定理1-2

 花園香織は中庭に出没するというのは、全生徒の知るところらしい。入学したてホヤホヤの心一は知らなかったが、彼女はチュウネンで最も美しいと目される存在だ。つい先日そのことを知った心一も、すんなりとその見立てを受け入れた。


 中庭は、空を飛ぶ鳥の目から見てコの字に建てられた校舎の、中心に空いたスペースにある。

 心一は校門を抜け、真っすぐ中庭へと向かう。他の生徒は校門から左右に分かれ、各々の教室に最も近い校舎の入り口へと向かう。心一の視界に入るのは、みんなホロウを装着し、頭部がやけに大きな者ばかりだった。


 中庭には桜の木が立ち並び、自らの天下を誇るように鮮やかな桃色の花が咲いている。いくつか木製の三人掛けベンチが置いてあるが、朝だからか人影は少ない。心一はベンチに座る人間を確認しながら、彼女がいないかを探す。


 デフォルメされた動物、ハリウッド映画に出演できそうな外国映画スター風、良く分からない抽象的な模様など、様々な頭部の人間が、一つのベンチにきっちり一人ずつ腰かけて、心一には見ることのできない画面を見つめている。彼らはSNSに投稿をしているのかもしれないし、電子書籍で読書をしているのかもしれない。昔は自分が使っている端末の画面を誰かに見られるという状況が発生したそうだ。他人の画面を見るという行為は本人の許可がない限り許される行為ではない。プライベートの侵害だと、訴えられることもある。


 心一は中庭の奥に向かって進む。心一を挟むようにしてベンチが設置してあるが、奥に進むにつれて、座る人間も少なくなっていく。

 中庭の終わりである校舎の壁。心一と向かい合うように、ベンチが置かれている。


 彼女、花園香織が腰かけるベンチだ。


 一陣の風が、桜の花びらを散らして吹き抜ける。それにつられて、銀色の髪が横に凪ぐ。

 幻想的な光景に、異世界に転生してしまったのではないかと、とんでもない考えが浮かぶ。もちろんそんなはずはない。校舎の壁は彼女の後ろにそびえているし、心一の視界の隅にはPPCが正常に作動していることを示す緑のアイコンが浮かんでいる。

 目と目が合う。瞬間ではなく、三日前から生成されている胸の高鳴りが、心一の頭を沸騰させる。拡張現実は二人の間に全く介入せず、そこには原始の時代からある瞳の交錯が生まれていた。

 心一は彼女の隣に腰かける。腰かけようとして、靴を脱ぎ、それを丁寧に並べると、ベンチに正座した。心一はただ腰かけたと思っている。

 香織はお菓子を食べていた。白く、摩擦係数などかけられるはずもないスベスベな手が、将棋の駒を持つような手つきで薄いスナック菓子を持ち上げ、小さな紅い口へと運ぶ。


 ああ、王手。完敗だ。


 心一は一人で頭を抱えた。いつもは中身のない軽い頭が、今日は処理しきれない感情の波で熱く、重くなっている。言葉が出てこない。一旦落ち着いて状況を整理しよう。

 心一は深呼吸をする。深くてゆっくりした呼吸を意識するんだ。そうやって意識したのは彼女から漂う甘い香りで、深呼吸は陸に上がった魚のように口をパクパクさせるだけに終始する。


 ダメだ。死ぬ。


 心一は、赤の他人である超美少女の隣に正座して頭を抱えながら窒息死しようとしていた。


「大丈夫?」

 静かな、優しい声が聞こえた。心一が横を見ると、銀色の天使がこちらを見ている。表情という表情は読み取れない、完成され固定された花園香織の顔が、心一の顔を覗き込む。

「あっ……あ……」

 大丈夫ですの一言が出てこない。そもそも大丈夫ではなかった。心一は幼児が最初に書き順を知る原初のひらがなを連呼することしかできない。

 心一は妹以外の女の子と喋ったことがなかった。女友達も一人もいない。故に、女の子と喋るという行為は、心一には荷が重すぎたのだ。心一はそのことを自覚していたが、恋の熱が、彼を惑わしてしまった。

