定理3-7
一階のロビーに戻ると、花園香織がベンチに腰かけて虚空を見つめていた。
「花園さん、ライセンスの取得終わりました」
「お疲れ~」
「あっ……あっ……」
愛も変わらず、つまり相も変わらず、心一は言葉を発することができない。普通に会話ができる明彦が羨ましい。
「花園さんも、今日はありがとうございました。長時間待って頂いて」
「いいよ~」
「あっ……」
そうだ。花園先輩にたい焼きをおごってやらないと。
「森山くん、ぼくの言葉を通訳してくれないか」
「え、碓氷さん、それってどういうことですか?」
「ちょっと失礼」
明彦の腕を引っ張り、香織から距離を取る。彼女に聞かれないように、声のボリュームを抑えて心一は言う。
「実はぼく、女の子と一言も話すことができないんだ」
「は?」
いつも落ち着いている明彦が、口を開けて驚愕の表情を浮かべる。
「ジョークですか?」
「ははは、ジョークだったらどんなに良かったか」
「そう言われてみれば、碓氷さんが花園さんと話しているところ、見たことがありませんね」
「だって、喋りたくても喋れないからね」
「愛のハイハイはどうやって喋ったんですか?」
「神様が力をくれたんだ」
「神様の力でもあれしか言えないんですね……」
「面目ない」
心一は頭を下げる。
「でも、霧宮さんとは喋っているじゃないですか」
「そうなんだよ。何故か凛とだけは話ができるんだ」
「女の子と会話できているじゃないですか」
「アレ、女の子って感じかな? どっちかというと、宇宙人って感じじゃない?」
「あー……」
納得する明彦。心一も腕組みをして高笑いをする彼女を思い浮かべて、噛みしめるようにうんうんと頷く。
「とりあえず、たい焼きだけでもおごってあげたいんだ。花園先輩、それを楽しみにここに来てくれたからね」
「分かりました。言ってあげましょう」
「助かるよ」
明彦と心一は、香織の前へ戻る。香織は無表情で天井を見つめている。
「花園さん、碓氷さんがたい焼きの代金を支払いたいそうですよ」
目の前にいるのに、言葉が出てこない。心一はどうしようもなく、彼女を見つめることしかできない。
「お~、ありがと~」
香織がジェスチャーでPPCを操作する。彼女の財布を模したARオブジェクトをプライベートからパブリックに公開しようとしているのだ。薄い水色の長財布が、心一の目の前で電子音と共に出現した。
「ちょうだーい」
「あ……」
心一が出現したオブジェクトに指を重ねると、メニューが表示される。許可されているのは入金のアイコンだけだ。心一はそれを二回素早く叩いて、金額を入力しようとする。心一の指が動きを止めたのを見て、香織が手を動かす。表示されたのはたい焼きの購入履歴だ。金額は一二〇〇円。一個一二〇円のたい焼きが、一〇個でお値段なんと一二〇〇円。
花園先輩を見る。どこにもたい焼きを隠し持っているような膨らみはない。胸の膨らみの中に、たい焼きだったものは収められているかもしれない。花園先輩、食べ過ぎです。
心一は金額を入力して、入金を押す。心一の視界の隅からお金を模したオブジェクトが飛び出して、彼女の財布に吸い込まれた。
「ありがとう」
香織が無表情で礼を述べる。彼女の目と心一の目が合う。青い瞳は、無限に続く宇宙を、底の見えない海を思わせる。そこからは何も読み取ることはできない。心一の理解を超えた神秘的な輝きは、理解を許さず、ただ彼に感動だけを許す。
「あっ……あっ……」
幸せだ。今なら天に召されても良いかもしれない。
「空腹」
香織がお腹をさすって、自身がまだ満足していないことをアピールする。
「そういえば、もうお昼過ぎですね」
明彦が自身の手首を見て言う。心一も視線ポインタを使い時計を見ると、昼の二時を過ぎていた。試験が正午をまたいで行われたせいだ。要らぬ心配で体力を使った心一も、腹が減っていることに気付く。
そうだ。このまま花園先輩と昼食を食べよう。そうと決まればと心一は香織に声をかける。
「ああ……あっ……」
「何?」
「あっ……あ」
香織は首をかしげる。彼女の動きに合わせて、肩にかかった銀の髪がサラサラと動く。
花園先輩が可愛すぎて言葉を失っているんです、とは言えない。喉は音階だけを変更する機能しかついていないし、そもそも心一は女の子なら誰でも言葉を失う。
「せっかく家から出たので、この後食事でもどうでしょうか」
明彦が横から助け船を出してくれた。心一は小さく親指を立てる。やはり持つべきは友達だ。
「碓氷さんのおごりで」
「え⁈」
突然の裏切り。そもそも最初から味方じゃなかったのかもしれない。
「タダ飯」
香織の目が光ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「そうです、タダ飯です」
「行く」
香織が立ち上がる。二の腕を脇にピタリとつけ、肘から先を持ち上げて、両腕で喜びを露わにする。心一に拒否する隙も、そもそも拒否する理由も見当たらない。明彦の方を見て、明彦に言う。
「それじゃあ行こう」
香織が先陣を切って、自動ドアを抜けた。数歩歩いて、振り返ってこちらを見る。
「早く行こ」
ああ、幸せだな。
心一は香織を追って、春の風が吹くネハンの街へと繰り出した。高層ビルが心一たちを取り囲むように、高く高くそびえていた。
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