定理5-4

 引き続き、部室。凛は真剣な表情でライセンスの画面を睨んでいる。心一はライセンスの他の機能を調べようと、説明書のオブジェクトをめくり、メニュー画面を切り替えていく。


「そういえば!」


 凛が何かを思い出したように声を上げた。多分碌なことではないだろう。香織がいない部室に残る意味は、あまりない。心一は凛にバレないように、静かにライセンスをポケットに戻すと、忍び足で部室の扉に向かって歩きだす。


「心一、あなた女の子と話ができないんですってね!」

「誰だ! 凛に教えたやつは誰だ!」

「明彦から聞いたわ」

「あのキラキラ眼鏡め!」


 明彦が勝ち誇ったように眼鏡を光らせる様が目に浮かぶ。ホットドッグを口に突っ込んだことに対する報復だろうか。彼の口を封じるには、ホットドッグだけでは足りなかったようだ。


「心一、私とは普通に喋っているじゃない」

「凛と男子とは普通に喋れるんだけど」

「私と並ぶ単語がおかしくない⁈」

「あとは母親と妹かな」

「私って一体何だと思われているのよ……」

「そりゃあ宇宙人でしょ。どっからどう見ても」

「心一くん、夜道には気を付けることね。キャトルミューティレーションされないようにするのよ」

「ほんと、すいません」


 凛ならキャトルミューティレーションしかねん。心一は負けが見えている勝負に挑むほど馬鹿ではない。少なくとも本人はそう思っている。


「女の子と喋れないのは致命傷よ。この活動においても、人生においても」


 それは心一が一番良く分かっている。現に今、心一は香織と喋ることができなくて、大変な目に遭っている。


「あー! だから変な告白になっちゃったのね」

「そうです……」


 絶対に香織には届いていない告白。凛が読み取った愛の気持ち。


「ぼくを追い出すかい?」


 彼女に使い物にならないということがバレてしまった以上、心一がここにいる理由はない。


「はあ? 面白くないジョークは禁止よ。喋れないんなら、喋れるようになれば良い。別に言葉がなくたって、意思疎通を図ることはできるわ」

「それじゃあぼくは花園先輩がいる部室にいていいのか?」

「当たり前よ。取引したじゃない。あなたの告白をサポートするって。私があなたを猿から人に進化させてあげるわ」


 凛が薄い胸をはって、ドヤ顔を決める。


「ありがとう、本当にありがとう……」


 感謝の気持ちと共に、何か黒いものが心一の頭をよぎる。何故か突然、凛を一発殴らないといけないという強迫観念が、心一の右腕を満たしていく。


「凛、一発殴らせてくれ」

「さっきまでの感謝は何処に⁈」


 凛の驚く顔を見て、心一は完全に思い出す。


「おい凛、ぼくが花園先輩が好きだって、部の男子にバラしただろ」

「あ」


 凛の顔がしまったという風に歪んだ。心一は鬼の形相で彼女を睨む。


「さ、参考までに、誰に聞いたのか教えてもらってもいいかしら?」

「森山くんから聞いたぞ」

「あのキラキラ眼鏡め!」


 凛の脳裏にも、明彦が勝ち誇ったように眼鏡を光らせる様が目に浮かんでいることだろう。


「信じてたのに……」

「だって、私も恋愛経験ないし……心一にバレないよう裏で動いてもらおうと思って協力を仰いじゃったのよ。ごめんちゃい」


 片目を瞑り、可愛く胸の前で手を合わせる凛。今の心一は、完全に修羅と化している。雑な色仕掛けなど通用しない。花園香織の色仕掛けはあっさり通用するが。


「一発、一発だけだから」

「いやよ! 絶対いや!」

「みぞおちだけ、みぞおちだけでいいから」

「的確に急所狙う気じゃない!」


 じりじりと距離を詰める心一。凛が部室の奥に追いつめられる。心一が腕を振り上げた時、彼女が口を開いた。


「そもそも、取引の時に秘密にするなんて言ったかしら!」

「へ?」