「それ」

「あっ……あっ」

 彼女が指をさした先、ベンチの上には青い傘が置かれている。

「私の?」

「あ……あっ……」

 頷こうとして、メタルバンドのライブ会場最前列並みのヘドバンをしてしまう。

「そう」

 別に興味がないという風に、彼女はお菓子を食べる行為に戻ってしまった。心一は慌てて傘を持ち上げると、ベンチから飛び降り、彼女の前に跪いた。傘を伝説の剣を扱うように両手に横たえ持ち上げ、彼女に献上する。

「くれるの?」

「あっ……」

 くれるも何も、この傘は彼女のものだ。心一が頭をあげると、彼女の太ももが飛び出す3D映画みたいに眼前に迫っているのに気付いて、慌てて下を向く。

「そう」

 心一の手に、柔らかな接触。彼女の冷たい手が、心一の手から傘を受け取った。

「ありがとう」

「あっ…………」

 彼女の表情には一切の変化がない。しかし言葉からは、彼女自身の感謝が滲み出ているような気がして。心一は初めから失いっぱなしの言葉を、改めて失う。


 彼女がスナック菓子を食べ終えるまで、心一は跪いていた。彼女の前で、その遥か上空にいるであろう神に、感謝の祈りを捧げるために。

 神よ、私は幸せです。ありがとう。そして願わくば、わたくしめに告白する勇気を。



 この期に及んで、この体たらくで、告白をしようとする愚か者がいるらしい。


 心一は覚悟を決める。ただ自分の中にある熱い気持ちをぶつけるだけだ。簡単だ。できる。やるんだ。


 花園香織はお菓子を食べ終え、立ち上がった。スカートを手で払って綺麗にすると、そのまま立ち去ろうとする。


 四文字。

 四文字あれば告白できる。「あ」と「い」と「し」と「て」と「る」を言うのに、神様どうか力を下さい。四文字分の加護を、ぼくにください!


 彼女はどんどん遠ざかっていく。桜が舞う道を進む彼女は、やはり絵になる。いや、そんなことを考えてる場合じゃない。声が届かなくなる前に、彼女を呼び止めなくては。


「あ……あの!」


 心一の制御を無視して、叫びに近い声が喉から放たれる。あまりの力強さに、声が裏返る。

 彼女が振り返った。ついでに振り向かなくてもいい人間も数人、心一の方を見る。


 さあ愛を告げろ心一。等身大の思いを、音速で放て。


 しかし、変な所で律儀な心一は気付いてしまう。神様にお願いした四文字の一つを、彼女を呼び止めるのに使ってしまった。「の」なんて、告白に使えないではないか。

 残り三文字。まだいける。「好きだ」で三文字だ。


「お菓子、くれるの?」

「え⁈」


 花園香織は解釈した。お菓子が失せ、泣く泣くこの桜舞う楽園を去る自分に、傘をくれたあなたはお菓子もくれるのではないかと。

 心一は突拍子もない彼女の発言に、思わず驚きの一文字を使ってしまった。残り二文字。まだだ。まだ「好き」だと言える。


 愛は、たった二文字で伝えることができるんだ。最小限の言葉で、最大の気持ちを伝えようじゃないか。


「ないの?」

「あ、はい……」


 ああ、無情。神様から貰った奇跡の四文字は、あっけなく消えてしまった。心一はその場に崩れ落ちた。四肢を張り、倒れ込むのは凌いだが、今までに感じたことのない無力感が、心一に起き上がることを許さない。

 終わりだ。彼女と心一にあった傘という接点は、もうない。これから先、彼女に話しかける機会は永遠に失われたのだ。


 自分はなんてダメ人間なんだ。死のう。死んでしまおう。

 絶望に囚われて嘆く心一の頭の中に、軽蔑の声が聞こえた。


「は?」


  それは、心一に無駄に消費された「は」という文字の声だった。

「はあ?」


 「あ」が、「は」と一緒に心一を軽蔑する。そうだ。自分はそう言われても仕方ない人間なんだ。笑うんなら好きにしろ。ぼくはもうおしまいで、行き止まりで、袋小路なんだ。

「あはははは」

 「あ」と「は」が笑う。冷ややかな笑いだった。諦めた心一を、突き放すような響き。どうして文字に笑われないといけないんだ。文字は意志を持たない。意志を持つのは、言葉を使う者だ。


