恋愛が駆け引きである、というのは成立しない、と思いたい

定理1-1

 PPCの導入は教育も変えた。ARにより自分の部屋が教室に早変わりだ。拡張されて見える空間には数十人の生徒が既に着席しており、床から湧いて出るように先生が出現する。チャイムが耳元で鳴り、授業の開始を告げる。

 今や校舎と呼ばれるものはほとんど存在しない。学生の学び舎はインターネットの海の向こうにあるのが常識となっている。


 しかし、時代の流れに逆らって実体のある校舎もあったりする。学費が跳ね上がるが、生徒も少なくはなく、しばらくは安定して運営できるという話だ。

 ネハンにも実体を持った高校がある。私立中央ネハン高校、愛称はチュウネン。中年とは言いつつ歴史は浅いので、綺麗で広大な校舎が学生を迎えてくれる。

 心一もチュウネンに通う生徒の一人だ。通うと言っても、入学してまだ一週間ほどしか経っていないが。たった一週間でもう、心一はこの高校に入れて良かったと心の底から思っている。理由は分かりきっていて、その理由が心一の鼻の下をのばしきっている原因でもある。


 花園香織。銀の髪を持つ美少女で、ホロウ未着用者。心一の未来を変えたその人と同じ高校に在籍しているということは、心の動きが単細胞生物に近い心一にとって運命を感じるには十分すぎる事実だった。

 

 ある晴れた日。雨の心配はなかったけれど、心一は傘を持って登校した。爽やかな青い色の傘。次の雨が降る前に返さないと、彼女が困ってしまう。

 彼女の目撃(彼女が心一を認知していない可能性から出会いとは言い難い)からたった二日しか経っていないが、心一は傘を返すと同時に告白をする腹積もりだった。


 恋愛とは駆け引きである。


 一体誰が言い出したのか。見当はずれも良いところだ。

 恋愛とは気持ちを通わせることに他ならない。無駄な小細工なんてかえって邪魔なだけだ。思いの丈をストレートにぶつける。ただそれだけ。これこそが恋愛の本質であると、真っすぐに生きたい心一は考える。


 心一に女友達がいない原因は、多分そんなところにあるのだろう。


 学校へ行く道中で、心一は色々な人とすれ違う。誰もがホロウを首につけていた。サメの頭の男が心一に声をかける。

「やあ、おはよう。今日も良い天気だね」

 今海から上がったばかりだと言わんばかりに、サメの頭は水分で潤っていた。青白い皮膚が、陽の光を受けて煌めく。サメの口角が持ち上がる。口の中には、獲物を喰らうための鋭い歯が並んでいる。

「お、おはようございます」

 心一の小さな挨拶を聞くと、サメは満足そうな顔を浮かべた。それ以上言葉を交わすことなくすれ違う。

 親しみのこもった声だった。サメの中にはどんな顔があるのだろうか。優しいおじいさんの顔。強面のお兄さんの顔。好青年の顔。みんな弱弱しくはない。サメのイメージがそうさせる。

 しかし、アバターとは自分と正反対の容姿に設定されることも多い。心一もゲームをする時、冴えない自分の顔とは正反対の、クールな外国の美少年の容姿を設定したことがある。妹が画面をのぞき込んで言った。

「ちょっと、これお兄ちゃんなの⁈ どんなに腕の良い整形外科医でもお兄ちゃんの顔をこれにはできないって(笑)。いや~ないわ。絶対ない」

 妹から散々馬鹿にされた傷は今も癒えていない。以来、ゲームのキャラメイキングはネタに走ることにしている。極端に太った身体。ピノキオのように長い鼻、反対に短い脚。


 どんな容姿でプレイしようと、ゲームの楽しさは変わらなかった。


 サメの中に、心一と同じような顔があったなら。歩いていると、目の前から人がやってくる。ホロウをつけていなければ、多分無言ですれ違うだろう。

 でも、ホロウをつけているなら。状況を判断した人工知能が選択肢を提示する。挨拶をしますか、しませんか。いつもは下を向く目線も、ARモデルの中では元気に動く。それはもちろん、挨拶はした方がいいに決まっている。挨拶をする選択肢を選ぶと、首輪から自分の声が発せられる。自分の理想の挨拶だ。噛むことなく、音量もバッチリ。相手も微笑んでくれた。

 気持ちの良い挨拶。ビバ、コミュニケーション。隣人よ、愛してる。投げキッスを一つどうだろう。ん~~、チュッ。


 心一は、ホロウをつけることで何か大切なものを失っているような気がしてならなかった。しかしそれが何なのかは、よく分からない。多分失ってみないと分からないものなのだろう。心一はそれを知る機会が訪れないことを願う。切に願う。


 校舎が見えてきた。取り付けられた大きな時計が見える。始業までにだいぶ時間がある。それでも心一の足は、のろまに歩くことを嫌っているようであった。

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