定理2-5
「では、恋愛技術部が何をする部活なのか、説明するわ!」
凛がソファの上に立ち上がると、スプリングが軋む音が鳴り、女の子二人の身体が船に乗っているみたいに揺れた。
「ホロウを望まない人間を、ホロウから解放してあげること。私の目的はただそれだけ」
凛が普段より低い声音で言う。
「そのために私たちがやらなきゃならないのは、ホロウの機能を停止させること。SOSの信号を出している本当の自分を、現実に引っ張り出してくることが必要なの」
凛がニヤリと笑う。嫌な予感を、心一は感じた。
「そこで、私たちはズバリ! ナンパをするわ!」
「ええ⁈ 何で⁈」
ホロウの機能を停止させるためにナンパをする。因果関係が見えてこないが、部の名前の由来は察しがつく。
凛が、職人がかんなで削り出した木くず並みに薄い胸をそらす。
「私にしか思いつけないようなナイスアイデアね」
「説明を求めてもいいのかな?」
「もちろん、説明してあげるわ」
凛は腰を下ろすと、話し出した。
「ホロウに搭載されている人工知能は最新だけど、まだまだ付け入る隙がある。ホロウの運用に当たってLINNE社が想定しているのが、
心一は知らなかった。ホロウに搭載されている人工知能の名前も、そしてそれが一体だけだということも。
「でも、そこに付け入る隙がある。クラーケンはあまりホロウ未着用者との会話に慣れていない。音声の入力を先ず聞いて、選択肢を用意し、意志の決定を受けてから出力。その処理には少しだけ時間が余分にいるし、処理の限界も存在する。まあそれでも健常者との会話なら、一生困らないぐらいのスペックではあるんだけど」
健常者との会話には困らなない。なら、異常者との会話ならどうなるか。跳躍する文脈。共有できない歴史、常識、価値観。
「というかぼくたちが異常者ってこと⁈」
「そうなるわね。もちろん良い意味よ、良い意味」
良い意味というのは万能の免罪符ではない。凛にとって良くても、社会にとっては良くないことがあり、ほとんどの物事はだいたいそういう関係にあったりする。
そもそもホロウを着用していない時点で、心一たちは既にネハンの社会モデルに迎合できていないのではないかという疑問は、努めて考えないようにするのが精神衛生上良い。
「異常者というアンノウンとナンパという特殊なシチュエーション。ホロウは機能を停止する。実際に私たちはそうやって一年やってきたわ」
心一が左右を交互に見る。隆人は自分の筋肉と話をしている。光輝もとい隼人は鏡に映る自分と何やら話し込んでいる。
心一がもし女の子だったら、彼らから逃げ切るのは無理だなと思う。
「対象は女の子だけってこと?」
「そうね。男子は私がふっかけてみてるんだけど、ものすごいスピードで逃げられちゃうのよね……。やっぱり私が可愛すぎて、近くにいるだけでぼ……」
「あーあー! 分かりました! あなたがアホだってことがよく分かりました! はい終わり! 次の話題へ移る!」
「誰がアホですって!」
「……それで、そのSOS信号ってやつはどーやって見分けるんだ?」
心一は凛を無視して強引に話題を変える。凛は不服そうに頬を膨らませていたが、ぽつぽつと話し出した。
「PPCの普及でリアルの関係が希薄になったという話はしたわよね。友達がいないなら、恋人だっているはずがない。十代の若者を対象に調査を行ったところ、恋人のいる人が一割を切った。一割の選ばれし者の中でネット恋愛が九割、リアル恋愛はさらに一割を割ったわ。ネットでは素晴らしい恋人も、現実ではそうでもないことが多い。ネット恋愛が現実に発展するのはレアケースで、これも一割を割った。つまり少子化が加速したわけ」
心一は今朝の中庭の様子を思い出す。並んだベンチにきっちり一人ずつ座る人たち。PPCを通してしか人と繋がれない人たち。ホロウを使う方が効率的だと考えた人たち。恋愛は非効率的で、己の深くに介入される危険をはらむ。今の時代ではなかなか難しい行為だ。
