童貞は時間を跳躍することが許される

定理3-1

 日曜日が街にやってきた。社畜は今日も電車に乗ったり乗られたりしていることだと思う。心が痛い。嘘だ。全然痛くない。今、心一は最高にハイな気分だ。

 今日はライセンスを取得するために、ネハンにある役場に向かうことになっている。心一は随分と早起きをした。というか、してしまった。花園香織との外出が楽しみすぎて、目が棒でもつっかえているかのようにギンギンに開ききっていた。カーテンを一気に開き、朝の清々しい日光を全身で浴びる。


「最高の朝だな」

「きもっ!」


 振り返ればいつの間にかドアを半開きにして、頭だけを部屋の中に入れてこちらを覗く妹がいた。朝だからか、ツインテールにされるはずの髪の毛が解放されている。


夏鈴かりん、お兄ちゃんと一緒に日光浴としゃれこむか?」

「きっっも! 干からびて死ね!」


 扉の勢いよく閉まる音が、部屋を震わせる。心一の妹、碓氷夏鈴はそのままドタバタと階段を駆け下りていった。


「……」


 妹の当たりが強すぎる。あるいは心一の当たり判定が広すぎる。何を言っても即死するクソ仕様に、心一は難しい年ごろだからしょうがないとため息をつく。

「なあ、お前も酷いと思うよなあ」

 部屋の隅にはケージが置かれていて、中にはあの夜拾った子犬が眠っていた。もちろん返事はない。


 あの夜、帰宅してすぐに病院に連れていったが、どこも悪いところはないという話だった。それからは心一の部屋に寝床を整えてやって、ネハンにある住民相談センターに、飼い主を探しているという旨の掲示をしてもらっている。

 犬種は柴犬だった。薄い茶色の毛から、安直に「マロン」と呼んでいる。マロンはまだ自分のことをマロンとは思っていないだろう。自分の前の名前を覚えていて、その名前を呼べば返事をしてくれるかもしれない。心一はこの犬の本当の名前を知りたかった。できれば真の名前で呼んでやりたいと思う。名前が変わるということは、思い出が失われるということのような気がして。それはとても残酷だ。例え辛い思い出だったとしても、覚えておかなくてはいけないことはある。


 夏鈴は最近、マロンの様子を見に心一の部屋を覗きにやってくる。扉を半開きにして、マロンに声をかける。夏鈴の部屋においてもいいと提案したが、却下された。理由は不明だが、おおかた無防備な兄の部屋にイタズラをするための口実、と予想している。思春期とは人間をこうも変えてしまうのかと、心一は遠い目で窓の外を眺める。外には心一の家と似たような一軒家が横並びに並んでいて、どこまでも延々と続いているみたいだった。


 身支度を済ませ、玄関で座って靴を履く。マロンの世話は、今日は母に頼んである。問題なし。PPCのナビゲーションアプリに待ち合わせ場所を入力していると、後ろから声がかかった。


「お兄ちゃん、どこ行くの?」


 夏鈴がアイスを咥えて、リビングのドアから顔だけを出してこちらを見る。耳の後ろから放物線を描いて垂れるツインテールは、今日も健在だ。口に咥えたアイスは、心一があの夜買ってきたアイスだろう。マロンのことで忙しくて忘れていた。今思い出してももう遅い。アイスは夏鈴の口の中だ。蘇生は不可能。南無阿弥陀仏。

 しかし今日の心一は、妹からの精神攻撃を受け流す余裕があった。


「今日は友達とお出かけなのさ」

「ふーん……」

 妹は考え込んでいるような歯切れの悪い返事をよこす。

「それって、女の子?」

「え⁈ 何で分かったの」

「今日の服、いつもより一段とダサいから。気合い入れてんだろうなあって」

 心一の心にアイスの中心を貫く棒が突き刺さる。

「だ、ダサいかな……」

 心一はチェックのシャツにジーンズという恰好だ。心一が思う最も無難なチョイス。気合いを入れているように見えず、そんなに悪くもないという最強の組み合わせ。これがダサいなら何を着ればいいというのか。

「あたしは、とーってもお兄ちゃんらしくて、良いと思うな(笑)」

「うっ」

 心一のハートに、二本目のアイスの棒が突き刺さる。二人で分け合うように、心一の心はできていない。可能なら心のうちの半分を、花園先輩に捧げたいとは思う。

「それで、今日はデートなの?」

「いや、もう一人男子がいるよ」

「そうなんだ。じゃあ安心だね」

「ん? 何が安心だって?」

「んー、別に」

 妹はリビングに退散していった。心一には、彼女が何をしたかったのか良く分からなかった。


 玄関のドアを開けて外へ出る。ナビゲーションアプリが音声で案内開始を告げる。ARの矢印が、巨大な蛇みたいに道路の上を這っていた。

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