地獄には女神も天使もいる。

定理0-1

 運命の扉に気がつかないのは、それがぼくたちの足元にあるからだと碓氷うすい心一しんいちは思った。そう思ったのは、彼が扉を踏んでしまったせいであり、扉を抜けてしまったせいでもある。


 その一部始終は銀色の髪の長い少女のすぐ傍で進行した。心一と彼女の間を直線で結んで5mほど。大雨のノイズの中、彼女は心一の運命を変えながらも、その青い瞳は目の前の小さな命に向けられて、決して心一の姿を捉えることはなかった。


 事の起こりの前には小さな不幸がある。


何かの手違いでアイスクリームが冷蔵庫に入っていた。心一が発見した時にはそれはもうアイスクリームと呼べる代物ではなくなっていて、包装を持ち上げた指には、中の液体が流動的に移動する感覚があった。


 可哀そうに。一体誰がこんな惨いことを……。


 心一の脳裏に一人の名前が浮かぶ。それは他でもない妹の名前だ。どういうわけか、最近妹が冷たい気がする。心一と二つ年の離れた妹は、近所でも仲が良いと評判の兄妹だった。でも、心一が高校に上がってからどうも機嫌がよろしくない。きっと難しい年ごろなのだろう。そう思って心一は妹に何も言わない。だから妹の不機嫌は止まる気配を見せず、現に今こうして心一は実害をこうむっている。

 何かあるなら、言葉で言えばいい。言いたくないのなら、言いたくなるまで待つ。今はまだその時ではないのだ。きっと。心一はこれ以上犯人を追及するのをやめて、手に持ったままのアイスクリームの遺体を、冷凍庫にしまった。時間がたてば、アイスは固まる。時間は問題を解決するのが上手いのだ。もっとも、時間が解決できる問題のうち八割ほどを、時間本人が引き起こしているのだけれど。

 冷凍庫に入れたところで、アイスクリームの蘇生には時間がかかる。心一は今食べたいのだ。それなら買いに行けばいい。至ってシンプルな発想だ。物事は極めて単純に考える方が良い。妹を責めたところで、何も手に入らない。直線的に進み続けるということ。意志が指すベクトル方向へ向かって、歩みを止めないこと。それだけが、心一が採用した人生における指針だった。

 

 心一が玄関でスニーカーに足を入れると、アラームが聞こえた。骨伝導により耳に響く心一にしか聞こえない音。視界の端に表示されるアイコンは、傘のシルエット。外は雨か、もしくはこれから高確率で雨になるか。心一の頭の中のコンピュータが警告している。傘立てからビニール傘を一本取り出すと、心一は玄関の扉を開けて外に出た。


 静かな住宅街。雨が地球を打つ音は聞こえず、空は厚い雲に覆われている。青空を灰色に染めることができる雨雲も、夜空を灰色に染めることは叶わず、星のない暗黒が頭上を支配していた。いつ降り始めてもおかしくない空模様だ。心一は駆け足で、近所のコンビニへ向かう。


 途中、数台の自動車とすれ違った。電気で走る自動車は音を立てず滑るようにして走行する。ガソリンが主な燃料だった昔は、自動車が騒音の原因になることもあったらしい。心一が生まれる前の話だ。自動車の音よりも子どもが遊ぶ時の歓声の方が大きい今では、にわかに信じられない。


 近所にあるコンビニは、青と白の看板が特徴的な「ノーソン」だ。自動ドアをくぐると、電子音が心一を迎える。迷わずに奥のアイスクリームコーナーへ向かう。


 アイスクリームは夏に食べるものという考え方は前時代的だと、心一は思う。アイスクリームを夏限定で食べるということは、夏以外の季節限定アイスクリームが食べられないということだ。アイスクリームは夏限定という檻を、期間限定という特性を取り込むことで破壊したすごい奴なのだ。この考えは心一がアイスクリームを好む理由の一つになっている。


 心一が適度に冷えたケースを覗くと、確かにそこには季節限定のアイスクリームがあった。今は春先。桜の降り積もるように、桃色の包装に包まれたアイスクリームが積んである。

 目標を定めると、横目でレジを見る。よし、誰も並んでいない。アイスは時間が勝負だ。レジに並ぶ時間すら惜しい。心一は家にあるものと同じ商品を手に取った。苺ミルク味のアイスバーだ。手に伝わる冷たさを確認して、足早にレジに向かう。

 「いらっしゃいませ」

 若々しい女性の声が言う。どもることなく、ハキハキと、気持ちの良い挨拶だ。心一は名札を見る。名前を見たわけではない。名札には、研修中の文字が記されてある。


 声の主はうさぎだった。


 正確には、人間の身体で、人間用のコンビニの制服を着た、頭部がうさぎの頭の店員だ。

 身体と頭部のサイズが不釣り合いで、うさぎの頭が不自然に大きい。もし頭部に質量が存在しているのなら、彼女はバランスをとるために、フラフラと重心を調整し続けなくてはいけないだろう。デフォルメされた可愛らしいうさぎの顔が、にこにこと営業スマイルを浮かべている。それに連動して、長い耳がピクピクと動く。

 自然に存在しえない姿。心一はその調和の無さに恐怖と、人にしか作り出せない美しさを見出してしまう。靴の中に小さなトゲが一つあって、ふとした時にそれが刺さってしまうというような、痛みなのか痒みなのか判断しづらい小さな衝撃を、心一は胸の奥に感じた。

 店員の首には、黒い首輪のようなものが巻かれている。首輪の中心には白い溝があり、一定の周期で青い光が流れていく。

「お客様、どうかなさいましたか」

 うさぎの店員が心配そうに言う。

「あ……あ」

 心一は思い出したようにさっと商品をレジに乗せた。うさぎはリーダーを商品に当て値段を読み込む。

「一〇八円になります」

 心一がレジに設置してあるディスプレイに人差し指で軽く触れると、視界の中でコインを模したオブシェクトが四つ、画面に吸い込まれた。ディスプレイには心一の手持ちの残金が表示される。それは心一のPPCが見せているものだ。うさぎには見ることができない。

 PPCが導入されたことによってお金は実体を失った。そもそも、お金とは金への信頼が形を持ったもので、もともと概念のようなものと言っていいだろう。お金は元の姿に近づいただけだ。でも、お金をカバンに入れて持ち歩いた老人たちが文句を言って、ARオブジェクトによる演出が用意された。目に見えないと不安になるのだそうだ。そういうことで、心一を含む若い世代も、このお金を払うという実体の伴う行為を仮想現実で疑似体験している。

 

 うさぎがアイスクリームを袋に入れ終えると、心一は口の中でもごもごとお礼を言って、コンビニを出た。後ろではうさぎが「ありがとうございました」と言っていたが、それは自動ドアが開くと同時に増大したどしゃぶりの雨の音で、最後まで聞くことはできなかった。


 

 ビニール傘に雨が当たる音が、頭上で鳴る。心一が歩を進める度に、傘からはみ出した足先が濡れた。傘というのは、随分昔の発明だろう。まだ改良の余地があるのではと、水の染みていくスニーカーを見て心一は思う。科学の怠慢だ。人間に首輪をはめる前にやるべきことはいっぱいあるはずだ。科学も怠惰なら人も怠惰だ。首輪をはめることに何の不満も抱かない、「ネハン」の人々は何を考えているのだ。

 星の見えない夜、夜道を歩く心一は確かに一人だった。

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