定理5‐2

 心一が学校へ行く時に通るルートは固定されている。家を出て、右へ進む。同じような家が並ぶ通りを数分歩くと、十字路が現れる。そこを左へ。ネハンの中心に近づくように進む。街に入る寸前にある十字路を右に曲がると、後は真っすぐ進むだけだ。心一は現在この真っすぐ進んでいる状態にある。筋肉痛で足が痛む以外は、いつもと変わらない登校になるはずであった。


 学校の大きな時計が見えてきた。もうすぐだ。心一は既にホロウをつけた人間二人と気持ちの良い挨拶を交わしており、一刻も早く教室へ入って着席したい気分だった。


 目の前に、奇妙な恰好で歩いている学生がいる。つまるところそれはムーンウォークだったりする。前に進むように見えて、滑るように後ろに進む。アスファルトの上でやっているのが単純にすごい。靴底がすぐボロボロになりそうだ。手は見えない帽子を押さえるように添えてある。

 その隣を、別の学生が跳ねるようにして進んでいる。跳ねるというのは軽快なスキップのことではなく、まごうことなきうさぎ跳びだ。後ろで手を組み、腿の筋肉に負担のかかる跳躍を繰り返して進んでいる。しかも、かなりのハイペースだ。着地したと思ったら、すぐに次の跳躍が始まっている。学校に着く頃には一日分のエネルギーを使い果たしていそうだ。


 うさぎと月の競争はハイペースとはいえ徒歩よりも遅く、心一と彼らの距離はどんどん狭まっていく。


 最近変な奴らと付き合うことになった心一は、これ以上変な奴らと関わることを避けたいわけで。うさぎと月の横を、なるべく異世界を視界に入れないように足早に通り過ぎようとした。


「おお! 心一じゃねえか!」


 どこかで聞いたことのある声だ。心一が横を見ると、前田隆人がうさぎ跳びをしながら笑顔でこちらを見ていた。


「え、先輩だったんですか……」

「おう! 俺以外にこんなこと出来る奴なんていねえって!」


 そうかもしれない。そもそもうさぎ跳びで登校が可能だとしても、率先してやろうなんて人間は地球の裏側に行ってもいないだろう。


「どうしてうさぎ跳びで登校しているんですか?」

「勝負してんだよ」


 勝負とは、隆人の隣の人間と行われているものだろうか。心一は見なくても、隣の人間が誰か予想がついた。


「迷える子羊よ、今日も迷い続けているのかい?」

「隼人先輩……」


 迷わずに学校に行こうとしている心一に、神田隼人が声をかけた。心一は彼らを置いていくかどうかを迷っている。


「ノン、俺は隼人じゃない。神の名前ゴッズネームで呼んでくれと言っただろう」

「ホルス先輩」

「そうだ。それでいい」


 既に緩いスピードを緩めることなく、二人は学校に向かって進み続ける。心一は仕方なく彼らに合わせてペースを落とす。


「一体何の勝負なんですか?」

「筋肉パワーとハンサムパワーのどちらが速いかを決めてるんだ」


 ハニカミながら隆人が言う。パワーを比べるのに速さを比べているというのが心一には良く分からない。そして筋肉とハンサムを同じ土俵に上げて戦わせていることはもっとよく分からない。


「筋肉でうさぎ跳びは分かるんですが、ハンサムだと何でムーンウォークなんですか?」

真実を探し出せ、羊よシーク・シープ

「ええ……」


 心一は隼人のムーンウィオークを見る。滑らかな動きは、確かにダンサーとしても通用しそうではある。それぐらい上手い。でもそれはムーンウォークであり、ムーンウォーク以外の何物でもない。