 心一は気付いた。文字の声が聞こえるのではない。今使える文字の組み合わせを、心一は無意識に吟味していたのだ。何かできることがあるかもしれない。諦めるにはまだ早い。拳を握りしめると、身体を巡る血の熱さがはっきりと分かった。

 ぼくはまだ、戦える。

 「あ」と「い」と「え」と「の」と「は」。心一が神様から授かったと思い込んでいる言葉。心一が勝手に制限した言葉。

 愛はすぐに見つかった。単純に、「あ」と「い」が連続していたから。愛があれば、どうとでもなるじゃないか。四つん這いになったまま心一は考える。愛を伝える文字列を。ありのままの心一を伝える言葉を。


 花園香織は、そんな心一を無表情で見つめていた。


 心一は遂に、今の心一を的確に、ストレートに伝える言葉を見つけた。妹以外の女の子と会話すらしたことない、そもそも好きな人の前で言葉が出ずに地面に伏せっている自分の精一杯を伝える言葉を。


 大事なのは言葉じゃない。言葉に乗せる気持ちだ。ハートだ。パッションだ。


 心一は四つん這いになったまま、地面を這い回った。心一の軌跡が、ハートをかたどると、叫んだ。








「あ、愛のハイハイ! イエエエエエエエエエエエエエアアアアアアアアア!!!」



 静寂。心一は怖くて、顔を上げることができない。時間と共に、心一の恥ずかしさが指数関数的に上昇していく。顔から火が出そうだ。できることなら、この体勢のまま石にしてほしい。

 実際に心一は四つん這いになって赤ん坊のようにハイハイをしていたし、結構上手いこと言えたんじゃないか、と思える余裕は微塵もなかった。


「ふ、ふふ……」


 吹き出したような、小さな笑い声が聞こえた。顔をあげると、彼女が笑っている。俯くように腹を抱えた彼女の笑顔は、心一にしか見えていない。彼女の完璧に完全な無表情が崩れて、幼子のように純粋な笑顔に変わっている。心一の頭から血がサッと引いて、サウナ室から出たみたいな爽快感が、身体を駆け抜けた。心一も笑っていた。


 突然、大きな笑い声の合唱が響きわたった。あまりの大音量に、校舎の窓ガラスが共鳴して震えている。一連の流れを見ていた野次馬が、腹を抱えて笑っているではないか。中庭にいた数人はともかく、校舎の窓の奥には大勢の人がいて、大口を開けて笑っている。

 まさか、こんなに大人数に見られていたなんて。しかし不思議と、恥ずかしさはない。心一はむしろ優越感すら抱いていた。

 野次馬は地面に伏せる心一は見えたが、彼女の笑顔は心一しか見ていない。心一が満足するには、それで十分だった。



 心一は地面に大の字に寝転がった。春の朝日は中庭の地面を温めるほどの力はなく、敷かれたタイルの冷たさが心一の背中に伝わる。

 いつの間にか彼女は居なくなっていた。周囲の喧騒も収束してしまって、あたりはとても静かだ。もしかしたら始業のチャイムが鳴ったのかもしれない。早く起き上がって、授業に出なくては。


 彼女に届いただろうか。心一の気持ちが。絶対届いていないだろうな。心一が死ぬ思いで見せたカッコ悪い告白は、もはや告白ですら怪しい奇行でしかなかった。これ以上の勇気はもう出せない。彼女の前に出るだけで、恥ずかしくて噴火してしまうかもしれない。

 心一の一世一代の奮闘は、誰にも正しく理解されることなく幕を下ろした。

 花園香織の笑顔を思い出す。心一の頬が自然とゆるむ。こんな情けない顔で教室に行けば、笑われてしまいそうだ。もう少しここにいるのも良いかもしれない。


突然、心一の顔に影がさした。


「あんた、なかなかやるじゃない。見たところホロウはつけてなさそうだし。合格よ。私と共に来なさい」


 心一の目に飛び込んできたのは、彼に差し出された右手と、謎の人物の細く引き締まった太ももと太ももの間に挟まれた、白い下着だった。

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