定理5-6

 遂に放課後がやってきた。やってきて欲しいような欲しくないような放課後だ。でも、花園香織が屋上にやってきてほしいとは十割の気持ちで思っている。そんな放課後だ。


「ちゃんと靴箱に入れたの?」


 学校の玄関を出て、左前に植えられた大きな木。その後ろに隠れるようにして、心一と凛が靴箱の様子を見守っている。


「もちろん、ちゃんと花園先輩の靴箱に入れたよ」

「そう。それは良かったわ」


 今日の凛は普段よりもそわそわしている。木の幹から顔を出しては引っ込め、出しては引っ込めを短めのインターバルで繰り返していた。


「かおりんはまだ出てこないの?」

「凛、落ち着いて。君が慌てる必要なんてどこにもないんだよ」

「あードキドキしてきた。自分のことじゃないのにね」


 凛があははと弱弱しく笑う。その笑顔には、いつもの覇気が宿っていない。


「凛、大丈夫? 何だか具合が悪そうだけど」

「別に。何ともないわ」

「そうかな? なら良いんだけど……」


 もし、心一の声が出なかったら。凛が心一に声を出させる役目を担っているのだ。それで緊張しているのかもしれない。

 心一は息を大きく吸い込む。新鮮な空気が、脳と心を通り抜けていく。今日なら行ける気がする。凛に負担をかける前に、自分の力で思いを伝えるのだ。


「大丈夫だよ、凛。自分だけで何とかできる気がするから」

「そ、そう? それなら私の出番はなさそうね」

「うん。だから観客の気分で見てればいいよ。伝えて、振られてくるから」

「そうね。振られるんだもんね……」


 ため息をつく凛。心なしか、先ほどよりも元気になっている気がする。


「もしもし、こちら明彦。花園さんが教室から出ました。オーバー」


 心一のPPCに、明彦から連絡が入った。骨伝導により伝わる音声が、心一の鼓膜を震わせる。銀の天使の動向を監視するため、グループチャットアプリで連絡を取り合うことにしていたのだ。策が失敗した時の予防策も、隆人と隼人が準備してくれている。フェイルセーフは基本中の基本だ。


「了解。靴箱を確認する。オーバー」


 心一と凛が、串に刺した団子みたいに、木の陰から仲良く顔を覗かせる。

顔のない人々フェイスレスがまばらに玄関から外に出てくる。みんな一人ずつだ。みんな一人で帰路につく。誰も他の人間に歩幅を合わせたりしない。

 遂に銀の天使が靴箱に姿を現した。銀の髪が、彼女を追いかけるようになびく。彼女はぼうっと完成された無表情で、彼女の靴がある一番下の靴箱を、しゃがんで開けた。手を入れて、取り出したものは靴ではない。パブリック表示に設定されたテキストオブジェクトだ。彼女は心一の手紙を手に取っているのだ。心一の木の幹を握る手に自然と力がこもる。

 香織はしばらくテキストオブジェクトを眺めると、手を宙で動かす。PPCを操作しているのだろう。しばらくして、香織の手の中にあるオブジェクトが粉々に砕け散る。心一はそのエフェクトを昨日見た。テキストオブジェクトの消去エフェクトだ。


 香織は読んでか読まずしてか、心一の手紙を、その場で塵にしたのだ。


「ここここちら心一。テキストオブジェクトの消滅を確認。オー、ノー……」


 心一の身体から力が抜ける。ついでに口から魂も抜けそうになる。


「馬鹿! 諦めるにはまだ早いわ! プランBに移行するわよ」

「こちら隆人と隼人、プランBを実行する。オーバー」

「了解、私も持ち場につくわ。オーバー」


 凛は心一の開いた口を手で無理やり閉じる。それから両の手の平で、心一の頬を挟んだ。


「しっかりして。手紙は残念だけど、屋上には絶対に連れていくわ」

「でも、手紙の言葉が伝わらない時点でぼくの気持ちはきっと届かないよ。目と耳までで終わりで、彼女の心までは届かない」

「あなたの言葉が心に届く? 思い上がりも大概にしなさい! 耳まですら届けられてないじゃない! 想いってのは多分、言葉だけじゃ伝えられないのよ。音だけでも、センスだけでもダメ。もちろん、科学だけでもね」


 そんな。それなら心一の気持ちを、彼女に伝えることなんてできないではないか。心一は言葉以外に、声以外に、触れ合うこと以外に、想いを伝える術を知らない。そんな心一が、一体どうやって想いを伝えればいいというのだ。


「声じゃダメなら、一体何ならいいんだ?」

「笑わないなら、教えてあげてもいいわ」


 凛の目に宿る光が、心一の目を貫く。貫いた速度で、脳さえも貫く。


「教えて。何が必要なのか」


 凛がニヤリと笑う。自信に満ちた、迫力のある笑顔だ。


「奇跡よ。やれることを全部全部全部試して、そしたら突然、伝わるようになる。もちろん具体的な要因があるんだろうけど、それは今のところ特定しようがないものなの。広い砂漠で落としたコンタクトを探すようなものよ。だから私は偶然に近いそれを、奇跡と呼ぶの」


 心一には良く分からない。ただ何となく、それが今の心一には手に入れるのが不可能だということだけは良く分かる。そして、それを手に入れるための第一歩を、今日踏み出さなくてはいけないということも。


「分かった。とりあえず、やれるだけのことをやってみるよ」


 心一は深呼吸を一つ、目に力を入れる。凛の目みたいな輝きが宿ることを期待して。

 凛は柔らかく微笑んで、心一から手を放す。そして心一のために、心一に背を向け走り出した。


「それじゃあ幸運を祈るわ」

「頑張ってくるよ」


 心一は玄関で靴を脱いで、それを手に持つと、屋上への道のりを急ぐ。天界に近づく階段を駆け上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る