「すごく上手ですよ。ムーンウォーク」

大分潜れたねダイブ・ダイブド

「先輩、読みがそのまんま日本語なんですけど」

しかしまだ良くないバット・バッド


 隼人が恭しく、頭に添えた手を宙に伸ばす。さながら、悪魔か天使が翼を広げるように。


「これは、超かっちょいい後ろ歩きハンサムーンウォーク、だ」

「絶妙にダサい!」


 隼人は心一のツッコミに気を悪くした様子もなく、爽やかに微笑む。


「君たちの言うところのムーンウォークよりも、俺の超かっちょいい後ろ歩きハンサムーンウォークは約百倍、靴底の減りが早い」

「ダメダメじゃないですか!」


 隼人の進む方向とは逆、つまり隼人の前方には、千切れた靴底がヘンゼルとグレーテルが落としたパンのように、彼の軌跡を可視化するように落ちていた。


「おいおい! 靴底が限界みてえじゃねえか! ハンサムも大したことねえなあ?」


 靴底とハンサムには一切の関係がない。一体何をどう超越すれば靴底とハンサムが同じ文脈に登場するのだろうか。


 心一はゆっくりと進んでいく彼らの勝負を見守る。校門まではあと五〇メートルを切っていた。


「ラストスパートと行こうじゃねえか」

「俺もそろそろ本気を出すとしよう」


 二人のペースが上がった。人間の徒歩のスピード並みに。心一は学校の時計を見た。一校時目までに十分な時間があることを確認して、彼らの横を涼しい顔で歩く。


「うおおおおおおおおおお!」

「はああああああああああ!」


 気合いの入った声で、筋肉うさぎは跳ね、美男子の月は公転する。二人のスピードはほぼ互角、このまま行けば引き分けになるだろう。


「くっ!」


 隼人の靴底が、まるで超絶作画のロボットバトルみたいに、彼の足からパージして、アスファルトの上を二度跳ねて宇宙ゴミスペースデブリとなる。あるいはただの燃えないゴミになる。


「まだだ! まだ終わらんよ!」


 どこぞのニュータイプみたいなことを言った隼人は、靴底を失ってもなお超かっこいい後ろ歩きハンサムーンウォークを辞めない。彼の足の裏からは血が出ており、赤い彗星の軌跡を描いて飛び散る。


「おい! 血が出てるじゃねえか!」

「大丈夫だ。超かっこいい後ろ歩きハンサムーンウォークが生み出したラブコメディ粒子が、ありとあらゆる致命傷を何事もなく描写できる断絶時空を形成する!」


 心一の知らないところで、花粉以外の粒子が散布されていた。


「そんなことができるのか⁈ なら俺もいっちょやってやるか!」


 隆人の雄叫びと共に、彼の上半身の制服が粉微塵に吹き飛んで塵となった。上半身の筋肉はみるみるうちに盛り上がり、汗ではない何かが彼の肉体をテカらせる。上半身がうさぎ跳びに関係があるのかというと、まあ多少はあるだろうと心一は思う。

 隆人が腿に力を入れると、まるで老朽化した水道管みたいに、皮膚のあちこちから血が噴き出した。背景ではネハンにないはずの火山までが噴火を始めている。

 隆人が跳ねる。彼はもううさぎではない。獲物を狩るために跳躍する肉食獣だ。


「ならば俺ものろまな月ではいられまい」


 隼人の足の裏が地面との摩擦で火を噴いた。紅い炎は赤い血の軌跡を残して燃え盛り、やがて蒼い炎へと変貌を遂げる。足の裏から放たれる炎は、もがくように膨張し、やがて大きな羽根の形に安定する。


「これが蝶かっこいい月光の飛翔バタフライトムーンフライトだ!」


 推進力を得た隼人が、空を切って進む。隆人も負けじと巨体を宙に躍らせ、二人は一歩も引けをとらない。現実からも仮想現実からも切り離されたSF的ラブコメディ空間で、二人は散るはずのない火花を散らし、受ける必要のない傷を受け、ありもしない力を行使する。


 校門まで後一メートル。二人は最後の力を振り絞り、倒れるように突っ込んだ。心一は二人の横を徒歩で進む。


 勝負は最後の一瞬で決まる。どちらの身体が先に校門をくぐったか。指の先最小極限値〇メートル、つまり限りなく〇に近い値でも最初に校門をくぐっていれば、その者の勝利なのだ。


 隆人と隼人の二人は同時に校門を抜けて、倒れ込んだ。ラブコメ空間は崩壊し、いつもの景色が戻ってくる。隆人の制服は元に戻り、隼人の靴底はまだ靴の一部として存在している。二人は肩で息をしながら、清々しい笑みを浮かべて空を見た。


「やるじゃねえか」

「お前もな」


 二人は拳と拳を合わせ、健闘を称え合う。心一はどちらが勝ったのか、その最後の瞬間を見ていなかった。別に心一は審判ではない。スローモーション映像を撮影するビデオカメラもない。それに多分勝敗はどうでも良いのだと思う。彼らの笑顔が、何よりの証拠だ。


 太陽は山の向こうに沈むどころか、今から天頂に昇ろうとしている。つまりは一日の始まりというわけで、既に心一は疲れ切っていて、とりあえず一校時目の授業は寝ることになりそうだ。

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