなくちゃいけない理由でもあるのだろうか。

「あのさ、えりちゃん。何か――」

 何か悩んでることがあるなら、聞くよ。そう言うつもりだった。だけど、言えなかった。一つは、僕が彼女の深いところにまで踏み込んでいいのだろうかという躊躇い。これまでの言動もそうだけど、彼女はどこか遠慮しているというか、自分を見せようとしない節がある。それはつまり、自分を守ろうとしていることなのではないか。何からかは分からない。ただ、僕に対して彼女がそのように振る舞うことからして、僕に関係することの可能性がある。時期も行動も不明だけど、僕が何かしたことによって彼女を苦しめているのではないか。そう考えると、苦しめている当事者が、被害者である彼女の奥にずかずかと踏み込んでいくことは許されない。そしてもう一つ。僕が言おうとしたとき、彼女の表情が変わった。決していい意味ではなかった。どちらかと言えば、悪い意味。彼女は、危険を察したかのように目を見開いた。僕が何を言おうとしているかに気づいて、それが彼女にとって好ましくなかったためにとった反応のように見えた。やっぱり僕が、彼女を苦しませているのだろうか……。

「ごめん、えりちゃん」

 申し訳なくて目も合わせられない。僕は頭を下げてえりちゃんに謝った。

「……何で謝るの?」

「ずっと気づかなくてごめん。僕が、えりちゃんを傷つけていたんだよね。何かは分からないけど。って、それが一番罪深いか……。だってえりちゃんに何をしてしまったのか、自分で分かっていないんだから」

「違う……」

 えりちゃんの声が震えたような気がして、思わず顔を上げる――その両目にみるみる涙が溜まっていって、限界まで震えた後、堰を切ったように頬を伝い出した。

「えり……ちゃん……?」

「違う、違うから……。小野くんは何も悪くないの。何も……」

 必死に涙を堪えようと、彼女の口元がわなわなと震える。その姿に、ナイフで刺されたように胸が痛んだ。

 僕らは商店街を半分ほど過ぎたあたりのところにいた。ちょうど隣の店は、臨時休業中で暗い灰色のシャッターが下りていた。

 視界の端で、誰かが僕らを見て通り過ぎたのが見えた。多分、その人以外にも僕らの姿に目を止めた人はいるだろう。でも、今の僕に周りを見る余裕なんかない。これ以上涙を流さないようにと堪えるえりちゃんに、どう声をかければいいのか。それで頭がいっぱいだった。

 泣かないで。最初に思いついた言葉はそれだった。だけど、その言葉は何だかやけに弱々しくて、もし口にすれば自分がひどく情けないやつのように見えてきそうで、頭からその言葉を振り落した。

 せめて涙を拭くためにハンカチを貸そうと思ったけど、ポケットを探っても、手に触れるのはわずかに残った毛糸のみ。

 彼女を傷つけて、挙句の果てには泣かせて。やり直すための行動も何一つできやしない。そんな自分に腹が立った。どれだけ自分で自分を痛めつけても収まらないほどの怒り。彼女自身の手で殴ってもらうことができれば、どうにか収まるかもしれないと思えるほど、自分に苛立った。それでも今の彼女にそんなことを頼むのは場違いにもほどがある。もはや僕に残された選択肢は、「ごめん」と頭を下げることだけだった。彼女の気が済むまで、何度でも謝るつもりだった。故意でないにせよ、彼女を傷つけたのは僕だ。その理由も分からないけど、でも、せめて謝りたかった。それで許してもらおうなんて思わない。ただ、こうやって謝ることが、せめてもの償いだと信じたかった。

 元々頭に血が昇っていたこともあって、頭を下げ続けていると顔が熱くなってきた。でもそんなことはどうでもよかった。彼女が「顔を上げて」と言うまで、ずっとこのままでいるつもりだった。

 彼女のその言葉は、すぐに聞こえた。時間を数えていたわけじゃないから、どれほど頭を下げていたかは分からない。でも三分も経過していたようには感じなかった。本当にすぐだった。

