定理3-3
一階はロビーになっていた。白い天井に白い床。そして水槽だ。壁面を泳ぐ魚はこの水槽の中にいる熱帯魚のようだ。入り口から入って真っすぐ進むと、エレベーターにたどり着く。
「目的地は十二階のようですね」
明彦が自分にしか見えない画面を操作して言う。
「え、じゃあエレベーターに乗るってこと」
「そうなりますね。何か問題が?」
「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ」
明彦が首をかしげる。心一は覚悟を決める。天使と同じ狭い空間に入ることに対しての、気を失わない覚悟だ。強くあれ心一。
エレベーターは一階で停止していたのか、ボタンを押すとすぐ扉が開いた。
明彦が乗り込むと、心一は息を深く吸い、乗り込んだ。
そして、扉が閉まる。
「……あれ? 花園先輩は?」
「彼女なら水槽を眺めていましたよ。ロビーにはイスがありますし、先輩はあそこで待つつもりなのでしょう」
「ホッとしたような、残念なような……」
心一は思いっきり肩を落とす。
「全然ホッとしている風には見えないんですが」
「うう、一緒にエレベーターに乗りたかったよ……」
「そこまで落ち込みますか?」
目に涙を浮かべる心一に、明彦が呆れ顔で言った。
「君も美少女と一緒にエレベーター乗りたいでしょ?」
「そこまで乗りたいとは思ってないですよ」
「そこまでってことは、ちょっとは乗りたいんじゃん」
「メンドクサイ人ですね」
「世の中にはエレベーター以外に合法的に美少女と狭い部屋に入ることなんてないんだよ。覚えておくといいよ」
「は、はあ」
「大人になったら良さが分かるさ」
「あと一年で私も大人になれるんですね」
エレベーターのドアが開く。狭い箱の中から出ると、窓口がズラリと並んでいる広い空間が現れた。それぞれの窓口にはそれぞれの担当の人間がおり、全ての窓口に少なくとも三人以上の列ができている。綺麗にまっすぐ並んだ長さの異なる行列は、何かの統計的真実を見つけようとする棒グラフのようだ。
「ここでライセンスが取得できるのか」
「そうみたいですね」
各々の窓口の天井付近にはテキストのARオブジェクトが浮かんでいる。〇〇課と書かれたテキストの中から、目的のものを探す。
「証明書交付課とかかな」
「何の証明書になるんでしょうか」
「コミュニケーション強者の証明とか」
「ホロウもつけていないのに、ですか?」
「気持ちの問題ってやつだな」
「まあとても大事なことだとは思いますよ。みんな遠くのことしか考えていませんから」
心一たちは窓口を順に見ていく。赤い牛の顔、ミイラみたいな包帯でグルグル巻きの頭部、シャープペンシルを上から見たような顔など、様々な顔ぶれが、カウンターを挟んで会話を繰り広げている。全員物腰は柔らかく、要点をはっきりと伝えていく。
ホロウの出現で、ネハンではクレーマーというのは死語になりつつあった。つまりクレーマーが絶滅危惧種に指定されているということであり、有害種にも指定されているから誰も助けようとしない。クレームを言うぐらいならドリームを見る人間ばかりがネハンにもネハンの外にも大勢いて、ホロウの有無に関係なく頭の中のコンピュータに子守歌を歌ってもらっている。
「あ、あそこのようですね」
明彦が指で示す場所には、「対セイネン期意思疎通許可証交付課」のテキストオブジェクトが浮かんでいた。アルパカの頭部をした男性職員が、一人ポツンと立っているだけで、行列はできていない。それほど知られていないのだろうか。心一たちはアルパカの元へ向かう。
「あの、すいません。ライセンスを取得したいんですけど……」
アルパカが微笑む。
「はい。それでしたらあちらの部屋で試験を行いますので、入り口で登録をして、中にお入り下さい」
アルパカの指がさした方を見ると、手動で開ける扉が見えた。その手前には、自動販売機ぐらいの大きさの機械が設置してある。
アルパカに礼を言うと、心一たちは機械の前に移動した。機械にはディスプレイがついている。水色の背景に浮かぶ文字列。個人情報を登録して下さい。
PPCの視線ポインタを画面に合わせると、三秒のローディング。登録画面が、画面から飛び出すように出現した。心一はPPCの認証を選択する。心一の網膜に、長さも太さもまばらな線が視界を覆うように浮かび上った。機械が心一の網膜に浮かんだコードを読み取り、ものの数秒で登録が完了する。それから表示されたのは、PPCへのアクセスの許可だ。同意を選択すると、「ありがとうございます。部屋でお待ちください」の文字列が表示された。これで手続きは終了のようだ。
PPCは自己を保証する究極の証明だ。PPCを紛失することはまずないだろう。あるとすれば頭が消し飛ばされた時ぐらいか。そうなった人間は自己の証明とは無縁になる。葬式の時には必要なのかなとも思う。首にホロウが残っていればARの顔が残るのかもしれない。あまり愉快な想像ではない。早く部屋に入ろう。
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