定理2-3

 「ここよ」

 校舎の最上階は、文化部の部室となっているはずの空き教室が並んでいる。活動している部屋もあるにはあるが、数はそこまで多くない。PPCは部活動を絶滅危惧種においやった。顔を突き合わせての活動は自分の弱さが露呈しやすいと思う若者が大勢いて、大きな流れができた。その流れに部活動という建物はほとんど流されてしまった。そこにホロウがやってきて、ちらほらとまた部活動が復活し始めた。アバターの自分なら、大丈夫だ。そんな自信が彼らに協力的な集団活動を可能にする自信を与えたのだ。


 凛が立ち止まった扉には、「恋愛技術部」と書かれた張り紙がすりガラスに貼られている。

「恋愛技術部?」

「そうよ。良い名前でしょ」

「いや、想像と百八十度違う名前なんだが……」

 なんだ、恋愛技術部って。何をする部活なんだ。心一は凛に何を期待されているのか、全く分からなくなって、部室への入室をためらう。

「ぼくはどうしてこんなヘンテコな名前の部活動の、ヘンテコな女の子と一緒にここにいるんだ……?」

「人生ってそんなものよ。さあ入りましょう」

 凛に人生の何が分かるというのか。心一は横開きの扉の取っ手に手をかけると、ゆっくりと扉を開けていく。

「別に何も飛び出してこないわよ」


 突然、心一は扉にもう一つかかる力を感じた。その力は心一と同じ方向にかかって、扉が大きな音をたてて一瞬で全開になる。

 心一の目の前に大きな男が現れた。学生服の上からでも分かる膨大な量の筋肉が、彼を学生の縛りから解き放とうとしているようだ。でも顔は年相応に若く、心一の年と大差ないことが伺える。どうやら、彼が扉の向こうから扉を開けたらしい。

「な、何も飛び出さないって言ったよね?」

 凛はそっぽを向いて、わざとかわざとじゃないのか、ろくに音の出ない口笛を吹いている。


 心一の前の筋肉の塊が、心一を上から見下ろす。

「あ、お前は朝の騒ぎの奴だな? なかなか心に鍛えた筋肉を持っているじゃねえか」

 二回ほど声変わりを経験してそうな太い声が、筋肉から発せられた。心は筋肉でできていたのか。心一は学会を揺るがす新説に、苦笑いを浮かべる。

「お、大将も一緒か。ささ、入って入って」

「し、失礼しまぁす」

「早く入りなさいよ」

 恐る恐る声を出す心一は、背中にかかった力で転ぶように扉の境界を越えた。凛が背中を蹴ったのか、彼女の足が随分と高い位置にある。


 床から起き上がった心一の顔に、誰かの顔が近づいた。

「大丈夫?」

 鼻孔をくすぐる甘い匂い。銀色の髪。間近に迫る青い瞳。

「あっ……あっ……」

 心一はまたしても言葉を失った。思考もついでに失う。身体を支える力までも失って、へなへなと床に座りこむ。


 花園香織が目の前にいて、心一の瞳を覗き込んでいる。何も見つからなかったのか、それとも心一に何事もなかったからか。彼女はすぐに立ち上がると、壁際に設置してある大きなソファにストンと腰を下ろして、お菓子を食べだした。心一のことはもう興味の範囲外らしく、遠くを見るような目で、相変わらずの無表情で、マカロンを頬張っている。マカロンは既に半分ほど肉体を失っており、心一にはそれが何か近未来の楽器に見えてきた。

 ああ、美しい音色だ。心一が何を聞いたのか知らないが、少なくともこの部室内で美しい音を出すようなものは一つも存在していなかった。デスクトップ型のコンピュータが熱を逃がすためにファンを回す音だけが、うるさく鳴っていた。


 心一は我に返ると、ロケットの打ち上げみたいにスッと立ち上がった。凛の手をひいて、部室の入り口から外へ出る。


「失礼しました」

 勢いよく扉を閉めた。凛をおすようにして、部室から十分な距離をとる。階段の踊り場までくると、周囲に人がいないのを確認して、怒鳴った。


「何で花園先輩がいるんだよ⁈」

 凛が小指で耳を塞いで、顔をしかめる。

「うるさいわねえ」

「うるさい、じゃない! 明らかに説明不足でしょうが!」

「あれ、言ってなかったっけ? てへぺろ、ごめんちゃい」

 急に声を高くして、胸の前で合掌をしながら、凛が全く謝罪する気のない謝罪をする。

「もうお終いだ。大天使花園先輩の前で二度も失態を晒してしまった」

 心一は膝から崩れ落ちた。凛が心一の背中に声をかける。

「大天使とか普通に気持ち悪いな……。あ~、元気だしなさいよ。ほら、あれよ。え~っとあれあれ、二度あることは三度ある!」

 どうやら心一はもう一度失態を見せることになるらしい。

「あれ、違うなあ……仏の顔も三度まで!」

 花園先輩はあと一回しか許してくれないらしい。

「まあでもほら、何にせようちの部にかおりんは所属しているわけだし、部活動で二人の距離は急接近しちゃうってわけよ! 私って天才ね」

 ガッツポーズをする凛。心一は凛を信じて大丈夫なのか、だんだんと不安になってきていた。そもそも心一は最初から凛をあてにしていたのだろうか。今となっては良く分からない。


「霧宮さん、失礼ですけど恋愛経験はいかほど積まれてるんでしょうか……?」

 凛が待ってましたとばかりに、漫画の単行本より薄い胸をはる。


「聞いて驚きなさい。ゼロよ!」


「本日はお疲れ様でした。足もとにお気をつけてお帰りください。お荷物は……」

「アトラクション出る時のアナウンスをしない!」

 心一が階段を降りようとすると、凛が心一の首を両腕でしめあげる。学校の階段をおりようとして天国へ続く階段を上りそうになったので、心一は仕方なく踊り場へと身を戻す。


「ほら、早く部室に戻るわよ」

 心一はフラフラと、バルーンアートの犬みたいにフワフワと揺れながら、彼女に手を引かれて部室へと戻る。

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