「小野くんが……謝る必要はないの……」

「でも……」

「違うの……違うの……」

 違う。小野くんは違う。彼女はただそう繰り返すだけだった。

 何が違うのか。それは僕から聞いてはいけないことだと、そう直感した。だから顔を上げて、悲しむ彼女の姿をちゃんと目に焼き付けて待つことにした。

 自分のハンカチで涙を拭いて、何度か大きく深呼吸をして、えりちゃんは落ち着きを取り戻しつつあった。まつ毛が涙で光る。目が腫れてきて赤い。頬には拭いきれなかった涙の跡があった。そしてえりちゃんは言う。

「ごめんなさい……。今日は、もう帰るね……」

「分かった……」

 送るよ、と加えようとした僕に、えりちゃんは「今日は一人で帰るから……」と言った。

 その言葉を最後に、彼女は背を向けて歩き出した。僕は立ち尽くしたまま彼女の後ろ姿を見ていた。

 こんなはずじゃなかった。こんなこと、誰も望んでいなかった。なのにどうして。彼女の後姿を見つめたまま、僕は否定し続けた。今しがた起きたことは紛れもなく現実で、夢なんかでは決してない。それは明白だ。だけど、どうしても受け入れられない。肯定と否定の間を彷徨い、僕は途方に暮れた。

 彼女と別れて家に戻っても、連絡を取ることに抵抗を感じてしまい、メールも電話もしなかった。向こうも僕と似たような感じなのか、連絡は来なかった。その日から、一日に何度もすすり泣くえりちゃんの姿が頭をよぎる。初め、それは不意に思い浮かんでくるものだと考えていたけど、紛れもなく僕自身が思い出そうとして思い出していた。何の前触れもなく、退屈な世界史の授業中に、それを理解した。

 四日が過ぎた。日増しに夏が勢いづいてきて、周りはどうしようもなく夏休みを意識し始める。それでも僕は、やっぱりえりちゃんのことが気がかりで、ぼんやりすることが多くなった。

「なあ、恵人。恵人ってば」

「え!? ああ、ごめん。何?」

 クラスメイトの橋本が、あからさまに胡乱な目つきをする。

「お前、まじ大丈夫か? ここんとこ魂抜けたみたいにぼーっとしてるし」

「夏風邪?」

 と江藤も聞いてくる。

「いや、違うよ。何でもない」

 言って、まるでえりちゃんみたいだと思った。彼女も今の僕みたいに、反射的に、何も考えずに「大丈夫」だと口にしていたのだろうか。

「怪しいな……」藤吉が元々細い目をさらに細める。「女か……」

「はあっ!? 何でそうなんだよ!!」

 しまった、と思ったのは、こいつらの表情が一様に変化したからだ。声量を間違えた。大きすぎた。三人は、まるでその目をスキャナーのごとく動かして僕の頭を覗き込もうとする。

「え、女なの、恵人」

「詳しく聞かせろよ!」

「あれ、お前彼女いなかったっけ」

「いや、まあいるけど」

「別れた?」

「別れてない」

「ってなると……あ、二股……?」

「恵人、見損なったよ」

「だから違うって!」

「じゃあ何だよ」

「何って言われても……」

「友達にも言えないことなのかよ。まじで怪しいな」

「言えないことっていうか……何ていうか。お前たち、知らないから」

「何が?」

「…………」

 えりちゃんのこと。

 そう、こいつらとは高校で知り合った仲だ。せいぜい三ヶ月程度の付き合い。だからえりちゃんのことを知っていなくて当然で、そしてこいつらに一から話すのは、正直避けたかった。完全に僕と彼女だけの問題だから、外に持ち出したくなかった。それなのに、僕はそこまで気が回らなくて、思い悩んでいることを態度に出してしまっていた。