「政府はとりあえず少子化を防ぐための策を講じているけれど、どれも結婚後のサポートばかりで、若者はそのレベルにすらたどり着いていない人がほとんど。的外れも良いところだわ。そこで最近政府が若者の恋愛を推奨するために打ち出したのが、これ」
凛が懐から取り出したのは、黒い板だ。カードと呼ぶには少し大きくて、手帳サイズと呼ぶには少し小さいそれは、特筆すべき模様も凹凸もないただの黒い板にしか見えない。
「これが政府の考えた秘策、
凛がライセンス上で指を滑らせると、板の上にARのオブジェクトが出現した。一昔前のスマートデバイスのホーム画面のように、等間隔にアプリのようなメニューアイコンが浮かんでいる。
「これが政府の秘策?」
「そうよ。PPCがあるのにわざわざアナログな物質を持たせているのが面白いとこね。ここを押すと……」
凛が「マップ」と書かれたアイコンに指で触れる。板の上で展開されていたアイコンが吸い込まれるように消え、新たな画面がARオブジェクトとして現れる。この周辺の地図のようだ。中心にある青い円が、現在地だろう。他にもいくつかの黄色い円が、周囲に点在している。
「この黄色い円が、ライセンスを起動して検索を許可している人間の位置になるわ」
「ここに行けば、その人に会えるのか?」
「ええそうよ。ライセンスを持つ者同士がコミュニケーションを取ることができる。ホロウとPPCが現実で仮想的なコミュニケーションを実現するものなら、ライセンスは仮想的な世界のなかで現実の出会いを実現しようとするツールになるわ」
心一が生まれる前、インターネットにあるサイトに登録して、現実で恋愛をしようと試みるサイトがあったような気がする。心一の思考を読んだように、凛が言う。
「ぶっちゃけ、政府公認の出会い系サイトよ。サクラなしの」
「あ、やっぱり」
日本、始まったな。始まったというか、終わりかけているというか。こんな部活動が認められるくらいには、深刻な状況なんだろうと心一は思う。
「ライセンスの所有は十八歳までしか認められていないから、高校生までしか所有できないし、試験と面接を突破しないといけないの。今週の土曜か日曜に、明彦と心一に受けてきてほしいんだけど」
「え、試験と面接があるの⁈」
心一も明彦も、ホロウをしていない。心一は女性が試験管だと言葉を発することすらできないのではないだろうか。
「ぼくには無理な気が……」
「かおりん、あなた付き添いで行ってあげてくれない? 心一がお菓子をおごってくれるそうよ」
花園香織はお菓子の三文字に反応して頷く。
「行く」
「試験と面接なんて楽勝です。瞬殺です。圧勝です」
明彦がいるとはいえ、花園先輩と一緒に外出できるとは。心一は心の中でガッツポーズをする。試験と面接なんてちょろいちょろい。心一が左右を見ると、隆人は床の上で筋トレをしているし、隼人はハンサムな体勢で本を読んでいる。この二人に取得できて、心一が失敗するなんて可能性は、まずないだろう。
「明彦も、それでいい?」
「構いませんよ。いざとなったらホロウを使いますので」
「あ、ずるいぞ」
「便利な物があるのに利用しない手はありません。みんな極端にすぎるんですよ。ほどほどに使う分には文明の利器です」
「ぐぬぬ……でもぼくは、ホロウを使わない」
本当の自分で、まっすぐぶつかる。それこそが心一が人生で唯一守りたい約束事だった。
「じゃあそういうことでよろしく。それじゃあ今日のところはお開きにしましょう!」
心一が部室を出ると、窓の外から運動部の音が聞こえてきた。金属バッドがボールを打つ音。サッカーボールを要求する人の声。綺麗に揃った走り込みの掛け声。運動部があるのは、実体のある高校ならではだ。ホロウを装着すれば、技だけに集中できる。ボールを蹴ること。打つこと。投げること。面倒な人間関係は、全部ホロウが処理してくれる。チームとのコミュニケーションも含めてこそのスポーツだと、心一は思う。みんなはそう思わない。
