顔なしの人々と首なしの騎士

定理2-1

 「鼻血出てるわよ」


 女の子が、心一の鼻を花柄のハンカチで拭った。原因を取り除かなければ事故は起こり続けるというのが世の理で、拭われた心一の鼻からは新たな鼻血がすぐに流れだしていた。


「鼻血とまんないんだけど」

「あっ……あっ……」


 パンツが見えていますよと言いたい心一の口から洩れるのは、言葉にならなず意味を持たない母音一音だけだった。


 早く女の子に下着が見えていることを伝えなくては。心一の焦りと反面、視線は白い布に固定されたまま動こうとしない。視線にてこの原理は通用せず、だから多分心一はてこでも動かないのだろうと思う。男はてこじゃなくエロで動いていたりする。

「はは~ん、なるほどね」

 女の子は何かを理解したらしい。宇宙の真理にでも到達したのだろうか。それは大変喜ばしいことだ。

 女の子は差し出していた右手でピースを作った。心一の視界の隅にわざとらしく右手をちらつかせる。


 強烈な痛みと共に心一の視界が暗転した。

「ああああああああああああ!」

「正直者ね。正直なのは良いことよ。でも、自分がやったことに対する報いを受ける覚悟がないとダメ。行動と責任は仲の良い大親友なの。いつも一緒にいる」


 指を目に突っ込まれたのか。理解よりも早く身体が反応する。心一は固い地面を転げ回った。手加減されていたのだろう。しばらくすると痛みが引いて、視界が戻ってきた。

 女の子は、自信満々な顔で心一を見下ろしていた。小動物のような可愛さをたたえた整った顔に対して、丸い瞳は挑戦的な光を宿している。心一はその瞳に、底に穴の開いたバケツに水を注ぎこむような、終わりのない渇望を見た気がした。ホロウが何百年かけても作り出せないような、生の活力が、彼女の笑顔からは伝わってくる。

 心一の直感を裏付けるように、快活な女子特有の肩まで伸ばして切りそろえられた黒い髪が、風に揺れる。そう、髪の長さが重要なのだ。肩より下に髪の伸びていない女の子は要注意だ。その子が最後に見る女の子になる可能性が極めて高い。心一は奇跡的に助かったが。


「君は……?」


 心一が言う。待て。今ぼくは言葉を喋ったのか。この女の子に向かって。何の葛藤もなく、妹と話す時みたいに言葉が口から零れ落ちた。花園香織の前ではどんなに話したくても話せなかったのに。

 今心一は、可愛い女の子と普通に喋っている! 「あ」以外の言葉が意味を持って発せられている!

「名前を言えばいい? でも名前を言っただけじゃ何も進まない気もするわ。だってあなたは私の名前から何の情報も得られないもの」

「そうだね。君は宇宙人か何か? 少なくとも人間の女の子ではなさそうなんだけど」

「私、ラブ&ピースが好きなのよね」

 彼女の人差し指と中指が、針のように真っすぐ伸びた。口元には引きつった笑いを浮かべている。ラブ&ピースというよりはラフ&ディースだ。暴力と戦乙女ラフ&ディース。心一はどちらも好きではない。


 しかし、彼女が人間の女の子だって言うなら、ぼくはどうしてこの子と文化的な会話ができるのだろうか。心一が熾烈を極めた戦いの中で進化したのか。それともこの女の子が特別なのか。


「どうしてぼくは君と会話ができるんだろう」

「それは私があまりにも魅力的な女の子だからでしょ」

 彼女が全体的に薄い身体をくねらせてみたりする。

「風で飛ばされないでくれよ」

「誰がペラペラの紙胸部だって?」

「君は心が読めるのか⁈」

「そうね、お経なら一通り詠めるわよ」

「調子に乗ってすいませんでした」

 彼女が鼻を鳴らす。彼女がお経を詠まなくて助かった。多分そうなったら、この場に誰かの弔うべき死体が用意されていただろう。そしてそれは間違いなく心一の死体になるはずだ。

「私は霧宮凛きりみやりりよ。よろしく」

「碓氷心一です。よろしくお願いします」

 彼女が差し出した手を握って、心一はやっと起き上がる。彼女の手は柔らかくて小さくて、心一がちょっと力を入れるだけで潰れてしまいそうだった。役目を終える少し前のカイロみたいに、ほのかに温かかった。立ってみると、凛の身長は心一よりも小さいことが分かった。彼女は上目遣いで心一の目を見る。あまりの鋭さに心一は思わず視線を逸らしてしまった。