「け、い、と……」

 三人が恐ろしい表情で詰め寄ってくる。僕は慌てて椅から立ち上がって身を引く。と、その時携帯が震えた。浅田からだ。

「あああ、ごめん! 電話電話」

 あまりにもわざとらしすぎて、余計不信感を買ってしまった。もう、仕方ない。どうしてもというなら、その時に話そう。今は、逃げる時だ。

「もしもし、浅田? もう帰るけど。うん、分かった。今から行く」

 電話を切って、今度は何とか嘘っぽくないように注意しながら表情を作る。

「えっと、急用ができたから、僕、先に帰るよ。それじゃ!」

 おい待てよ恵人! という声が後ろを追いかけてきたけど、徹底的に無視して廊下を走った。階段を降りても足音が聞こえてこなかったから、速度を落として、ほとんど駆け足の状態で昇降口まで向かった。一時的とはいえ、危機的な状況から脱したことに安心する。隠し事をするのは、気分がいいことではないけれど、かと言って真実を話したところで状況が好転するとも考えにくい。

 好転……。えりちゃんも、僕と同じことを考えていたのだろうか。人には言えない悩みがあって、でもそれを僕に話したところで何も解決しない。彼女は、僕に原因はないと言った。だけど、僕はどうしても自分がえりちゃんを悲しませているとしか考えられない。それなのに、僕は彼女に何をしたのかを全く憶えていなくて、だから僕に言ったところで何も変わらないのだと、そう彼女は考えているのではないだろうか。

 僕は……本当に、どうしたらいいんだろう……。

 自転車を走らせて向かったのは、中学校に程近いコンビニだった。浅田が待ち合わせに指定した場所だ。彼女は外の駐車スペースの端っこに立って、アイスを舐めていた。僕を見つけると、利き手に持ったアイスを振って、笑顔を作る。

「せんぱーい」

「アイス、落ちるよ」

「あ、そうですね。危ない危ない。先輩、何か買います?」

「ううん、いいよ」

「じゃあ、ちょっと食べます?」

「大丈夫」

 大丈夫。また、えりちゃんの泣き顔がよぎる。

 浅田はクラスメイトとは違って、あっけらかんとして「そうですか」と言った。

「それじゃあ、帰りましょっか」

「うん」

 歩き出して早々、浅田は珍しい行動を取った。

「先輩、ちょっと失礼します」

「え?」

 自転車のかごに入れた僕の鞄を取り出すと、代わりに浅田のリュックをそこに置く。

「えっ、おも!? 何入ってんの」

「漫画です。友達三人と貸し借りしてるんです」

「何やってんだよ。受験生だろ」

「たまにはこういうことも必要なんですよ」

「落ちても知らないからな」

「その時は先輩のせいにしますから大丈夫です」

「いろいろと意味分かんない」

「まあまあ、心配には及びませんよ。先輩は、自分のことだけ心配してればいいんです」

「僕? 何も心配する必要ないけど」

「じゃあ、私の心配してください」

「どっちだよ」

「心配してくださーい」

 心配してくださいと言う割には、全然悩んでいる風には見えない。幸せそうにアイスを舐めているし、自転車のかごに入れたリュックの中には漫画。悩んでいるどころか、そもそも受験生らしさがない。……ああ、なるほど。勉強しない方の心配か。確かに、これは心配せざるを得ない。

「浅田、このリュック、僕が預かっていい?」

「え!?」

 振り返った勢いが強すぎて、棒に支えられていたアイスが、浅田の指の方にずるっと落ち込む。浅田もそれに気づいたらしく、下に手を添えて残りを一気に食べた。

「いきなり何ですか、先輩。どうしちゃったんですか」

 浅田の目が、汚いものを見るように細められる。

「いや、そうじゃなくて。漫画。心配するから僕が没収、的な」

「ええー……やです」

「心配しろって言ったのはそっちだろ」

「じゃーいーです」

 起伏のないトーンで言ってから、浅田はリュックを取り上げて、代わりに僕の鞄を雑に入れる。

 正直、苛立った。心配しろとかするなとか、心配すると言って行動しようとしたら冷めたように拒否されて。僕は自分の物に特別な関心を抱いてはいないけど、それでも雑に扱われると、これまでのやり取りも相まって、不愉快に感じる。嫌な気分をごまかそうと、鞄を入れ直して、それから浅田とは反対の方向を向く。

