定理2-2

 心一が目を覚ますと、あたりは静寂に包まれていた。時折、遠くから椅子が木の床をこする音が聞こえる。授業中だろうか。今は何時だ。


 心一の目線が、視界の隅に表示された緑の丸いアイコンを見つめる。三秒ほどで、視線を感知して動くポインタが現れた。心一は腕を持ち上げ、手首にポインタを合わせる。三秒きっかりで、仮想の腕時計の文字盤が軽快な電子音と共に出現した。時計の針は、四時を示している。もう放課後だ。長い間、意識を失っていたようだ。

 心一は両目を閉じ、心一だけの暗闇を作る。きっかり三秒。目を開けると、ポインタと腕時計は消えていた。視界の隅では緑の小さなアイコンが、心一の脳内のコンピュータが正常に機能していることを知らせている。

 PPCは目線を感知してカーソルを動かす。一瞬でも目線が合って、ARオブジェクトがところかまわず出現していては、現実は視界から消えてしまう。そこで、三秒ルールだ。三秒見つめると、ポインタを囲むようにローディングのパラメータがぐるりと円を描いて溜まり、命令を実行する。これにより無駄なオブジェクトが視界に現れることなく、視線のみで操作を行うことが可能になる。視線、音声、ジェスチャー。PPCを操作するのに有効な入力だ。導入して間もないころは、一人で目を回し奇妙な踊りを行う者が街に大勢現れて、なかなか面白いことになっていたらしい。


 上体を起こして周囲を見る。心一が寝ていたのはベッドの上だ。水色のカーテンに囲まれて外の様子は分からないが、多分ここは保健室だろう。

 靴を履いて、カーテンをゆっくり開く。

「あの~」

 心一の声に応える者はない。救急箱やら体温計やらがしまわれた棚だけが、心一を出迎えた。


 勝手に出ていっていいものか。心一が悩んでいると、足元から声がした。

「目が覚めたのね」

「うわっ!」

 想定外の状況に心一の身体が一瞬宙に浮いた。ベッドの下を確認すると、仰向けで寝転がる霧宮凛の姿が心一の目に飛び込んできた。

「何してるんですか」

「敬語はダメって言ったじゃない。あなたが起きるまで看病させてほしいって言ったら、授業に出ろと保健室を追い出されちゃったのよ。だから先生がいない間に忍び込んで、ベッドの下に隠れて見守っていたってわけ。」

「アホなんだな」

「私の祈りがあなたの覚醒を早めたのよ。感謝してよね」

 放課後まで目覚めなかったのはこの祈祷師のせいなのではないかと、心一は思うだけにしておく。代わりに感謝の言葉を言うことにした。

「凛の胸が平らなおかげで、ベッドの上からありがたい祈りを聞くことができたよ。ありがとう」

「呪いの言葉をはいておけばよかったかしら」

 心一は凛の身体をベッドの下から引っ張り出した。彼女は立ち上がると制服を手で払ったので、ホコリが大量に舞った。心一はむせる。

「大丈夫?」

「また頭が痛くなりそうだよ」

「軽口を叩けるのなら大丈夫ね。さあ、行くわよ。」

「え、行くってどこへ?」

「部室よ、部室」

 部室とは、心一の知る限り一つの意味しか持たない。凛の活動は、部活動として認められているということだろうか。

「ついてきなさい」

 凛は心一の手をとると、駆け出した。心一も彼女のスピードに合わせて駆け出す。シューズのゴム底が、廊下をこする音が響き渡った。凛の音と心一の音が重なって、骨伝導ではない誰の耳にも聞こえる音が、学び舎を駆け抜けていった。


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