「どうして急に敬語になったの? さっきみたいに砕けた感じで行きましょう」

「あなたが先輩だと気づいたからです。ちょっと急用を思い出してしまったのでこの場を離脱してもよろしいでしょうか」

「授業中に用事なんて、随分と大事なことなのね。理由を聞いてもいい?」

「家族が倒れてしまって付き添いに……」

 嘘は言っていない。心一は現にさっきまで倒れていたし、だんだんと悪い予感が雨雲が育つようにモクモクと大きくなっている。


 そう。今は授業中なのだ。心一は図らずもサボることになってしまった一校時目の授業を、彼女もサボっている。心一は根は真面目で、真っすぐな熱血ボーイだと自負しているが、凛は間違いなく不良だ。サボったことに対する良心の呵責が微塵も感じられない態度。絶対に初犯ではない。


 もっと早く気付くべきだった。心一が大天使花園香織の情報を集めているときに、彼女を知る度に比較に出された名前があった。名前は霧宮凛。今心一の目の前にいる女の子その人だ。

 私立中央ネハン高校には、性質の相反する二人の美しい少女が在籍している。天使と悪魔、あるいは太陽と月。二人の美少女は昨年入学した二年生で、心一の一つ上の学年だ。彼女たちの知らない水面下では、ファンクラブまで設立されていたりいなかったりとか。

 花園香織はいつも無口で無表情。その可愛さから周囲が彼女にお菓子を与えることがあり、いつも中庭で間食をしている。間食で得た余分な栄養は全て胸部へ蓄えられているとまことしやかに囁かれている。

 霧宮凛は反対にいつもニヤニヤと、常人には理解できないツボによって微小をたたえている。オートマティックに自ら剣を刺す黒ひげ危機一髪、あるいは解除できない時限爆弾。思いついたら即実行。思って五秒で疾走。彼女に接近した者は何かに巻き込まれやしないかといつも冷や冷やしているらしい。


 よりにもよって、入学早々霧宮凛というヤバい奴に目をつけられてしまった。心一は死んででもこの場から立ち去らねばならない。


「あなたは誇っていいわ!一度に大量の顔のない人々フェイスレスを一網打尽にしたのは、あなたが初めてよ」

 心一の不安など眼中にないといった様子で、彼女は目を輝かせて言う。心一の倒れた家族の話は完全にスルーされたようだ。心一は次のチャンスを見出すために、彼女の話に耳を傾ける。

「フェイスレス?」

「そう。私はホロウ着用者を顔のない人々フェイスレスと呼んでいるの」

 ARでできたアバターヘッドで顔を隠した人々。生身の顔より活き活きとした表情を作れる人々。彼女はそれを顔のない人々フェイスレスと呼ぶらしい。

「ぼくが、一網打尽にした?」

 状況が飲み込めない心一の背中を、凛が力強く叩く。

「そうよ。あいつらから偽物の顔をひっぺがしたの!」

 そういえば、心一のことを笑っていた野次馬は、みんな生身の顔だった気がする。入学したばかりとはいえ、心一は彼らの素顔を今まで一度も見たことがなかった。

「ホロウはね、理想の私を声と顔で作る。だから、本当の私が出てくると、機能を一時停止してしまうの」


 本当の私。心一は腹を抱えて笑う学生のみんなを思い出す。彼らは突然現れた未知の刺激に、目線で自分の反応を選択することなく、衝動に任せて感情を発散した。それにより、ホロウの機能が停止した。本当の私と理想の私が同時に喋ることはできない。それはどちらも同じ身体に宿っているから。


「心一は、ホロウをつけないのね」

 彼女がとびきりの笑顔を見せる。自分と同じ仲間が見つかって嬉しいのだろうか。心一はまっすぐ情熱を貫きたいと思う男だが、現実は好きな女の子と話もできない、臆病な小心者だ。彼女の仲間なんかには決してなれないだろう。類は友を呼ぶということわざが一瞬浮かんで、それなら心一が呼び寄せたのは花園香織の方だと思いたい。

「どうしてホロウをつけないの?」

 正義は胸の内に秘めているのがよい。自分の熱量は行動で示す。心一はそう考えるような人間だったが、妹以外の女の子と会話できたという感動が、事実が、口を軽くした。

「ホロウをつけると、何か大切なものを失ってしまう気がするから」

 おお、と驚嘆の声を上げた凛が、心一に控えめな拍手を送る。関わりたくない奴とはいえ、女の子に褒められると悪い気はしない。心一の口角は無意識に上がっていたが、その反応を本人が知覚できたかは怪しいところだ。


「私もホロウはつけないわ。あんなもの、ちっとも私の気持ちを分かっていないわ」

「あはははは……」


 この時ばかりは心一もホロウに同情した。いくら優秀な人工知能が搭載され、過去の膨大な蓄積であるビッグデータをもってしても、彼女の気持ちを分かれなんていうのは、極めて困難な話だ。アカシックレコードまで行けば分かるだろうが、それ未満のいかなる知性体も、彼女を理解できないかもしれない。


