定理5-3
放課後。部室に顔を出した心一を迎えたのは、霧宮凛一人だった。彼女は女性陣専用のソファに腰かけて、心一には不可視の画面を難しい顔で見つめている。テーブルには黒い板が置かれているから、多分ライセンスの画面を閲覧しているのだろう。
心一は背もたれのない回転イスに座ると、溶けるようにテーブルに顎を乗せて、腕をダラリと垂らした。朝から本場の豚骨ラーメンよりも濃い絡みを見せられ、精神的な疲れが蓄積していた。足の筋肉痛も地味に心一の気力を奪っていた。
それでも部室にやってきたのは、花園香織がいるかもしれないと思ったからだ。天使はいなくて、代わりに歩く爆弾がいたが。
「人生に疲れ切ったような顔をしているわね。何かあったの?」
「ちょっと漢二人の真剣勝負を観ただけだよ」
「暑苦しいやつ?」
「背景で火山が噴火するぐらいには」
「うわ、熱いわね……」
「凛はあの二人と一年も一緒にいてよく平気だね……あっ兵器だったね」
「今ここで爆発してあげてもいいのよ?」
「ごめんなさい」
心一にはもう凛と言葉の応酬をする気にもなれず、長いため息をつく。
「そういえば他のみんなは?」
「言ってなかったっけ? 基本的に私が招集しないと活動はないのよ」
「聞いてないよ」
「じゃあ今言うわ。ライセンスに反応がないと、何もできないのよ。だからこの活動は不定期よ。でも反応があった時は、授業中でも引っ張り出して連れていくからね」
「ええ……」
霧宮凛が歩く爆弾と呼ばれるのは、こんな風に強引に自分がやりたいことを推し進めようとする性質からだろう。心一には到底できない。できる人間になりたいかと言われれば、憧れはあったりする。
見えない画面を凝視する凛を、画面の見えない心一はじっと見つめる。彼女の瞳は宇宙誕生の輝きを湛えているようだ。その瞳を見ているだけで、彼女の内から溢れるエネルギーが心一の視覚を通して分け与えられているような、そんな不思議な感覚を覚える。
「そういえば、あなたもライセンスを取得できたのよね」
「あー、そういえばそうだった。朝の出来事ですっかり忘れていたよ」
「見せて」
心一は制服のポケットから白い板を取り出すと、テーブルの上に置いた。
「あら、白にしたのね」
「天使の翼とお揃いの色さ」
「あなたのそういうところ、普通に気持ち悪いと思うわ」
「照れちゃうな」
「別に褒めてないんだけど」
凛が自分で自分の身体を抱きしめて、ソファに深く座るようにして心一から距離を取る。
「ちなみにかおりんのライセンスの色は黒よ」
「嘘……だろ……」
「事実よ」
まさかの黒。心一のお揃い作戦は失敗を知らされた。ショックで目の前が暗くなる。花園香織。やはり良く分からない。
「ライセンスの使い方の説明書、ちゃんと読んだ?」
「読んでないよ。花園先輩の好きな色も読めなかったよ……」
「そんなに落ち込まなくてもいいでしょ」
「うう……」
「熱血馬鹿なのにうじうじしてどーすんのよ。ほら、ライセンスの使い方教えてあげるから」
心一は熱血でありたいと、まっすぐ正直でありたいと思っているだけで、本当にそうではないのだ。凛はそれを分かっていない。きっと彼女の方がまっすぐで、折れなくて、きちんと芯がある。いつか彼女も気づくだろう。心一がそこまですごくないやつだと。その時彼女は、心一を必要とするだろうか。
凛はソファから立ち上がると、心一の隣の回転イスに座った。キャスター付きの椅子を滑らせ、心一の真横にやってくる。回転イスと回転イスがぶつかり、凛と心一の腰の側面もぶつかる。ここはカーリングの会場ではなく、ストーンはぶつかっても飛んで行ったりしない。故に二人の身体はくっついたままだ。慌てて心一はキャスターを滑らせ、凛と程よい距離をとる。
「隣に来る必要ある?」
「こうしないと画面が見にくいし、操作の指示もし辛いでしょ」
「そそそそれはソウッかもしれないけど」
「途中、そして輝くウルトラ何とかになっちゃってるわよ」
正直に言おう。心一はこの歩く爆弾、日本語を解する宇宙人、そして明るく活発な美少女である霧宮凛と接触したことにより、心臓の音が耳にまで達し、周囲の音が遠くなるぐらいには、胸の高鳴りを感じていたのである。
ぼくは、花園先輩という人がありながら、何てことを。心一は胸の内で、誰にでもドキドキしてしまう自分を呪う。
ちなみに花園香織は別に心一の彼女でも友達でもない。
「さあ、ライセンスを起動してみて」
「分かった」
凛と適度な距離に落ち着いた心一が、ライセンスの上で指を滑らせる。独特な起動音と共に、白い板が、ARオブジェクトを内から吐き出すように、メニュー画面が表示された。
「パブリックに表示して」
心一はジェスチャーを使って、PPCのメニューを呼び出す。今起動しているアプリケーションの一覧からライセンスを見つけると、表示をプライベートからパブリックに変更した。
「見えたわ」
更に心一は、表示だけでなく操作の許可もパブリックに変更する。こうすることで、凛にも心一の見ているものを見て、そして触ることができる。
「とりあえずはこれね」
