定理3-4

 入り口を抜けると中には十数人程の先客がいて、まばらに席についていた。四人掛けの長くて白いテーブルがズラリと並べられている。みんなホロウをつけていて、心一と明彦の二人だけがホロウをつけていなかった。男女比率は半々だろうか。少し男子の方が多いかもしれない。


「意外に人がいるんだな……」

「そうですね。ネハンの中でこれだけ集まれば十分かと」


 心一は驚いた。ライセンスを取得するということは、つまり現実での出会いを求めているということになる。ホロウをつけたまま現実で会話することと、電子の海の中で会話をすることは、あまり大差ないように感じる。なぜ彼らはライセンスを取得したいのだろうか。

 仮想の袋を被って窒息しそうになっている人間がいると、凛は言っていた。みんな求めているのだろうか。自分に手を差し伸べてくれる存在を。それともそれはただの妄想で、英雄願望で、ぼくたちがやろうとしていることは誰にも望まれていないんじゃないかという気もする。

 でももし、たった一人でもそんな人がいるなら、救いの手を差し伸べたいと心一は思う。


 突然アラームが鳴った。手元に現れるのは紙を模したARオブジェクトだ。

「それでは時間になりましたので、試験を開始します。お手元にポップした解答用オブジェクトをご覧ください」

 心一の耳元で、多分みんなの耳元で、エコーのかかった電子音声が告げる。

「解答時間は一時間半です。他の人との会話は禁止されています。いくつかのPPCの機能のアクセス権を、カンニング防止のために制限させて頂いております。試験時間中は使用することはできませんので、ご了承下さい。解答が終了しましたら、自動的に解答用オブジェクトは転送されます。転送がお済みになった方から順に、次の部屋へ移動して下さい。また、解答途中での退室はできません。」


 心一は解答用オブジェクトとやらを見る。指を滑らせスクロールすると、質問文がずらりと、三百ほど並んでいる。「はい」と「いいえ」の二つの選択肢が、全ての質問に用意されていた。試験というよりはアンケートに近い。

 「はい」と「いいえ」を選ぶ前に、スタンスの二択を考える。正直に答えていくか、ライセンス取得のために良さそうな答えを選ぶかだ。隆人と凛と隼人の顔を思い浮かべて、正直に答えた方が良いのではないかと決める。それでは、解答をしていこう。心一は一番上に表示された質問文に目を通す。


 第一問「あなたは童貞ですか?」 


 いきなりパンチの効いた質問が飛び出してきた。心一はしかし正直に解答すると決めたので、悩むことなどない。その清らかな指先で「はい」を押そうとして、寸前で停止する。それは第二問の上に表示された文字列が偶然目に入ったからだ。そこにはこう記されている。


「第一問で「はい」を選んだ方は第二百九十問の解答へとお進み下さい」


 待て心一。これは孔明の罠だ。解答時間一時間半は、三百の質問を十分にこなせる時間と見ていいだろう。しかし第一問で「はい」を選ぶと、解答する質問がほとんど省略される。解答に十分とかからないだろう。そして解答が終わると席を立ち、次の部屋へと移動することになる。


 これが意味すること。童貞は時間を超越するということ。その存在が周囲に晒されるということ。


 心一は一瞬迷った。もし自分が一番に席を立つことになったら。心一を見る会場のみんなは、何を思うだろうか。少なくとも心一を勇者だ讃えたいは思わないだろう。

 最後の解答に時間をかけてごまかすか。誰かが席を立ったら心一も立ち上がればよい。臆病な心一にはぴったりだ。他のみんなも時間いっぱい立ち上がらない可能性だってある。そうだ、どうとでもなる。誰かに前へならえをすればいい。心一の前にも後ろにも手をピンと前に伸ばす人が続いて、先頭の人間だけが手を腰にあてるか、手を上にあげる。心一は先頭になる自信はない。腰に手を当てて胸を張るのは、きっと凛のような人間が相応しい。


 その時、窓の外を大きな青い影が横切った。ARの魚が、ちょうど部屋のある方のビルの壁面に浮かんでいるのだ。ゆっくり通りすぎていく魚の鱗が、新幹線が駅に停車する程度のスピードで窓の枠の外から中へ、中から外へ現れては消えていく。

 そして、肌色の何かが鱗を覆う。肌色の何かは窓枠の上から現れて、また上へと上っていった。同時に銀に煌めく鱗も姿を消す。


 まさか、そんな。誰かが魚を水槽から取り出したのか。一体誰が。


 心一は一人、水槽の前にしゃがんで魚を眺める人物を思い浮かべる。水槽の中には銀の鱗を持つ魚がいて、水槽の外には銀の髪を持つ天使がいる。銀色の髪は水槽に入って一緒に泳ぐことは叶わず、ただそのガラスに、水面に、姿を映すだけに留まる。彼女の手が、水面に波紋を作る。魚を両手で優しくすくいあげると、そのまま口の中へ……。