「ホロウはPPC導入後さらに希薄になったコミュニケーションを、薄めるどころか完全に外部に委託させたわ。円滑なコミュニケーションが可能になって、だから昔はあった摩擦による熱が発生しない。コミュニケーションは余分なエネルギーの出ない冷たく完全な、完璧すぎるシステムに成り下がってしまうわ」


 PPCが導入され、人々は今までよりも遥かに長い時間、インターネットの海に潜ることが可能になった。目の前に人がいても、意識は視界の隅で繰り広げられるオンラインの会話に向けられる。大した取柄もなく、パッとしない平凡以下な自分でも、インターネットのアバターなら英雄に、少なくとも現実の冴えない自分を超えた何者かになれる。現実の劣等感を推進剤にして、PPCをカタパルトにして飛び出せば、どこへだって行ける。そうして現実を蔑ろにする者が急速に増えていった。

 政府が行ったアンケート結果では、現実に友達がいない人間の割合は八割を超えた。また、現実に友達がいても、一年以内に会っていないという人間が一割以上いた。事実上九割の人間が、一年もの間生身の友達と直に出会い、語らい、触れ合っていないということだ。


 でも、日本は豊かになっていた。AR技術が及ぼした経済効果は計り知れない。様々な業界で大幅なコスト削減が実現し、度重なる失策で危機的だった日本の経済は持ち直したのだ。PPCがなければ、日本という国は借金の重みで沈んでいたかもしれない。

 だから誰もこの状況を悲観していない。貧しくて、どこにも逃げることのできない現実なんてみんな嫌いなのだ。人々も、そして国も。


 そこにホロウが現れた。インターネットが浸食できない、取り除くことのできなかった生身の人間同士の顔を突き合わせてのコミュニケーションを、代わりにやってあげようと言うのだ。就職や入学試験に伴う面接。役所やコンビニで行われる事務取引。そんなやりたくもない面倒なコミュニケーションを、作業部分だけ外部化し自動化する。意志は正確に伝わり、生産性は向上する。人々は無駄なことに精神をすり減らさなくていい。素晴らしい発明だ。


 問題は、人々がありとあらゆる生身のコミュニケーションを、例えば友達や家族とのコミュニケーションすらも、精神をすり減らす無駄なものだと見なしたことだった。


 アバター化した人々は誰にも素顔を見せることなく、完璧な外見と声で、現実世界を円滑にしていく。角を削りすぎた凹凸のないパズルみたいだ。凹凸がないので綺麗に嵌ることはなく、並べられただけのピース。ちょっと風が吹けば一瞬で崩れてしまうだろう。


「私は、私とあなたみたいにホロウを望まない人間が、息苦しい仮想の袋の中で窒息死しないように、首輪を外してあげたい」


 彼女の顔から笑みが消えた。その顔は真剣そのものだ。


「ホロウを望まない人間が、ホロウをしている場合があると……?」

「そうよ。もしかしたらあなたにも心当たりがあるんじゃないかしら」

 凛の指が、空中に円の軌跡を描く。心一の目が、彼女の指先を追ってぐるりと回転する。

「……LINNE」

「正解。LINNEの流行は、音もなく目にも見えない同調圧力を、確かに感じさせた。LINNEが表示するテキストログの円は、友達の輪そのものだった」


 LINNE上の会話は、国会の審議よりも、話題のドラマやアニメよりも、共有すべき大事な情報だった。クラスの大事な連絡はLINNE上で行われ、LINNEを利用していなければその情報にアクセスし介入することは不可能だ。

 心一が生まれる前、まだスマートデバイスや財布を持ち歩いていた時代、LINNEが生んだ格差が、いじめ問題にまで発展していたらしい。PPCに初期からインストールされるアプリになってから格差はなくなったが、いじめがなくなったかどうかは心一の知るところではない。

 LINNEは現実の自分を知る仲間内のツールであり、PPC普及後にはより匿名性の高いコミュニケーションアプリの方が人気となった。


「望まずにホロウをつけている人間をどうやって判断するんだ?」

「それは秘密。あなたが私の手を取るなら教えてあげるわ」

 彼女が手をのばす。心一は唸る。そうきたか。確かに気になる話だ。彼女の柔らかい手をもう一度握って、彼女の話の続きを聞きたいような気もする。


 彼女がやろうとしていることは、ヒーローになることだ。勇敢で、かっこよくて、きっと香織先輩も振り向いてくれるような、眩しくて目のくらむ善行だ。

 でもぼくが彼女の力になれるなんて、そんなはずがない。今日のことはたまたまだ。ぼくが憧れるまっすぐなぼくになろうとして、好きな女の子に告白しようとした。でもやっぱりぼくはまっすぐのびた直線なんかじゃなくて、どこにも進めない小さな点だった。簡単に風に巻き上げられてしまう砂粒だった。失敗を笑われただけで、これからも失敗をし続けなきゃぼくは彼女の役には立たないのだと思う。心一はそれを望まない。