凛が「検索」のアイコンを指先で二回素早く叩いた。画面が切り替わり、スイッチのようなものが表示された。現在の状態はオフになっている。
「これをオンにするとあなたの位置が、同じくオンにしている者のマップに表示されるわ。そして、これをオンにしないとマップ等の機能は使用できなくなるの」
心一はスイッチをオンにする。スイッチの背景が発光しているようなデザインに変わった。メニューに戻り、今度はマップを表示する。マップは3Dの立体図で、心一のいる位置を中心にして展開した。心一のいる位置は青色の円で示されている。前に凛が見せてくれたものと同様だ。黄色い円が周囲に点在し、動き回っている。
「この黄色の円の子のホロウを解除するのか?」
「そういう時もあるわ。でも黄色は普通に友達を作りたい人の円だから、いまいちホロウを嫌々被っているとは断言できないのよね。結局ホロウを被ったまま、オンラインで行われる完璧なコミュニケーションの延長になってしまうことが多いわ」
マップの端で、黄色い円が接触した。心一がしばらく眺めていると、色が緑に変わる。
「ここ、色が緑に変わったんだけど」
「とりあえずコミュニティが形成されたという印よ。まだ仲間を募集しているから、ライセンスの検索を入れっぱなしにしているの。完全にコミュニティが固まったら、検索をオフにしてマップから消えるわ」
緑の二つの円に、黄色い円が近づく。近づいた黄色の円は緑に色を変えることなく、三つの円はマップから消滅した。
全く知らない三人が、今日初めて出会い、何かのグループを作った。ホロウがあるから会話は弾むだろう。ライセンスを使うぐらいだから、視界の隅でくり広げられる会話ではなく、多分目の前の会話に集中する。三人は楽しく会話をし、腹を満たし、ちょっとしたARゲームで遊ぶ。時間が来て、三人は別れる。今日は楽しかった。満足だ。ライセンスもなかなか良いものだな、と。
でもそれは結局、オンラインで行われるアバターのコミュニケーションと一緒だと心一は思う。みんなそれで満ち足りている。素晴らしい世界だ。その世界に心一の求めているものはない。ありのままの心一を、発展途上の心一を受け入れてくれる隙間なんてなく、完璧なパズルが完成している。
「それじゃあSOS信号というのは何色なんだい?」
「赤よ」
赤。肉の色。血の色。危機の色。誰かの助けを求める声の色。
「大人にではなく、インターネットの完璧な世界ではなく、ホロウではなく、同世代の、思春期の人間にだけ見える悩みの具現化。それが赤い円となって、マップに表示されるの」
凛がマップを広範囲表示にする。ネハン全体を見渡せるマップにはしかし、赤い円はどこにもない。もちろんそれは良いことである。誰も悩まず平和ならそれに越したことはない。赤い心が痛むのに、勇気を出せない人間がいる可能性を、心一は否定できない。
凛が心一の顔を見る。真剣な眼差しからは、彼女の決意が伺える。
「赤い円が現れたら、すぐに駆けつけてあげるのが私の使命よ」
「どうして凛は、そこまでして他人を助けようと思うんだ?」
授業をサボってでも駆けつけようとする凛。彼女を動かしている原動力は、一体何なのだろうか。
「私がやりたいからよ。みんなが幸せになる権利が、科学の発展した世界にはあるわ」
眩しすぎる凛の輝きを、心一は直視できない。思わず下を向いてしまう。テーブルの上には心一の白いライセンスと、彼女の黒いライセンスが、綺麗に揃うことなく、無造作に置かれている。
「すごいよ、凛は。自分のことを投げ出してまで、人のためにここまでできるんだ。何の見返りも求めることなく、真っすぐ自分のやりたいことに向かって……」
「……違う。私はそんな人間じゃないわ」
「え」
心一は突然低くなった彼女の声に、思わず顔を上げた。
凛の瞳がブレる。うっすらと浮かぶ涙。今、彼女の芯が、ホロウのない彼女の真が、心一の目の前に現れようとしている。
「見返りは、あるの。とてつもなく大きな、私のためだけの、自分勝手な見返りが。私はどうしようもなくそれが欲しくてたまらなくて、だから頑張っているの」
凛の声が震える。俯く彼女からは、いつもの快活さが失われている。
「見返りって……?」
「心一には、まだ教えられない。でも私は、あなたがそれを運んできてくれるんじゃないかと期待している。だから……」
顔を上げた凛からは、先ほどの弱さが失われていた。いや、飛んで行ったとかではない。多分彼女のどこかに引っ込み、隠れてしまったんだと心一は思う。満面の笑みで、凛が心一に告げる。
「これから、よろしく!」
「よろしく」
心一は、彼女の手を握る。手を差し出せるのは彼女の腕の先までで、彼女の心の奥にある、得体の知れない何かにまでは手が届かない。それでもいつか、彼女を助けられるような人間になれたらいいなと、心一は思う。彼女が赤い円を表示させたときは、来ない方が良いその日が来た時には、心一が真っ先にかけつける。心一は今、握った彼女の小さな拳に誓った。
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