定理3-5

「花園先輩!」


 大声で叫ぶ。足はガクガクと震え出し、膝に手をついて肩で呼吸をする。見つめる白い床には大量の汗の滴が落ちた。


「何?」


 優しくくぐもった声がする。まるで何かを口に含んでいるような。心一が顔を上げると、香織が心一を上から見下ろしていた。口からは魚の尾のようなものがはみ出ている。


 ああ、遅かったか!


「花園先輩! なんてことを! 病院へ行かないと。熱帯魚って食べても大丈夫なのかな……それ吐き出しちゃいましょう! ってああ! 全部食べてる!」


 心一は音声を使ってPPCの緊急連絡のコールを行おうとする。


「エマージェンシーコー……」

「待て」


 白い指先が、心一の口に当てられる。心一が黙ると、彼女との接触は終わる。乾いた唇を舌で舐めると、甘い味がした。心一も食べたことのある、あんこの味だった。


「たい焼き」

「え?」

「おごり」


 香織が心一を指さす。彼女からほのかに、甘い豆の匂いと、香ばしい焼かれた生地の匂いが漂っている。

 香織は懐から取り出したのは、たい焼きだった。魚の形に焼かれたお菓子は、出来立てなのかまだ湯気が出ている。


 花園香織が食べていたのは、魚は魚でも、お菓子の魚だったのだ。そういえば凛が何か言っていた気がする。香織は心一におごられるつもりでお菓子を買ったのだ。


「よ、良かった~」


 心一は骨が蝋でできていて、あまりの熱で溶けだしたみたいに、ヘナヘナとその場に座り込んだ。水槽の方を見ると、作業服を着た大人が、水槽の掃除をしていた。魚は別の容器に移されて、何事もなかったように水の中を漂っている。魚を取り出す時にARの投影をオフにしていなかったのだろう。花園香織の仕業ではないと分かって、心の底から出た息を吐く。


「食べる?」

「いや、結構です……」


 全力で走ったせいで、胃がひっくり返りそうだ。心一はとても今何かを食べる気分ではなかった。香織はn個目のたい焼きを口に頬張る。

「おいしい」

 心一はたい焼きになりたいと思った。骨の隅々まで彼女に食べられ、消化液で溶かされながら彼女の栄養になるのは、悪くないように思える。主に胸の栄養になれたらいいなとも思う。


 そういえば、ぼくは今花園先輩と喋っているのではないか。


 心一は意識してしまった。危機が去って、そもそも危機なんてなくて、ヒーローになれなかった心一は途端に彼女に向かってどうやって言葉を発したかを思い出せない。言葉は心一の内に引きこもって、喉から外には出ようとしない。


「あっ……あっ……あっ」


 心一は水槽の中にいる魚みたいに口をパクパクさせて、会話を試みるも、無駄のようだ。香織はロビーのベンチに座って、たい焼きをモグモグと、黙々と食べている。


「碓氷さん、随分と早かったんですね」


 エレベータから、明彦が姿を現した。


「森山くん! どう? 行けそう?」

「分かりません。試験というよりは適正検査みたいなものでしょうし、どういう要素を評価しているのかが不明なんです。一つの質問にかける時間を計測している場合もありますし、試験の態度を見られているかもしれません」

 明彦が眼鏡をクイッと指の腹で持ち上げる。

「そうか。ぼくはダメだったよ」

「試験会場を走り回っていましたよね。何かあったんですか?」

 心一は明彦に心一の取り越し苦労を説明した。明彦はそれを聞いて、声を上げて笑う。

「そんなに笑わなくてもいいじゃん」

「すいません。でもいくら花園さんが食いしん坊とはいえ、水槽の魚を食べようとは思わないでしょう。ははは」

 それはそうなんだけど。天使に下界の常識が通用するかと問われれば、心一は答えを迷う。そして彼女は天使だ。天使じゃなくても少し人と変わっている。特にお菓子に対する意欲は尋常じゃないのだ。お菓子を求めて天使が下界に下りてきたと言われても、心一は信じるだろう。

「まあでも、分からなくもないです。花園さんは確かに変わり者ですからね」

 明彦が言う。

「そういうところも含めて、彼女が学園で人気なんですから」


 そういえば明彦は、部室で花園香織の自己紹介で鼻の下を伸ばしていた気がする。良い機会だ。彼が敵か味方か、ここでハッキリ見極めるのも良いだろう。


「森山くんも花園先輩が好きなの?」

「いきなりですね。可愛いとは思いますけど、好きではないです。私は彼女より完璧な存在に、恋をしているんです」

 彼女より完璧な存在がいるというのか。心一には信じられない話だ。

「霧宮さんが集めた人たちはみんなどこか人とズレています。花園さんを可愛いとは思っても、好きだという人はいないと思いますよ」

「へ、へえ。そうなんだあ」

「碓氷さん、頬が緩んでますよ」

「え、そそそんなことないよ。森山くん、これからもよろしくな」

「何か急に気持ち悪いですね」

 口ではそう言いながらも、明彦は心一が差し出した手を握り返してくれた。


「ぼくもみんなも、できる限りのことは協力しますよ」

「へ? 何のこと?」


「それは碓氷さんが一番よく分かってるんじゃないでしょうか」

 想像はつくが、想像がつかない。明彦が言っているのは、心一の告白のサポートの話だろう。しかし、何故彼がこのことを知っているのかが分からない。この話は心一と、凛の間に交わされた秘密の取引だったはずだ。まさか心一の四つん這いの叫び声の真意を、見抜いた人間が他にもいたということなのだろうか。


「霧宮さんが私だけじゃ限界があるからと言って、恋愛技術部の男子メンバー全員に協力を仰いでましたよ」

 いつの間にか協力者が増えていた。霧宮凛、後で一発殴ってやろうと心一は密かに決意する。

「まあ、結果は見えていますが(笑)」

「本当に協力する気あるの⁈」

「面白くなりそうですね」

「面白くしようとしてるよね⁈ 恋を故意にしようとしてるよね⁈」


 心一が明彦に踊らされていると、視界の隅にメッセージ受信の通知が表示された。ライセンスの取得についての結果発表だ。そうだった。心一はすっかり目的を忘れていた。通知に手を素早く二度触れる。ジェスチャーを感知したPPCが、中身を表示した。

「碓氷心一様。ライセンスを配布いたしますので、改めて窓口までお越しください」

 予想と違う内容に、心一は驚く。まさかの合格だ。面接をバックレたといっても過言ではない心一が、だ。嬉しいというよりは安堵の気持ちが強い。心一は胸をなでおろす。

「凛に怒られなくてすんだ……」

「私も大丈夫でした。早速窓口に向かいましょう」


 ロビーに香織を置いて、心一たちはエレベーターで再び窓口へ向かう。

エレベーターに乗った心一は気付いた。階段よりも、エレベーターの方が圧倒的に早いことに。背中を濡らした汗が蒸発を既に始めていて、心一は背中にひんやりとした寒気を感じた。


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