春が終わると桜の木はヤシの木になる

定理4-1

 日曜日の昼間だ。ネハンのショッピングモールには大勢の人がいて、みんながホロウを装着していた。心一は今、女神が歩いた道を歩いている。女神が現れた時はまだ、こんな風に頭が人じゃなくなった者が、我が物顔で歩き回っていなかった。女神が最初の一人だった。彼女はこの状況をどう思っているのか、心一には分かるはずもない。


 心一は次々に顔のない人々フェイスレスとすれ違う。ARの顔は真っすぐ前を見て、心一を見ていない。中にある顔はどこを見ているのだろう。ホロウをつけていない心一に、珍しい物を見る好奇の眼差しを向けたりするのだろうか。


「碓氷さん、どこのお店に入りますか?」

「あ、ええと、何だっけ?」

「大丈夫ですか? ぼうっとしていたみたいですけど」

「大丈夫だよ。少し考え事をしていただけ」

「そうですか。花園さんはどの店に入りたいですか?」


 香織は心一たちの少し前にいて、心一たちと香織の間には、流されるように移動する人々が数人ほどいる。香織に明彦の声が届いたのかは不明だ。彼女は人に当たらないようにフラフラと、時折お店を覗きながら進んでいく。心一は彼女を見失わないように、彼女を常に視界に入れて歩く。


「ショッピングモールっていつもこんな感じなの?」

「そうですね。ネハンは孤島だから、インターネットでの注文は届くのに時間がかかりますから。こういった場所で買い物をする方が手早いという理由からでしょうか」

「人混みに流されるくらいなら、インターネットでショッピングする方がぼくはいいと思うな……」

「同感です。みんなホロウをつけたり、PPCの仮想の世界に引きこもっておきながら、こういうのは平気なんですね」


 早く前へ進みたいのに、周りの人間のペースに合わせないといけない。自分の思い通りに動けないのがもどかしかった。


「それで、どのお店にしますか?」

「な、なるべく安いところがいいな」


 心一はバイトをしていない。潤沢な予算があるわけではない。なにせ三人分の会計をしないといけないのだ。


「碓氷さん、私は自分の分は自分で出しますよ」

「え⁈ 本当に⁈」

「さっきのは、花園さんを食事に誘うための口実です。花園さんだけおごりだと、彼女が罪悪感を感じて遠慮してしまう可能性がありました。だから私もおごられるという共犯者を演じ、彼女の罪を半分背負ったわけです。まあ彼女が遠慮するような女性には見えませんが」


 明彦の眼鏡が一段と輝いて見える。恐るべし森山明彦。心一のために、そこまで手を回してくれるとは。


「森山くん、何て良い人なんだ……分かった。今日は本当にぼくがおごるよ」

 心一は今日、明彦に随分と助けられている。そのお礼もかねて、今日はおごりたい気分になっていた。

「いいんですか?」

「いいんだ。君には通訳までやってもらっているからね」

「計画通り……じゃない、ありがとうございます、碓氷さん」

「今計画通りって言わなかった⁈」

「いえ、そのようなことは一言も」

 恐るべし森山明彦。ここまでが計画だったのか。心一は感心こそすれど、明彦に怒ったりはしない。


「ねえ」


 誰かが心一の服の裾を引っ張った。見ると、いつの間にか心一の隣に香織がいる。それも随分と近い距離だ。香織の後ろを人が通ろうとした。香織は避けようとして、さらに心一に接近し、密接する。裾にかかった張力は途端に弱まり、心一の腕に柔らかな二つの膨らみによる圧力がかかる。

「あっ……あっ……!」

「あそこ」

 香織が指さしたその先には、パン屋が見える。焼きたてのパンが並んでいて、おいしそうな香りもする。ピークを過ぎたのか、お客さんはまばらで、すぐにでも買えそうだ。

「食べよ」

「店内に飲食用のテーブルはありませんね。買ってから外で食べましょうか」

「それ、いいね」

 香織の胸に腕を挟んだままの心一が言う。


人混みも悪くないかもしれない。そう思ったのは心一が人として成長したからだろうか。多分、いや、絶対に違う。

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