 いやいやいや。いくら花園先輩がぼうっとしているからって、魚は食べないでしょう。生で。

 花園先輩は無表情で、完璧で、笑顔も可愛くて、それからいつもお腹を空かせてお菓子を食べていて、お菓子を食べまくっていて、お菓子をたいらげている。


「……」


 これは緊急事態なのではないだろうか。心一は消えた魚がどこへ行ったのかを知る必要がある。できるだけ早く、迅速に。


 窓の外から手元に視線を落とす。花園先輩に危機が迫っているのかもしれない。心一は彼女の元に行くか行かないかの二択に、「はい」と即答する。

 アンケートの第一問、「はい」を力強く押す。途端にテキストが高速で下にスクロールされていく。心一の首に落ちるギロチンのスピードだ。あっという間に二百九十問目、大きな刃は心一の頭の上で静止する。構わずに残りの質問文をサッと読んで、答えを入力する。全ての入力が終わった。解答用オブジェクトが音を立てずに、折り紙のように変形し封筒の形になって飛び上がると、広い部屋の前方に消えていった。

 心一は立ち上がった。誰よりも早く。ギロチンの刃に自ら突っ込んだ。周囲の目なんて気にしていられない。走れ童貞。愛する女の子のために。


 順路と逆の扉には鍵がかかっていて、心一の力では開かない。面接があるであろう部屋に進むしかなさそうだ。

 心一は部屋の前方にある扉に体当たりする勢いで突っ込んだ。扉の先は試験会場よりも小さな部屋だ。椅子が並べられていて、面接の順番を待てるようになっている。

 心一に何かを待っている暇はない。待機室を突っ切り、また扉を開いた。次の部屋はさらに狭い部屋だ。心一の前方に面接官らしき人がいる。テーブルに置かれた資料を見ていたが、心一が入室してきたのを見て顔を上げた。ホロウが作るARの顔は大仏様なのだが、特徴的なパンチパーマのような髪の毛が、三角錐型の一口チョコレート「アフロ」でできている。


「そちらにおかけください」


 面接官の前に一脚、パイプ椅子が置かれている。心一はしかしその言葉に従わない。立ったまま、大仏より高い位置で大仏の顔を見る。


「どうかされましたか?」

「実は、ぼくの先輩が大変なことになっているかもしれないんです」


 正確には、先輩の他に優雅に泳ぐ熱帯魚もピンチだったりする。


「なるほど、急を要するのですね」

「はい。早急にぼくは彼女の元に行って、無事かどうかを確かめたいんです」

「なるほど」

 面接官の手元には、心一の手元から飛んで行った封筒型のオブジェクトが開かれてあった。

「ぼくは適正なしでも不合格でも構いません。だからここを通してください」

「なるほど。それではおかけなさい」

「え? だからぼくは……」

 大仏が微笑む。

「聞こえませんでしたか? 私は”お駆けなさい ”と言ったのですよ」

 大仏はパイプ椅子ではなくて、彼の後ろにある扉を手で示す。

「早く行って、助けてあげなさい」

「ありがとうございます!」

 心一は大仏の横を抜けて、扉へ走る。すれ違い様、大仏が言葉を漏らす。

「青春ですねえ」

 喉の奥から発せられた言葉が、ホロウの機能を停止させる。心一は大仏でなくなった仏のように優しい人の顔を見ることはない。振り返らずに扉を勢いよく開けた。


 エレベーターは一階に止まっている。急げ急げ。心一はあたりを見回し、階段の存在に気付いた。廊下を抜け、階段を駆け下りる。十二階から一階まで猛ダッシュだ。今の時代に階段を利用する者はほとんどいない。心一だけがいる薄暗い階段に、心一の足音が反響し拡散されていく。


 エレベーターと階段のどちらが早いか。二階程度なら階段が早いかもしれない。でも十二階ともなればエレベーターの方が早い。心一はそれを計算しない。計算しようともしなかった。ただ花園香織の元へたどり着くために、立ち止まりたくなかった。心一は馬鹿だった。馬鹿だから使わなくていいエネルギーを消費している。最速のタイムよりも遅い経路を選んだ。馬鹿だから肺が空気を求めて浅い呼吸を繰り返し、足の筋肉が悲鳴をあげている。それでも心一は足を止めない。魚と天使の元へ走った。それが最善だと信じて疑わなかった。永遠に続くと思われた長い階段も、ついに終わりが見えてくる。出口から入り込む光に、心一は飛び込んだ。

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