定理5-7
プランBとはお菓子を道のりに沿って撒くことにより、花園香織を屋上へ誘導しようというものだった。作戦は成功という報せが、隆人と隼人から知らされた。彼女は屋上にやってきたらしい。
今、心一は両開きの扉の前にいる。屋上へ続く扉だ。この向こうに、彼女がいる。
心一は扉を開けて、光の世界に踏み出した。
屋上には、落下防止のための手すりと、貯水用のタンクと、生徒が座れるベンチがいくつかあって、そしてそのベンチの一つに、花園香織が腰かけていた。手にはバームクーヘンの切れ端を持っている。無感情な瞳は、心一を捉えることなく空を見ている。あるいは単純に上を向いているだけかもしれない。銀の髪が風になびく。
心一は以前のように、彼女の隣に腰かけようとして、やめる。彼女と向かい合う形で、別のベンチに座った。彼女は心一の様子を気に留めもせず、バームクーヘンの切れ端を、次々と口に放り込んでいく。
心一たちのいる屋上は、二年生の教室があるコの字型の校舎の底辺に当たる場所だ。花園香織は中庭を背に、中庭に近いベンチに腰かけて、心一は中庭の方を見て、中庭から遠いベンチに座る。
さあ心一、言うんだ。雨の日にあなたを見た時から好きでしたと。単純に、好きだでも良い。簡単なことだ。心一は口を開いて、腹の奥底から空気を喉に送る。
「あっ……! あっ……! ああ……」
だんだんと声が小さくなっていく。ダメだ。やっぱり声が出ない。女の子と会話することの何が心一を委縮させているんだろう。恐怖だろうか。劣等感だろうか。畏怖だろうか。
春にしては冷たい風が、背中を撫でた。心一は頭を抱える。やっぱりダメだった。ぼくは彼女に直接気持ちを伝えられないまま、高校生活を、人生を終えるのだろう。いっそ、メールで妥協してしまおうか。それなら心一にもできる。天使と直接話ができるのは、運命に選ばれし者だけなのだ。心一は選ばれなかった。選考会に、参加すらしていなかったのかもしれない。ぼくがここにいるのは場違いで、そして彼女がここにいるのも場違いだ。
時間だけが虚しく過ぎていく。香織の手には、もう数えるだけのバームクーヘンしか残っていない。全部食べ終えたら、彼女は心一を置いて、屋上から姿を消すだろう。心一には、彼女の美しい食事を、見守ることしかできない。
「私を探して、心一」
耳に、凛の声が響いた。PPCが伝える、心一にしか聞こえない声だ。心一は左右を見て、彼女が隠れていそうな場所を探す。貯水タンクの裏にも、屋上の扉の前にもいない。
「かおりんを見て」
心一は花園香織を見る。彼女はやはり美しく完全な表情で、お菓子を食べている。
香織の遥か後方、一年生の教室がある方の屋上、コの字型の校舎の屋上で、動く人影がある。
霧宮凛が、心一に手を振った。
「オーケー。何もしなくていいし、何も話さなくていいわ。かおりんに気付かれたら終わりだからね」
心一は彼女が何をしようとしているのか、皆目見当もつかない。質問することもできないので、彼女の話の続きを待つ。
「ごめんね。思いついた時は良い方法だと思ったんだけど、これ、あんまり良い方法じゃなかったみたいなんだ。それでも心一がやりたいなら、私は協力するわ」
凛の声が震えている。屋上には冷たい風が吹いていて、心一はそれが寒さのせいだと思い込む。
「心一、私に向かって、かおりんへの告白をするの。あなたは私となら喋ることができるんでしょ。だったら、かおりんの向こうにいる私に向かって、喋ればいい。かおりんはきっと、あなたがかおりんに話しかけたものだと思うわ。そうすれば彼女に、声は届く。運が良ければ、あなたの気持ちが、彼女の心に届くかもしれないわ」
心一は考える。確かにそうすれば、心一は言葉を発することができるだろう。向こうの屋上にぼやけた凛の姿を見た瞬間、喉がリラックスするのを、心一は確かに感じていた。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。真っすぐに生きたい、気持ちに正直に生きたい心一は、それでいいのだろうか。
心一はホロウが好きではない。オンラインで交わされる会話に気を取られすぎる人達も、好きではない。彼らは目の前の人間と向き合っているふりをしながら、自分の理想としか向き合っていない。今心一がやろうとしていることは、心一が嫌う愚かなコミュニケーションと変わらない気がする。
だから、心一は何も言わないことを選んだ。代わりに、凛が言った奇跡という代物に、賭けることにする。
心一は立ち上がって、花園香織に近づいた。彼女のどこを見ているか分からない目の、その視野に、無理やり映り込む。そうして、彼女の目と、心一の目が合う。
沈黙は雄弁だ。見つめ合う視線には、気持ちを伝える見えない線が結ばれている気がする。あるいはそれは妄想の線で、心一の中でしか生成されていないかもしれない。
ならば、その妄想の線すら伝えてみせる。奇跡はそれを可能にする。
三分ほど見つめ合った。香織の広く分散していた興味が、心一に集まるのを、心一は感じた。
花園香織が、自ら口を開いた。お菓子は既に無くなっており、食べるためではない。言葉を発するために開かれた。
「お菓子」
心一は首を横に振る。
「ないの?」
今度は縦に首を振った。
「なぜ?」
今度はじーっと彼女を見つめる。
「何」
見つめる。
「分かんない」
心一はただ見つめるだけだ。はたから見たら、確実に不審者だろう。それでも心一は見つめ続ける。
永遠に近い時間が過ぎた。ような気がしただけだ。心一と彼女はまるで一つ彫刻の作品のように動かない。しかし、石化の魔法をかけられた人間と石のフリをした女神様のどちらが先に動き出すか、答えは既に出ていた。
そうして、香織がため息をついた。そして、心一に告げた。
「あなたは、私を好きじゃない。あなたは私じゃない私に恋をしているの」
彼女はそう言って立ち上がると、心一の前から姿を消した。心一は初めて、彼女が文章を話したのを聞いた。柔らかい声の中に、凍てつくような寒さを内包した、そんな声だった。
心一は、満足していた。少なくとも心一の恋心は、彼女に届いていたことが分かったからだ。
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