「私、あなたの恋心を秘密にするなんて約束、したかしら?」


 心一は思い出す。凛と会ったあの日を。まだ日も経っていない、散々だった告白の日の記憶は、まだ鮮明に思い出せる。


「……してないね」

「でしょ!」


 凛の目がいつもの勢いを取り戻す。


「さあ、早くその拳を下ろしなさい。罪のない女の子を殴れるほどあなたは鬼畜じゃないでしょう?」

「でも、だからといって言いふらしていいというワケじゃない気もする……」

「へえ? 私にそんなこと言っていいんだ? 今すぐ、全校生徒にあなたの愛をバラしてもいいのよ?」


 いつの間に用意したのか、凛がARオブジェクト化したテキストを、心一の鼻の先に突き付ける。そこには心一の奇行が実は告白だったということが、角の丸い可愛いフォントで記されていた。


「な、卑怯だぞ!」

「はーっはっは! これを廊下に数百設置することが、今の私には簡単にできるのよ」

 

 成す術なし、か。心一は力なくその場に座り込む。


「あれ~?心一く~ん、さっきまでの勢いはどうしたのかな? ほらほら~」


 凛が心一の周りを、奇妙な踊りをしながらグルグルと回る。


 心一の中で何かが切れる音がした。


 目には目を、歯には歯を、だ。心一は使う気のなかった奥の手を使うことにする。


「あったまきた! ならぼくもこいつをバラ撒くからな!」


 心一は、凛の鼻先に、ARオブジェクト化したテキストを突き付ける。そこには、凛の下着を見た時の体験が、精緻に、詩的に、情熱的に、明朝体でスラスラと綴られていた。


「ちょっと! 何よこれ⁈ いつの間にこんなの書いたのよ!」

「凛が踊りを踊っている間にちょちょいのちょいってワケよ」

「さすがにドン引きするわよこれは! 頭おかしいんじゃないの⁈」


 凛が文章に目を通す。目が横に一往復動くたびに、だんだんと彼女の顔が火が出るように赤くなっていく。声に出さなくてもいいのに、彼女の口は文章を読み上げていく。



「春の風だと思ったら、私の前に現れたのは小さな台風だった。霧宮凛は私を挑発的な目で見下ろす。その目は私から何もかもを巻き上げようとする強い目だった。しかし彼女は台風だ。台風の目というのは風の穏やかな、雨上がりの午後のような静かさでないといけない。私は彼女の台風の目を無意識に探した。そしてそれを、強力な二つのハリケーンのように引き締まった太ももの間に、ついに見つけたのだった。雨雲とは正反対の白い入道雲。完璧な白。白の中の白。物語の始まる前の原稿用紙のように、全ての可能性を内包した空白。彼女の下着は、およそそのようなものであった。台風の目がもたらす平穏とは一時的なものだ。またすぐに嵐がやってくる。しかし私は嵐の前の静けさというものが、真に優れた平穏なのだと思う。永遠に続く平穏というのは、それはつまり退屈に他ならない。私たちは来るべき暴力と終わりを覚悟することで、一時的で絶対的な安全と平和を手に入れることができるのだ。そういった意味で、やはり彼女の白い布製の下着は、真に下着なるものとして、まさしく理想的だと言えよう。兵器や悪魔だと揶揄される自然災害のような少女が、このような無垢で純粋な下着を履いているとは、一体誰が想像するだろうか。私は感動した。雲の上には空があるのではない。どこまでも広がっていく宇宙が、空を漂う雲の上には存在するのだ。私は彼女の下着の奥に広がる宇宙の神秘を、想像せずにはいられない。台風よりも強大な自然の力に圧倒された私は、冷たく固い地面に横たわり、来るべき終わりまでは、決してその白い安らぎからは目を離すまいと固く誓ったのだ。それこそが終わりを受け入れることに繋がる。私は微塵も怯えてなどいない。恐怖は私の内にはなく、ただ外からやってくる。彼女の小さな二つの竜巻みたいな指先が、私から光を奪う最後の瞬間まで、私は実に幸せだった。」