心一が中学に入ったばかりの頃、まだホロウはなかった。実際に校舎のある学校で心一は、事務的とはいえ会話を何度かしたことがある。ホロウがない時、みんな何かに怯えるような顔で話をしていた。声は小さく、上の空の返事。目線は自分にしか見えないデータを追う。笑いどころではないところで起きる不気味な笑い。心一は好きではなかったが、嫌いでもなかった。何者になろうとして、実際に何者でもない彼らの真実の姿。ゲームに夢中になる子供みたいな純粋さすら感じた。それでもやっぱり、心一に対して、彼ら自身に対して、真摯に向き合ってほしいと思った。
ホロウがやってきた最初の頃、学校は活気に溢れた。みんな積極的にクラスの人間と会話をし始めたのだ。天気、政治、スポーツ、ゲーム、テレビ。みんな自分の意見を持ちすぎるぐらい持っていた。カバが、蜂が、アメリカの国旗が、絵具をぶちまけたような模様が、流暢に会話をした。興味はホロウと会話そのものにあった。技術の新鮮さが彼らにそうさせた。
でもだんだだんと飽きがきて、ほんの三日ぐらいで、彼らはまた自分の世界に戻っていった。ホロウの会話とオンラインの会話は平行して行われるようになり、リソースを確保したまま面倒な会話ができる分、彼らはより一層自分の世界に深く潜っていった。現実での会話はまたも最低限の頻度になったが、クオリティは最高のレベルを保った。心一に全く興味を向けない人間と、楽しいお喋り。心一にはそれがどんなホラー映画よりも不気味な怖さを感じさせた。
ホロウは間違っている。心一は絶対に首輪をしないと誓った。自分で自分の首をしめるわけにはいかないのだった。
チュウネンを選んだのは、この高校を選択する人間はホロウを装着しないのでは、という淡い期待からだ。
入学式でその望みはついえてしまったけど。九割以上の人間が、ホロウを着用していた。
そりゃ、分かってはいたんだけど。
心一は自分の声で、校歌を歌った。自分だけ息継ぎの場所が違っていて、体育館にいるのは一つの大きな口だと言わんばかりに、息を吸わずに息継ぎをする大きな音が、寸分のズレもなく響き渡った。
部室からは心一の後に続いてホロウをつけていない人間がぞろぞろと出てきた。ホロウなんかじゃ再現できない個性。心一がこの高校で欲しいと思っていた、最高の仲間になるかもしれない人たちだ。
凛が心一の隣にやってくる。
「どう? やっていけそう?」
窓から夕陽が差し込む。夕陽は視界をオレンジ色に染める。暖かな色に染める。
「うん。凛が思っている以上にぼくはダメな人間だけど、頑張ってみるよ」
「やる気があるみたいで良かったわ。かおりんのこと、感謝してもいいのよ?」
凛が大根のかつらむきみたいに薄い胸をはる。
「ありがとう。本当にありがとう」
「ふふーん」
満足気な顔で、凛は心一の背中を力強く叩くと、二年生の靴箱がある、心一とは反対の方の階段に向かって歩いていく。
「あ、そういえば一つ言ってなかったわ」
凛が立ち止まって、クルリと身を翻して心一と向き合う。
「私たちは、ホロウ着用者のことを
凛が笑う。
「
首なしの騎士か。自分は別に騎士って感じではない。鎧の重さで立つこともできないような貧弱さだ。立とうとはするだろうけど。心一にはそれが精一杯だ。
一瞬、花園香織が振り向いたような気がした。凛と心一の方を。心一が天使にピントを合わせようとした時には、彼女は既に橙に染まる廊下から消えていた。
せめて、彼女を守れる騎士にはなりたいなと思う。
真っ赤な丸い夕暮れが、窓の外で沈んでいく。頭を切り落とされた首の断面を見ると、こんな感じなのかなと心一は思う。赤くて、熱くて、鉄の匂いがするだろう。ホロウをつけていてもいなくても、人間の中身は変わらないのだ。
心一は一人、階段を駆け下りた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます