第17話

 ナビが目的地の到着を告げ、雅季はレストランの駐車場の前で車を止めた。道路の先にはバイパスの標識が見える。ガードレールの下手には畑が広がり、民家の灯りが寂しく点在していた。

 街頭に照らされ、闇の中に浮かび上がっている三角屋根の白い一軒家が、かつてのレストランらしい。駐車場があるが、その敷地と車道とは腰ほどの高さの黒い鉄柵で遮断されていた。おそらく、玉置がここを買い取った後に設置したのだろう。建物の裏一帯は山で、雪に枯れ枝が白く染まっていた。

 家は二階建てだったが、一階の窓の全てにベニヤ板が打ち付けられているのが見える。久賀が訊ねるよりも早く、雅季は柵の上に手をついてよじ上り、中に入っていた。鉄柵の、横に開閉する門にはもちろん鍵がかかっていたので、仕方なく雅季に倣った。薄く積もった雪の上に、車のわだちの跡が入口の方まで続いている。

 車を止めたと見られる場所から、正面玄関までは成人男性のものと思われる足跡があった。玄関には通常の錠とドアの上部の南京錠で二重に施錠されていた。こちらは、後から新しく取り付けられたようだった。

 その厳重さに、久賀はすでに不穏なものを感じ取っていた。

 そのまま雅季と一緒に建物の裏に回った。建物の裏は排気口と裏口、そして小さな物置があるだけで、ここに来た足跡はない。

「おそらく、少し前に正面からの出入りはあったようですね。さて、どうしましょうか」

 雅季はコートの襟に顎を埋めるようにして久賀に訊ねた。

「とりあえず、永瀬早紀に関する連絡が入るまで待つしかない……」

 久賀が言い終わらないうちに、雅季は素早くポケットからスマホを出した。

「篠塚です。今、玉置悟のスタジオの内偵で。やはり……。ええ、ここにはいないようです。そうですね、これから戻ります」

 雅季はスマホを持ったまま、久賀を見上げた。

「永瀬早紀が消えました」

「家に帰っていないんですか」

「家にも、会合の別荘にもいません。携帯電話も繋がらないそうです。会合にいた少女の証言から、きょうだい二人は突然大げんかして、それから早紀の姿は誰も見ていないそうです」

 話している雅季の表情が険しくなってくる。頭にある『最悪の可能性』が、こうして話すことで現実になるのを恐れているようでもあった。だが、久賀の中にもその嫌な予感が濃くなりつつあった。雅季の視線が久賀から建物へ移るのを見て、久賀は先手を打った。

「篠塚さん、署に戻るってさっき電話で言いましたよね」

 彼女の考えた手に取るようにわかり、念を押す。

「今はまだ、令状はおろか、何の権限がありません。出直しましょう」

「永瀬早紀は行方不明なんです。これは立派な捜査です」

 強い瞳で久賀を一瞥し、雅季はさっと周りに視線を走らせた。

「篠塚さん! リスクが高すぎます!」

 雅季は、久賀の言葉を無視して物置の脇にあった大型のポリバケツの上に乗った。そのまま身軽に物置の屋根によじ上る。建物の裏、二階は覗かれる心配はないと玉置は思ったのか。または、通気性の問題か。その窓はベニヤ板で封鎖されていなかった。物置と建物の間隔は六十センチほど。

「篠塚さん、下りてください。危ないです」

 雅季は建物の壁に片手をついて体を支え、ペンライトで中を照らしている。「くそっ」と久賀は胸中で――本当に声に出たかもしれない――毒づき、物置に上った。屋根に膝をついた時、ズボンに雪解けの水がしみた。足下で屋根がギシギシといやな音を立てる。百人は無理だろうが、五人くらいはたぶん耐えらるだろう。

「けっこう中は埃っぽいですね。床の上に足跡が目立ちます」

 久賀も雅季の隣で窓枠に手をかけ、様子を探る。六畳ほどの部屋にベッドマットが床に直に置かれ、窓際には平机があった。その上には重ねた紙や写真、コーヒーの缶や飲みかけのグラス、空の弁当箱が無造作に置かれていた。その上を動いていた光の輪が止まる。

「久賀さん……あれ、見えますか」 

 机上の、光で示された場所に目を凝らす。

「安田里穂のイヤリングの片方ですよね」

 雅季はスマホを出した。

「篠塚です。玉置悟の部屋で安田里穂の所持品を発見しました。応援を要請します。ただし、玉置が戻ってくる可能性もありますから、回転灯は……、ええ、そうです……」

 雅季は報告を終えると、手袋を装着し、腰から特殊警棒を抜いた。久賀は思わずその手首を掴んだ。

「応援を待ちましょう。今、玉置が永瀬早紀とここに戻って来たとして、私たちに気がつけば彼女の命の保証はありません」

 雅季の頑なな眼差しに射抜かれ、久賀は喉まで出かかっていた次の忠告の言葉を呑み込んだ。手首を押さえていた手を離すと、雅季は迷わず警棒を窓に叩き付けた。穴から手を入れ、鍵を開ける。久賀は窓から中に入った雅季の後に続く。

「警察だ!」

 銃を構え、雅季が声を張った。人の気配がないことを確認して銃をホルスターに納める。久賀も手袋をはめ、懐中電灯の光だけを頼りに室内の捜索を始めた。 

 部屋にはベッドマットと机、安物のクローゼットしかなかったが、布団が足下で丸まっていたり、脱いだ服がその上に無造作に置かれていたりと、雑然としている。

 机の横の壁に大きなコルクボードがあり、今回の連続殺人事件の現場付近の写真やそれを報じた新聞の切り抜き、人物や風景のスケッチが重なるようにしてピンで留められていた。雅季が机上のイヤリングを摘まみ上げ、光にかざして確認する。

 久賀は机とコルクボードの掛けられた壁の隙間の影からキャンバスを抜き出した。

「これはなんでしょう」

「油絵、ですね」

 雅季が正面からライトを当てると、絵の具が濡れたような艶を放った。

「背景は外国の墓地みたいですね。少女が悪魔に……自ら心臓を捧げているのでしょうか」

「あ、久賀さん、ここ」

 雅季の指す絵の下の方に右肩上がりで「Lamia」とサインがあった。

「ラミア……永瀬早紀ですね」

 ぐずぐずしてはいられない。久賀の気持ちを読んだかのように雅季は彼を見上げた。

「他も調べましょう」

 隣の部屋にはミシン台の上にミシンが一台と椅子が一脚。その横に生地の入った段ボール箱が置かれているだけだった。久賀が懐中電灯を持ち、雅季が中を探った。光に吸い込まれるように埃が舞い上がる。

 上の方には黒い生地があったが、雅季が下から手繰り出したのは、純白のレースだった。シルクサテンもある。

「これ、安田里穂の来ていたウェディングドレスと同じ素材……。この特徴のあるレース。玉置は自分で作った服をマル害に着せていたんですね」

 雅季は立ち上がると急ぎ足で階段を下りて行く。

 階段を下り切った正面のドアを開けると、かつて食堂だったと思われる部屋があった。雅季は灯りを点けた。一階の窓から外へ光が漏れる心配はない。がらんとしたそこを通り抜け、カウンターで区切られた厨房に入る。つんと消毒薬のような刺激臭が鼻をついた。

 壁際にガスコンロ、シンク、銀色の業務用冷蔵庫が設置され、中央には大きなステンレスの調理台が鎮座している。灰色のタイルの床。銀色の排水溝。ステンレスは磨かれ、鈍く光を放っている。異様なほどに掃除が行き届いていた。その光景に久賀は既視感を覚えた。――ああ、遺体解剖室だ。

 冷蔵庫の向かいの、調理器具を仕舞う棚――今は調理器具は無い――を雅季は調べていた。調理スペースと反して、そこには雑然と物が置かれている。

「久賀さん、これを……」

 雅季が靴箱くらいの大きさの紙箱の中身を見せた。そこには一本ずつ包装されたメスが何本も入っていた。睡眠薬、ロヒプノールの錠剤もあった。

「ここが殺人現場と見て間違いないでしょう」

「調べれば血液反応も出ますね」

 雅季は箱を調理台の上に置いて、冷蔵庫のレバーに手をかけた。彼女の身長よりも大きな扉が開いて行く。冷気が顔を撫でると同時に、中の物が目に入る。液体で満たされたガラスの水槽に、三つの心臓が沈んでいた。レバーから手を離し、一歩退いた雅季の体を久賀は受け止めた。冷気にエタノールの匂いが漂う。たっぷり五秒はそれを見つめた後、雅季は呟いた。

「玉置はクロです」

 刹那、久賀の脳裏に黒い生地が蘇った。油絵の少女は黒いワンピースを着ていた。そして、墓地。

「あの絵の通りなら……」

「玉置はここには来ません」

 雅季はそう言うと電話をかけた。

「篠塚です。鑑識も回してください。被害者から摘出された可能性のある臓器を発見しました。応援を要請します。永瀬早紀の広域捜査を。それから令状と……玉置の居場所は、」

 雅季が久賀に向く。スマホを操っていた久賀はすかさず雅季にディスプレイを掲げた。ここから一番近い外人墓地。隣県の……。

「K市です。外国人墓地が玉置の目的地です。私も今から向かいます。久賀検事が一緒です。市内に入ったらサイレンは絶対に鳴らさないでください。あの、始関さん……」

 雅季は一息吸った。

「ありがとうございます」

 通話を終えた雅季はもう一度厨房を見渡した。

「上にもカメラや機材らしき物がありませんでしたね。玉置は全て持ち去ったのだと思います。撮影するために」

 雅季は久賀に体を向けた。

「久賀さんはここにいてください。じき応援が来ますから」

「一緒に行きます」

「久賀さんは丸腰です。何か起きたときに、私は永瀬早紀と久賀さん両方守れません」

 雅季が裏口のドアを開けると、鋭い寒気とともに粉雪が舞込んで来た。足早に車へ向かう雅季を久賀は追った。

「私のことはいいです」

「よくありません。これは警察の領域で検事の仕事ではないはずです」

「こんなときによくそんなことが言えますね。大体、いくら拳銃を持っていても、一人で何が出来ると言うんです。相手は普通じゃないんですよ」

 雅季は門の手前でくるりと向きなおり、目を細めて久賀を睨む。

「だからです! 相手の行動が読めないから、怖いんです。もし、久賀さんに何かあったら」

「私のことは考えないでください」

「考えますよ! 考えたくなくても考えてしまうんですから、どうしようもないじゃないですか!」

 なぜか一瞬久賀は、相手が泣き出すのかと思った。だが、雅季は門を乗り越えると車のドアに手をかけた。俯いたまま、言った。

「絶対に車から出ないと約束してくれるなら、一緒に来ても構いません」

 久賀は助手席に座ると、左手でマグネット式の回転灯を外に出し、ルーフにくっつけた。雅季がアクセルを強く踏み込む。気持ちがいいほど、スピードが上がる。発車してすぐに雅季のスマホが唸るのが聞こえた。雅季は片手でディスプレイをさっと見て、久賀に渡した。

「出てもらっていいですか」

 それを受け取った久賀は始関の名を確認し、「久賀です」と応答した。電話を切ると内容を雅季に報告する。

「女子大生の事件の少し前に、玉置の母親が亡くなっています」

「もしかしたら、それで彼の何かが壊れてしまったのかもしれませんね」

 雅季が目を細めた。

「始関さん、何か言っていませんでしたか。久賀さんが出て」

「警察は検事に何も言えませんよ」

「それもそうですね」

 嘘だった。始関は久賀に「足手まといにはなるな」と釘を刺した。検事の俺に指図とは。

 科捜研で山本三佳子に犯人像について相談したとき、犯人が心臓を摘出する目的を雅季は『その人の感情を自分のものにすることか』と問うた。それを横で聞いていて『まさか』と思った。――そんな手段で感情が手に入るなんて普通考えないだろう。

 しかし、柴山勝茂にロボトミー手術をされた玉置は、多分、それが可能だと信じた。

 新婚で幸せいっぱいの安田里穂からは『愛』を。『憎しみの構造』の著者、小島彰三からは『憎悪』を。高沢健の会社のキャッチコピーは『意識改革の歓び。人生はもっと豊かになる』。玉置は『歓び』を得た。『憂鬱の女王』という異名を持つ永瀬早紀からは『憂鬱』を手に入れようとしている。

 こじつけだ。まったく馬鹿げている。だが、玉置は彼の人生にそれが必要だと信じている。

 そして、俺は篠塚さんが必ず犯人を検挙すると信じている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る