 聞いていると、書いた本人まで恥ずかしくなってくる。心一は自らも顔を赤くして、凛も顔を赤くして、二人揃ってさくらんぼの一房ように存在していた。


「なななな何よこれ⁈ 警察に突き出していい? 私は辱めを受けているわ!」

「元はといえば凛が招いた災厄だよ! あとわざわざ声に出して読まなくていいよ!」


 お互いにお互いのテキストオブジェクトを取り上げようと手を伸ばすも、仮想のデータに触れられるはずもない。二人の手はテキストを貫通し、勢い余って無様に床に倒れる。


「早くプライベート表示にしなさいよ!」

「それじゃあダメだ! 抹消するんだ!」

「分かったから! 消すから! 早くその気持ち悪いポエムをこの世から消してしまいなさい!」


 心一はPPCを操作して、テキストオブジェクトのデリート画面を表示する。凛も手を忙しく動かし、そして手を止めた。二人は睨み合う。


「せーので消すのよ」

「分かった。せーのだね」


「「せーのっ!」」


 二人は同時に消去ボタンを押した。


 瞬間、テキストオブジェクトが電子音と共に崩壊し粉々に砕け散った。


 一件落着。


 心一はフラフラと立ち上がると、回転イスを引き寄せ、腰を落とした。テーブルまで回転イスのキャスターを滑らせ移動すると、ぐったりとテーブルに伏せった。


「疲れた……」

「それはこっちのセリフよ……」


 凛がソファに飛び乗る音が聞こえた。それっきり。狭い部室が、途端に無音になる。この前は稼働していた明彦のパソコンのファンの音も、今日は聞こえない。


 心一は腕に埋めていた顔を上げて、凛の様子を確認する。彼女はソファにうつ伏せで横になって、皮と綿とスプリングで出来た沼に沈んでいた。物理的に。多分、精神的にも。重い沈黙が、心一の顔をもう一度腕で作った暗闇に押し戻す。


 さすがにやりすぎたかもしれない。女の子に酷いことを言ってしまった。心一はすぐに謝ることを決めた。何故なら彼女には言葉が通じるからだ。言葉が通じることで起きた悲劇であることも確かではある。


 もう一度顔を暗闇から引きはがす。すると、顔だけを横に向けて、こちらの様子を伺っていた凛と目が合う。


「凛、ごめんよ。煽られてついカッとなってしまったんだ」

「ぶー」


 膨れっ面にジト目で、凛が心一を睨む。


「悪かった。ぼくが悪いんだ。全面的に。多分」


 女の子とのいざこざは、だいたい男のせいで起きることになる。後からそういう風に結果が改ざんされてしまうということを、心一は今知った。女の子はみんな不思議な魔法か超能力を使えることになっているのだ。あるいは凛だけが使える魔法なのかもしれない。


「……私の下着を見た時の感想は?」

「うん、悪くなかった!」

「本当に反省しているのかしら……」


 いかん、つい正直に言ってしまった。


「……白が好きなの?」

「うん。いや、別に」

「あ、そう」


 凛が再び、ソファに顔を埋めた。果たして心一を許してくれただろうか。


「心一、もう一度取引をしない?」


 くぐもった凛の声がする。ソファが凛の声に変なエコーをかけていた。


「内容は?」

「私の下着を見た話は二人の秘密、心一がかおりんを好きなのは部の秘密」

「ぼくの秘密だけ、もはや秘密じゃない気が……」

「……ごめん。もうそこはどうしようもできないの」


 まあそうだろう。記憶は意外と簡単に消えてしまうけれど、そう都合よくは消えてくれないのだ。それに明彦のおかげで花園先輩とお花見ができたという実績もある。こればかりは受け入れるしかない。


「いいよ。もうそこは気にしてないから。取引成立だね」


 心一の言葉を聞いて、凛が身を起こす。まだ少し頬が赤いのは、ソファに顔を埋めていたせいだろうか。


「じゃあそういうことで。仲直りの握手をしましょう」


 彼女が伸ばした手を、心一は握る。これで何回目だろう。三回目だったかもしれない。何度やっても、握手というのは嫌にならない。握手という行為がそういうものなのだろうか。それとも凛との握手が特別なのだろうか。心一にはよく分からない。握った手から伝わる凛の温もりが、心臓にまで届いたのか、胸の奥が熱くなっていた。

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