【神秘】殺し
刑事二人が大和と少女を追い詰めたのは、そのビルの屋上だった。
追い詰めたという表現は果たして正しかったのか。それは最早関係なかった。
二人は屋上で止まったエレベーターを確認してからエレベーターに乗ったため、大和らとは屋上到着までに若干のタイムラグがあった。
そして、彼らが屋上に着いた時にはすでに「それ」は始まっていたのだ。
「なんだ…おい…」
風間が思わず口からこぼした言葉は、意味のあるものにならなかった。
そこにあったのは、理解を超えた「何か」だった。
幽霊としか言いようのない、透けた体がビルの淵に立っていた。
その前にいるのは、あの大和だ。
「静かにして」
突然彼らの隣から声が聞こえた。
静かな、鈴のように透き通った声。
それが人の声であると認識するまでに、彼らは数秒を要した。
「君は…」
「ヤマトは今仕事中」
だから黙れ、とその声は告げていた。
彼女の見た目不相応の威圧感に、そしてこの場の雰囲気に、彼らは完全に呑まれていた。
指一本さえ動かせない緊迫感、張り詰めた空気が、息をすることさえ忘れさせた。
大和は一瞬こちらを見たが、すぐにあの幽霊と相対した。
「邪魔が入ったけど続けようか、鳩原葉子さん」
その名前に桂木がすぐに反応した。
「鳩原葉子…このビル最初の自殺者の名前です」
「なんでそんな奴の名前を…」
「おかしいですよ。彼女は当時高校生で、名前は公表されなかったはずです」
大和までこの声は届いていないはずだが、彼は目の前の幽霊に向かって同じように声をかけた。
「鳩原葉子さん、君は今の自分の状況を上手く咀嚼できていない」
その声は静かに、「彼女」に告げる
「君の『原点』は霧散することなく、むしろ濃度を保ったまま拡散した。君は今、酷く歪な存在になってしまっている」
目の前の「彼女」に反応はない。
聞こえているのかどうかさえ定かではないが、大和は続ける。
「歪みを正すのが俺の仕事でね」
一歩、彼は「彼女」に近づいた。
「彼女」は未だに反応がない。
揺らいだまま、まるで夢を見るかのように揺蕩う。
「つまり、何が言いたいのかというと」
彼は懐から何かを取り出した。
刃のない、刀の柄の部分だろうか。
「俺は君を斬るってことだ」
大和が無いはずの刃をなぞる。
それまで影も形もなかった筈の刀に、刀身が浮かび上がるのが見て取れた。
「先輩、いいんですかあれ。銃刀法違反ですよ…」
桂木が震える声で確認する。
目の前で起きていることは、二人にはもう処理しきれないことばかりだった。
二人の常識が全力で警鐘を鳴らす。
「………」
風間は何も答えない。
何が起きているのかわからないのもあるが、それ以上に彼は大和の動向を気にしていた。
大和は一歩で「彼女」の懐に潜り込んだ。
彼と「彼女」の距離は、少なくとも十歩はあったはずだ。
斬りあげた剣筋は刑事二人に知覚できないスピードだったが、「彼女」はその刃を受けることはなかった。
「踏み込んだ位置が変わってるな…」
ブツブツと大和は呟く。
「避けたというよりも『当たらなかった』って感じか。相手が立っている場所は同じ。俺の踏み込んだ位置が変わってる。『そこにいるもの』としての概念強化が俺の位相をズラしたのか?」
刑事二人は彼の言うことが一つも理解できない。
一つ一つの動きが人間離れしすぎている。
「斬れさえすれば概念を削げるんだけど、そもそもその概念のせいで斬れない。ジレンマだなぁ…」
一旦「彼女」と距離をとり、呟く。
どうやら彼は考えを口に出して整理するタイプのようだ。
「とりあえず近距離がダメなら遠距離だな」
そう言うと、大和はまた懐に手を入れる。
今度は石のようなものを五つほど取り出す。
赤や青に輝くそれは、宝石の様にも見える。
惜しげも無くそれを「彼女」に向けて放り投げると、放物線の頂点あたりで石は砕け散り、光の線が「彼女」に向かう。
五つの線が、彼女に直撃した。
ドンという低い音が鼓膜を震わせる。
それ一つが大地を削るような攻撃はしかし、直撃した「彼女」には無意味だった。
「魔弾はズラされない…けど意味がない、と」
大和の攻撃は今まで全て無効化されている。しかし、その目に絶望の色はなく、むしろ届かない攻撃の謎を解く喜びに満ちているようにさえ見えた。
「【矛盾】だ」
大和は静かに語る。
その語り口は、今までのものとはまるで違う。
諭すような、怒るような、泣くような、喚くような、喜ぶような、哀しむような、楽しむような。
そんな語り口だった。
「始まった」
少女がポツリと呟いた。
「始まった?何が?」
まるで今まで何も起きていなかったかのような言い方に、風間は違和感を覚えた。
「ここからがお仕事」
退屈しのぎと言わんばかりの声音で、しかし大和から目をそらさずに、少女も語る。
「アレはこの世にいてはいけないもの。根源の手からこぼれ落ちた染みのようなもの。だからこそ物理的に干渉できない」
ポツリポツリと抑揚のない話し方で、少女は語る。
「人の手には負えない【神秘】がアレを覆っているから、ヤマトは攻めあぐねていた」
「今からは違うって?」
「そう」
少女は断言する。
それは勝利宣言だ。
それまで無表情だった声が、自慢げに弾む。
「神秘はなぜ神秘なのか」
少女の問いかけは、桂木に向けられた。
「えっ…?神秘………美しさ、とか?」
「惜しいようで遠い。それは神秘のもたらす結果であって、その理由ではない」
