定理4-3

「やっと着いた……」


 心一は倒れ込んだ。心一の隣では、明彦が同じように仰向けで倒れている。長く険しい道のりだった。ついにたどり着いた頂上では、桜の木が心一たちを迎えてくれた。


「ごはん」


 全く疲れを見せない香織が早速、メロンパンを取り出して口に頬張る。メロンパンといえばおにぎり四個分のカロリーがあるらしい。今、おにぎり四個分の何かが香織の胸に吸収されようとしている。

 心一の腹が鳴った。何か食べないともう動けない。動けないから食べられない。心一はここで死ぬ運命にあった。


「食べる?」


 心一の視界に広がっていた桜の花が、香織の顔で見えなくなる。滑らかな銀の髪が心一の顔にかかり、くすぐったい。


「あっあっ……」

「待って」


 口をパクパクさせる心一を見て肯定と受け取ったのか、香織がビニール袋を漁る音が聞こえる。視界に戻ってきた桜を、心一は眺める。満開の桜が、空の青を覆いつくさんばかりに心一の視界をマスキングしている。こういう時、視界の隅に表示される緑色のアイコンが邪魔だ。桃色の視界の中に、無機質な緑の穴が開いている。どんなものも塞ぐことのできない穴だ。

 香織の顔が、視界に戻ってきた。手には心一が買ったサンドウィッチが握られている。


「あ~ん」

「あー」


 開いた口にサンドウィッチが入ってきた。ふわふわの生地が、甘いたまごフィリングが、口内を満たしていく。満杯を超えて、容器を壊そうと言わんばかりに、サンドゥイッチが押し込まれる。無表情の香織が丸々一個分のサンドウィッチを、指でグイグイと押して詰め込んでいた。指を噛んでしまう危険性があるため咀嚼もできず、心一は香織がサンドウィッチを圧縮し終わるのを待つしかない。苦しい。パンの生地が心一の口内の水分を奪っていく。遂に香織がサンドゥイッチの袋詰めに成功した。指が離れたのを確認して、心一は死に物狂いで口の中のものを咀嚼する。


 ここまで圧縮されたサンドウィッチは、サンドゥイッチとは呼べないのではないか。サンドというよりはにぎりだ。彼女の手でにぎりウィッチに変わったサンドウィッチ。これは実質、花園香織の手料理と言っても過言ではない。心一は今、サンドウィッチ味の彼女の手料理を食べているのだ。心一の目に涙が溢れてくる。手料理を食べた嬉しさによる涙というよりは、単純に苦しさで流す涙であったが。


 サンドウィッチを飲み込むと、心一は飛び起きて、買ってあった水を一気に喉に流し込んだ。水分が、潤いが戻ってくる。心一は香織の食べさせてくれたサンドウィッチではなく、その行為自体により復活していた。


 お礼を言いたい。でも言葉は未だに出てこない。心一は立ち上がって、感謝の意を込めて彼女に礼をする。


「苦しゅうない」


 心一は彼女に苦しめられていたが、彼女が苦しくないということで良しとする。言葉を介さずに、心一の気持ちが香織に届いた。自然に心一は笑顔を浮かべる。

 また、腹の音が鳴った。心一ではない。香織も首を横に振る。どうやら明彦の腹が鳴ったようだ。明彦は未だに仰向けに倒れたまま動いていない。空気を求める腹だけが、服の上からでも分かるぐらいに大きく収縮している。

 香織が明彦の元へ行く。


「食べる?」

「いえ、結構です……」

「遠慮しなくていいぞ、明彦。ホラホラ」


 心一は明彦の口に、ホットドッグを無理やり突っ込む。


「んー! んー!」


 明彦の声にならないくぐもった叫びが、丘の上に響き渡った。


「桜、一本しかないな」

「そうですね」


 桜の花は満開で、仲間と共に咲いているが、木は幹一つでそれを支えている。周りに同じ桜の木はない。食事を終えた二人は桜の木を見上げる。香織はあんパンを頬張って、無表情でどこか遠くを見ている。もしかしたら桜を見ているのかもしれないが、心一にハッキリしたことは分からない。


 桜の木の向こうには、ネハンの中心にそびえるビル群が見える。ARの巨大な花びらが舞うビルは、途方もなく大きな桜の木のようだ。寒々しい灰色の幹に、鮮やかな桃色の花をいっぱいに咲かせて、無限に散らし続けている。人工的に作り出された巨大な木は、現実に存在しえない美しさを心一に見せつけていた。人々が電子の海の向こう側にいきたい理由が、全く理解できない心一ではない。


「それでもぼくは、君の方が好きだよ」


 心一は桜の木を見上げて言う。桜の木は何も言わない。



 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。



 満開の桜は、もうすぐ散ってしまうだろう。無限に散り続ける巨大な桜も、夏が来れば終わりを迎える。ビルはARオブジェクトのデザインを変更し、全く別の物になってしまう。桜の木がヤシの木になることだってできる。それでもこの丘の桜は、例え人々に見せる花が消えてしまっても、灰色の桜の木であり続けるのだ。そうして長い冬を超えて、また花を咲かせる。


 盛んなものは必ず衰える。理想に近づいていても、離れていても、心一であり続けること。望むことは、多分そんなことなんだろうと思う。そして、そんな心一を好きだと言ってくれる人間がいてくれたら良い。出来るならそれは、今心一の近くであんパンを頬張っている天使であってほしい。

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