定理0-3

 家まであと二分ほどの地点。道路脇に街灯が等間隔に並び、落ちる雨を光らせている。

 街灯の下だけ雨が降っているみたいだ。心一がぼうっと考えながら、あるいは無心で歩いていると、道路の隅に誰かがしゃがんでいるのが見えた。誰かは青い傘を持っていたが、それは自身の上に開かれず、街灯の根元にさしのべられている。


「あっ」


 心一は見た。見てしまった。天使を。街灯の光は天界から降り注ぐ光だったのだ。彼女は白い光の中でしゃがんで傘を突き出し、静止していた。長い銀の髪は雨に濡れ、彼女にまとわりつくように張り付いている。雨粒は銀の髪を滑る流れになり、先端から滝のように落ちる。

 ARモデルが隠していない、露出した外国の人形のような整った顔立ちに、白い肌。心一はこんなに美しい人間を見たことがなかった。見覚えのある制服だけが、超越的な彼女を人として成立させていた。

 彼女の周りの空間は時が止まったみたいに沈黙して、雨すら空中で停止しているようだ。街灯に照らされた雨粒はキリトリ線じみて映え、彼女のいる空間を切り出して持ち帰りたい衝動に駆られる。


 彼女に集中する余り、周囲の音が遠のいていく。心一の周りに降る雨の音は消え、視界にのみその姿を留めている。地面に当たって弾ける雨音が消えたことで、心一は何か得体の知れないものの上に立っているような、浮いているような錯覚を覚えた。心臓が始まりの予感を感じて、カウントダウンを早めていく。

 心一は思う。なるほど運命の扉とはこのようにして顕現するのかと。未知の衝撃がもたらす認識の減退が、極限の集中が、存在しないはずの穴を生み出す。どうりで目に見えないわけだ。


 扉が開いた。


 心一は落ちるしかない。


 彼女と築く未来の夢の沼に落ちた。


 あるいはもっと単純に。


 心一は恋に落ちた。



 気が付くと、彼女はいなくなっていた。どれぐらいの時間突っ立ていたのだろうか。アイスクリームがまだ冷気を帯びていることから、きっと短い脳回路の短絡ショート・ショートだろうと思う。いつの間にか雨は上がっていた。心一は無意味に開かれた傘を閉じる。視界が開けると、街灯の根元にも開かれた傘が放置してあるのに気付いた。彼女は傘を一本しか持っていなかった。雨に打たれたまま去っていく彼女の姿を想像する。駆け寄って、傘を貸してあげればよかった。今思ってももう遅い。そもそも心一は惚けて動くことも思考することも叶わなかったのだ。


 駆け寄って彼女のものであろう傘を持ち上げると、その下で雨を凌いでいたものが顔を上げた。

「なるほど、そういうことか」

 段ボール箱の中、毛布にくるまった子犬が、心一を見上げている。全身を覆う淡い茶色の毛が、水分でまとまった束になってしまい、所々地肌が見える。寒さのせいか不安のせいか、あるいは両方か、震えながらすがるように心一を見つめている。


 段ボールには「拾って下さい」の文字が、心一の予想を具現化したように書かれていた。随分と綺麗な字だった。綺麗な字で、残酷な言葉が書けるんだなと、当たり前のことが頭に浮かぶ。


 彼女が歩いていると、街灯の下には子犬が捨てられていた。彼女ならどうするか。通りすぎるか、しゃがんで様子を見るだろう。心一の頭の中で可能性としての彼女が二人に分裂して、各々の行動を開始する。一人は子犬に手を差し出し、ゆるみかけた毛布を直してあげる。一人はチラチラと子犬の方を振り向きながらも、彼女の目的へと向かう歩みは止まらない。

 雨が降り出す。二人の彼女は傘をさす。彼女の上に、局所的な青空が一瞬で生まれた。しかし子犬の頭上には、未来には、暗雲が立ち込めたままだ。一人の彼女は傘をさしだす。一人の彼女は駆け足で子犬の元まで戻ると、傘をさしだす。こうして可能性の彼女は一人に融合した。

 心一が観測して、シュレディンガーの彼女は確定される。そして、またシュレディンガーの彼女へと戻るために、闇の中に消えていった。


 心一は彼女の傘を閉じると、段ボール箱を持ち上げた。飼い主が見つかるまでは、家で預かろう。それから、傘を返してあげないと。彼女の制服は、心一が通っている高校の制服だった。きっと会うことができるだろう。確信に近い期待がある。


 アイスが溶ける前に帰ろう。雲の隙間から、明るい星が顔を出していた。

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