「では、神秘とは?」
彼女は問いかけた風間を一瞥した。
「【神秘】、それは信仰と秘匿によってもたらされる。【神秘】とは神の力。神の手から離れたそれは、最早【神秘】とは呼べない。人の手に渡ったそれは信仰を失い、ただの技術となる」
プロメテウスによってもたらされた火を、人類が道具としたように、と少女は続けた。
「つまり、彼がこれからすることとは…」
「そう。【神秘】を暴く。それが【神秘】に対する最大の武器。刀も魔弾も効かないなら、それが一番手っ取り早い」
それ以上は何も言わず、少女は大和に向き直った。
大和はこちらには目もくれず、『彼女』と相対したまま言葉を紡ぐ。
「【矛盾】、それが君の【神秘】だ」
大和はまた刀を取り出して、ゆっくりと『彼女』に向かって歩いていく。
「空を飛びたいと思ったことは?鳥になって大空を自由に飛びたいと願ったことは?つまりは飛行願望。君にはきっとそれがあったはずだ。不治の病で病室から出られない君には」
そして大和は一枚の写真を取り出した。
それはどこかの病室。
写真には一人の少女と鳥籠に入れられた小さな鳥が写っていた。
その写真に写る少女は、どことなく「彼女」に似ているようにも見える。
「病室から出ることの出来ない君は、想像の中でどこにだって行けた。どこまでも飛べた。きっとこの鳥のように」
「彼女」は何も反応しない。
静かに、ただ静かに大和を待つ。
「でも、鳥籠の鳥は逃げ出した。君を置いて」
大和の脳に、空の鳥籠と空いた窓の光景が流れ込んできた。
それは【同調】の魔法。かつて自分が失墜させた【神秘】の一つ、その技術を使って、彼は『彼女』と高いレベルで一体化していた。
それは、傍目からは簡単なように見える。
しかし、それは非常に危険を伴う行動だった。
幽体は既に人間とは構成されるモノも、思考回路も言語体系も異なる。
幽体の微かな「ブレ」を翻訳して過去を識り、データのような「ゆらぎ」を読み取り感情を受け取る。
一歩間違えれば脳を溶かす程の情報量と高密度の魔力。
見るものが見れば、今の大和はピアノ線で綱渡りをしているように見えただろう。
「そして君は気づいた」
『ここも同じだ』
「彼女」が、初めて声を出した。
無論「彼女」は話せない。
意識も躰も、既に知覚できない次元に置かれている。
これは過去の残滓だ。
「彼女」が遺した最期の残り火。
それが今燃えている。
『ここは鳥籠。私の鳥籠。白い鳥籠』
「泣いてるのか…?」
風間は「彼女」の波紋に嘆きの色を感じた。
深い青。海より深い、哀しみの色だ。
「いいえ。アレはただの残滓。マナの波紋が空気を震わせているだけ」
少女はすぐにそれを否定する。
しかし、風間にはどうでもいいことだった。
「彼女」は今、確かに泣いている。
その思いが、風間の心を揺らしている。
『鳥は籠から飛び立つの』
『私の手を離れてしまうの』
『あぁ、それならば』
『私もこの鳥籠から飛び立ちましょう』
「そう、これが君の『原点』だ」
大和が「彼女」の目の前に立った。
「飛行願望。鳥なら空を飛んだだろう。でも君は鳥じゃない。残念ながら、君はただの人間だった。空を飛ぶことを選んだ君は、人間らしく地に落ちた。飛べない君は飛べないままに空を飛ぶことに取り憑かれ、【矛盾】の【神秘】を獲得した」
大和の刀の切先が、「彼女」の鼻先に迫る。
「相克する矛盾の怪物。それが君だ」
『ア…アァァァアアアア!!』
「彼女」が突然声を荒らげて大和に飛びかかる。
そこに先程までの揺蕩う少女の姿はない。
大和は涼しい顔をしてそれを躱した。
躱し際に、ついでのように腕を切り落とした。
『アァァァアアアア!!!!』
「彼女」の声が、別の色の悲鳴に変わった。
「全てを断ち切る刀には『全てを防ぐ盾』で【矛盾】を引き起こし、世界の修正力でなかったことにした」
再び「彼女」が飛びかかる。
そして同じように斬る。
鮮血に似た何かが散る。翠色のそれは、きっと「彼女」の命だった。
「大地を割る光も、同じく【矛盾】を修正する世界の力で無効化した」
失墜した【神秘】は、もう「彼女」を守ってはくれない。
「少しばかり【矛盾】の範囲が広い気がするけど、虚仮の一念というやつだな」
「彼女」は今も叫び続けている。
大和は顔色一つ変えず、「彼女」に向き直る。
「その【神秘】貰い受ける」
大和の刀が、一太刀で首を刎ねた。
「彼女」は最早幽体を維持することすらままならない様子で、首のないままズルズルと体を引きずっていた。
ただ、フェンスの方へ。
『ア…ア…』
残されたマナで、振り絞ったように空気を震わせる。
その姿は、まるで地を這う虫のようだ。
1mも進む頃には、残った体では這うこともできず、ただ溶けていく体を大和たちは見守るだけだった。
そして、どれほどの時間が経っただろうか。
「彼女」のマナは遂に潰え、その残滓が風に揺られて空に舞い上がった。
その最期は、まるで空を飛ぶように。
「これで終わりだ」
大和が少女に告げる。
それが合図であったのか、少女は大和に近寄っていく。
「おつかれさま」
「あぁ、帰ろうか」
大和は優しく笑って、少女と手を繋ぐ。
夕日は既に姿を消し、夜の帳が街を包む。
【神秘】は技術に。
非日常は現実に。
これは、一人の怪物の物語だ。
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