遊戯

袖谷が退職して早一週間が経とうとしていた。


皆あえて口には出さないが、西急ホールディングスには確実に平和な職場生活が取り戻されており、誰もが安堵していた。

もう誰も「社員」という肩書きを被った子供のお守りをしなくてよくなったのだ。


特に橋山に至っては、デリヘルのことをいつバラされるか知れないという悩みの種までなくなったのだ。彼の清々しい気持ちは、きっと他の社員以上のものだったであろう。



「橋山あ!お前まだ例のクレームの後処理できてへんのか!?」



いや、彼が完全に平和で清々しい気持ちで過ごせるようになるのは、まだまだ先のことかもしれないが。

今日もまた橋山は店長の怒声を浴び、こってり絞られるのであった。





「また一人、袖谷の代わりに誰か入れろって本社から連絡あったわ。」


やっと長時間の説教が終わった矢先、店長はぽつりと橋山にそうこぼした。


「援助金とか一企業の体裁とか色々あるんやろうけど、もう二度と袖谷みたいな奴はごめんやわ。

お前もええ勉強になったなあ、橋山。」


「・・・はい。」


「ま、今度は俺もしっかり面接で見極めて入れるようにするけどな。

とりあえず、障害者職業センターにまた求人出しといてくれ。」


「分かりました。」


一瞬、ほんの一瞬だけ、このやり取りにおいて、橋山は心の中で何かうずく感情があるのに気付いた。

しかし、見て見ぬ振りをすることにした。


それは彼にとってはいつものことだった。

ただ自分の感情を揺さぶるだけの気付きなど、どうでも良かった。


袖谷という人間はもう終わったのだ。そして僕は解放された。

振り返る必要なんてこれっぽっちもない。


それだけや。


橋山は早速センターに電話を掛けようと、受話器を取り上げた。







「私の指輪、知りませんかっ!?」


なぜもう終わった人間がここにいるのだろう。

夜の八時を過ぎた頃、橋山が自宅のドアを開けた先にいたのは、何と袖谷であった。


もうすぐ頼んだ配送物が届く時間だったため、インターホンの画面をしっかり確認しなかった自分を責めてももう遅い。

せっかく今日は早番やったから、夜はゆっくりしようと思ってたのに・・・。

顔を見るなり訳の分からないことを言い出す袖谷には、嫌な予感しかしなかった。


「あの、言ってることがよくわからへんねんけど。」


「この前ここに来た時、指輪落としたかもしれないんです!」


袖谷しては珍しく、慌てた様子で必死にそう訴える。


「いや、そんなもの僕一切見てへんから。」


橋山の返答を一切無視すると、また袖谷は強行的に家に入ろうとした。


「ちょ!!」


この前の二の舞はさせるかと、今度は素早くチェーンをかけることで、袖谷の行動を阻止することに見事成功する。

しかしドアの外でも、まだ袖谷はわめき続けていた。


「でもよく探したらあるかもしれないじゃないですか!?」


「ないものはないって言ってんねん!大体僕んち来たんは一ヵ月以上も前の話やろ?何で今更そんな言いがかりつけてくんの?」


「いつからなくなったからわからへんから、心当たりある場所は全部回ってるんです!

あれがないと私・・・、もうカズとより戻せへんようになるっ・・・!」


悲壮な顔でそう叫ぶと、袖谷はドアの前で項垂れ始めた。

こんなに参った袖谷の姿を見るのは、橋山は初めてのことだった。


酷いようやったら警察呼ぶのも厭わへんって思っててんけどな・・・。


橋山はチェーンを外すと、項垂れる袖谷に目線を合わせてやった。


「とりあえず・・・、お茶入れます。」




袖谷が茶を一口も飲むことはなかった。かと言って、橋山が危惧していたようにそこら中を探し回ることもない。

握った両の手を机の上に置いたまま、虚ろな表情で一点を見つめるばかりだった。


「・・・彼氏さんと別れたんですか?」


茶を一口すすると、橋山はそう切り出してやる。


「・・・指輪がないんは、俺への愛情がない証拠やって言われて・・・。

でも私ずっと持ってたはずやのに・・・、会社に行く時だって、ちゃんとひも通して首からぶら下げてたのに。

・・・よく考えたら、この家来た後もちゃんと持ってた気がします。

じゃあどこで・・・?」


言葉には出せなかったが、橋山は嫌な予感しかしなかった。


その指輪、彼氏自身が盗ったんちゃうか。

高いもんやったらまた売りに出せるし、体よく別れる理由にもなる。実際今がそうやんか。

まあ言ったところで、この子が信じるはずもないか。


「袖谷さん、とりあえず今日は指輪は見つかりっこないんやし、それにもう遅い時間なんやから帰り。・・・大通りまでやったら僕も送るから。」


「・・・。」


袖谷はしばらくの間ずっと黙りこくっていたが、ぼそりと呟いた。


「・・・帰りたくない。」


「へ?」


今度はしっかりと橋山の方を見つめながらこう言った。


「今日、橋山さんの家に泊まってってもいいですか?」


あかんに決まっとるやろ!?