「悪いけど、他を当たってくれないかな。ぼくは君が思うようなすごい人間じゃないんだ。面白くもないし、勇気もない。ただ変に意固地になって、ホロウをつけていないだけの冴えない学生で……」


「私には届いたわよ、愛の告白」

「……え?」

「あなたがかおりんの前でうだうだやって、みんなに笑われた一発ギャグみたいなの、あれは告白だったんでしょ」

 凛が自慢げに、ノートパソコンだったら自慢できる薄型の胸をそらす。


 花園香織に届かなかった思いを、みんなが笑ったハートの軌跡を、彼女は理解したというのか。あんな悪ふざけみたいな奇行から、心一の気持ちを正確に汲み取ったというのか。


「あなたには、何か光るものがある。私が保証する。」

 彼女がまた手を伸ばす。何度も何度も手をのばす。凛は強欲で、欲しいものがあったら何でも手に入れようとするような、独裁者じみた女王だった。彼女が女王なら、心一は騎士に憧れるチェス盤に降り積もったホコリだ。心一の心を理解できた彼女なのに、心一が何の役にも立たないということが見抜けないのが不思議だった。


「でも、やっぱりぼくは……」

「あ~~もう! うだうだうだうだ言っちゃって! じゃあ分かったわ。こうしましょう。私はあなたが欲しい。でもあなたはかおりんが欲しい。そうね」

 花園香織は花園香織のものだし、そもそも彼女は物ではない。が、心一は素直に頷いた。

「取引しましょう。私があなたの告白をサポートする」

「ええ⁈ 君がぼくの⁈」

 予期しなかった助け船に、心一は思わず声を上げた。

「逆に不安だ……」

「殺すわよ?」

 凛が最初はグーと言い出したので、心一は光の速さで土下座する。心一が何を出しても凛が出すチョキで失明するじゃんけんを、心一はやろうとは思わなかった。


「あなた自分のこと、想いが強かったらどんな障害も乗り越えられる少年漫画の主人公だと思ってないわよね? 甘いわ! 恋愛は駆け引きよ!」

 心一の恋愛観と正反対の理論を、彼女は心一に突き付ける。今日の敗北が、心一に反論を許さない。心一はぐぬぬと口を閉ざし、喉の奥で唸るしかなかった。

「私があなたに恋愛のいろはを叩きこんであげるわ! かおりんが振り向いてくれるかと言えば、まあ多分無理でしょうけど(笑)」

 それはそうだ。心一も、花園香織が自分のことを好いてくれるなんて期待は、無いと言えば嘘になるが、しかしスズメの涙程度にしか抱いていない。

 それでも彼女に心一の思いの丈をぶつけられたら、ホロウでは伝えることができないような熱さを伝えられるなら。どんなに素晴らしいことだろうか。


 凛の顔をもう一度良く見る。強気な笑顔と刺さるように鋭い眼光。そんな彼女の瞳が、一瞬涙で揺らいでいるように見えた。


 心一は気付いた。そうか。彼女もいわゆる思いの告白を、心一と同じことを、心一に向かってやっているのだ。だとしたらそれがどんなに勇気のいる行動か、一番分かっているのは、やはり心一をおいて他にいないのだ。心一はこの小さな女王様の気持ちに応えてあげることができる、唯一の人間なのだ。


「……分かった。君についていくよ」

「本当に⁈ やったあ!」


 凛は腕を突き上げてその場で飛び上がると、心一に飛びついた。心一は突然増大した重力に耐え切れず、成す術もなく後ろに倒れ込む。

 衝撃が頭部から全身へと伝わる。家族が倒れたので、付き添いに行かなくてはならない。心一の言い訳が、走馬燈のように聞こえる。PPCが衝撃を感知して、視界に警告文を、耳に警告音を鳴らす。


 とりあえず保健室だ。次に目覚めるのは冷たく固い地面の上なんかじゃなくて、清潔な白いベッドの上だと思いたい。願わくば、花園香織の太ももの上で最期を迎えたい。



 桜は絶えず花びらの小雨を降らせていて、それが凛と心一の上にも降ってくる。彼女は心一が気絶しているのに気付かず、嬉しそうに足をばたつかせていた。

 その光景を、桜の降る遥か上空、校舎の四階の窓から、花園香織は無表情でじっと見つめていた。

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