「先輩?」

「何?」

「怒ってます?」

「怒ってないけど」

「本当ですか?」

「ほんと」

 その証拠として、僕は浅田の顔を見る。笑顔を意識してみるけど、上手く笑えていない気がする。それでも浅田は納得したように、「そうですか」と言った。

 これで不穏な雰囲気は消えたはずなのに、それから浅田の家につくまで、僕たちは会話と呼べる会話をしなかった。どちらも先ほどの気まずさを回避しようとして、変に気を回しているみたいだった。

「えっと、漫画もほどほどに、勉強しますね」という浅田の言葉を最後に、僕たちは別れた。当然、キスはしなかった。

 夜、夕飯を済ませて風呂で汗を流した僕は、自室のベッドで横になって扇風機の風を受けていた。閉じた目の奥に、えりちゃんの泣き顔や数時間前の浅田とのやり取りが浮かぶ。確実に悪い方向に向かっている気がする。えりちゃんとは一定の距離感を感じているし、浅田とも気まずい雰囲気になってしまった。

 何がいけないんだろう。

 そう自問してみても、頭の中には新しい糸口も何も見えてこない。次第に考えることさえもやめてしまいそうになりながら、ほとんど無意識に顔の横にあった携帯に手を伸ばした。目を開けると、ちょうどメールを知らせるランプが消えるところだった。メールか、と思っていると、それはまたささやかな青い光をつけた。

 薄目でちらりと確認すると、相手は浅田からだった。『いま勉強中です!』目に力の入った顔の絵文字を、握り拳で挟んでいる。やっぱり浅田も気にしているのだろうか。僕は慎重になって、『頑張れ。応援してる』という文章の最後に、浅田と同じように笑顔の絵文字をつけて送った。返信はすぐに来たけど、目をくの形にして喜ぶ絵文字だけだった。

 メールは、彼女から送られて来ただけだと思っていた。だけど、画面をはっきり見てみると、見落としていたらしく、まだ未開封のメールがあった。えりちゃんからだった。

 数日間、何のやり取りもしていなかった彼女から突然送られてきたメールに、僕の心は妙にそわそわし出す。内容の見当は全くつかない。一体、彼女は何を伝えにメールを送ったのだろう……。開封……する。

『動物園に、行きたいです』

 動物園。その文字をしばらく見つめて、思い当たる。あの日、彼女は商店街に貼られていた動物園のポスターをじっと見つめていた。僕が声をかけると、何でもないというように素早く離れたけど、このメールからすると、全然、何でもないことない。行きたかったんだ、動物園に。

 だったら行こう。そう思って返信しようとした手を……とめる。

 いいのかな、僕で。えりちゃんは、僕のせいで何か悩みを抱えているはずだ。彼女はそれを否定してはいるけど、それは彼女の性格上の問題で、苦しめているのは僕以外に考えられない。

 指が、これ以上動かない。その時になってようやく、僕はベッドに腰かけていたことを他人事のように知る。扇風機の風は今、真正面から吹きつけているのに、なぜか涼しいとは感じない。むしろ服が動いて肌に触れる感覚が、その時はやけに気になってしまって、結局停止ボタンを押した。音も風も、段々弱まる。部屋に静寂が訪れたのを合図に、僕は返信する。

『うん、行こう。動物園』

 僕らのメールのやり取りに、顔文字は一切ない。それは、今日このメールでも同じだった。

 僕はえりちゃんと、動物園に行く。彼女が僕を誘って行きたいというには、何か理由があってのことに違いない。もしかしたら、僕に全てを話す気になったのかもしれない。もしそうだったとしら、僕はそれを聞かなくてはいけない。人を傷つけた自分のために。そして、傷つけられた人のために。きっと、それは叫びだろう。非難だろう。何であれ、僕は彼女の言葉をしっかりと刻み込まなければならない。それが、僕にできる唯一のことだと思うから。

 それで少しでも、彼女の問題が解決できるのであれば、僕は前に進める。

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