貞操観念が弱いのか、ただの思い付きで口に出しているのか、いやそのどちらもであろう。こいつの発言には毎回度肝を抜かれるばかりだ。


「いや、それは絶対に無理やから!

袖谷さん実家暮らしやったよな?今頃親御さんも心配して・・」


「前から思ってたんですけど、橋山さんって私のこと好きですよね?」


「えええっ!?」


人の話聞けよ!?って言うか、どういう思考したらそんな捉え方になんねんっ!?


「・・・今日やったら特別にサービスしてあげても・・・いいですよ?」


袖谷はそう言うと、まるで獲物を狙い定めたかのような眼光で、橋山にゆっくりと近付いていくのであった。


「ちょ・・え!?いたっ!!」


ガタンと思い切り頭を床に打ち付けてしまう。

痛みも束の間、橋山の景色は一転し、目の前には袖谷の顔と天井が映る。

いとも簡単に袖谷に馬乗りになられた橋山は、その状態を認識するや否や、自分の血が逆流するような怖気に身震いしてしまった。


「ちょっ、どいて!!」


「今更照れんくていいですよ?それにこういうことしたかったから、あの日デリヘル呼んだんでしょ?」


橋山は必死に起き上がろうとしたが、憐れなことに袖谷の体重の重さに身動き一つままらならなかった。


袖谷は淡々と、橋山のシャツのボタンを外しにかかる。


「やめ・・!!」


露わになった橋山の上半身は陶磁器のように白く、そして脂肪一つない身はがりがりにやせ細っており、骨が浮き出ている程だった。


橋山のそんな貧相な体は予想していたものの、袖谷は分かりやすくがっかりした表情をしてしまう。

しかし、ここでやめるつもりはなかった。

緊張のあまり立ち上がってしまっている胸の双頭の一つを口に含むと、舌で軽く転がしてみた。


「んあっ!ちょっ!!」


瞬時、橋山の中に稲妻が走った。何やねんこの感覚!?

でも絶対のまれたくない!それにやっぱり、袖谷にこんなことされても気持ち悪くて仕方ないんや!


舌の行為を続けながら、袖谷の片手はどんどん橋山の下半身まで流れていった。

それが橋山自身に行き着いた時、とうとう彼は全力を持って何とか袖谷を引き剥がすと、床に思いっきり投げ倒すことに成功したのであった。


「やめろって言ってるやろっ!?」


あまりにも必死だったため、声が裏返る。


「はあ・・はあ・・。」


しばらくの間、橋山の乱れた呼吸音だけが響いた。

袖谷は崩れた髪を耳にかけ直しながら、橋山を睨み付けた。


「たってたやん?」


その袖谷の言葉に、橋山は羞恥と苛立ちが一斉に押し寄せてくる。

仕方ない。仕方ないことなんや。あんなのはただの条件反射でしかない。ただそれだけのことでしかないことやのに・・・。


「ほんまアホやな・・・」


気付けば橋山はぽろりとそう零していた。


「たってるからって・・・、だから自分が受け入れられてるって、ほんまにそう思ってんのかよ?」


袖谷はぽかんとした間抜け面で橋山を見つめている。

何かが吹っ切れてしまったのか、もう橋山の言葉は止まらなかった。


「自分がどんだけ男に相手にされてへんかわかってへんやろ!?

みんなあんたのこと馬鹿にしてるんやっ!?指輪だって一生見つかるはずがない!

・・・袖谷さんはこういう仕事向いてない!だって・・」


「うっさいわっ!!」


突如袖谷はそう叫んで立ち上がると、手にしたハンドバックで思いっきり橋山を、何度も何度も叩き続けた。


顔に当たらぬよう必死に手で受け止めようとする橋山だったが、それ以上抵抗することはなかった。


ひとしきり荒ぶり終えた袖谷は、肩で息をしながら橋山の家を出ようとする。

橋山はその様子をじっと目で追いかけた。


閉まりゆくドアの隙間から、袖谷の後ろ姿が消え失せていく。


橋山は口を開いた。



「・・・袖谷さん、僕のこと会社に言わんといてくれて、それに関しては、ありがとう。」



ばたりとドアが閉まる。


ようやく訪れた静寂にしばらく身を置いた後、橋山は荒れた部屋の後片付けに取り掛かるのであった。

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