経過
悪夢のような一夜から丸一日が過ぎ、橋山は内心びくびくしながら西急ホールディングスの門をくぐった。
職場に着くと遅番出勤ということもあり、既に多くの社員達が仕事に勤しんでいる。
その中には袖谷の姿も見える。相変わらず眠そうな顔で計上作業を行っていた。
「橋山さん、お早うございます。」
不意に横から女性社員の声が聞こえ、びくっと体を震わす。何気ない挨拶でも今の橋山には恐怖でしかなかった。
「あ・・・お早うございます・・・。」
「つい先ほど、さにわ運送から橋山さん宛にお電話があったので、折り返しのご連絡をお願いしますね。」
「ああ・・分かりました。」
・・・この感じやと、何も聞いてへんってことやんな?少なくともこの人は・・・。
「・・・あの、何か?」
「いえいえいえ!何でもないですはい。」
じっと様子をうかがう姿を怪訝に思ったのであろう、眉をひそめながらそう問われる。
橋山は逃げるようにその場を後にすると、更衣室へ入り込んだ。
「あっ、橋山さん!お早うございます!」
「あ、お早うございます・・・。」
入った瞬間、はきはきした特有の声が橋山を出迎える。そこにいたのは橋山と同じ主任職に就く石野であった。
今から休憩に出るのであろう。腰巻きエプロンをロッカーにしまいこむと、財布を片手に部屋から出ようとしていた。
「ああ、そう言えば・・・」
すれ違いざまに発された石野の声に、ドクリと心臓が跳ね上がりそうになった。彼の顔を振り返ることもできず、固まった状態で、橋山は次の言葉を待った。
「明日、臨時会議を開くかもしれないと店長が言っていました!決定次第メール連絡が来るとは思いますが、先に伝えておきますね!
それでは先に休憩頂きます!」
そう言うと律儀にぺこりと頭まで下げ、石野は去っていく。
一人きりになった更衣室で自分のロッカーの前まで来ると、橋山は思わずその場に屈み込んでしまった。
これからずっと、こんな冷や冷やした思いを抱えながら職場生活を送っていかなければならないのか・・・?
いつバレるともしれないという不安と疑心を抱きながら・・・。
しかしながら、びくびくばかりもしていられない。今日もやるべき仕事がまだまだあるのだ。僕がここでこれからもやっていくと決めている以上、怖がってばかりもいられないのだ・・・。
「ふう」と一息ついて気を取り直すと、仕事場に戻る。
そして自分の席に着こうとした矢先だった。
「橋山、来て早々やけどちょっとええか?」
心なしか深刻そうな顔をした店長が、橋山のすぐそばで突っ立っていた。
「・・・へ?」
店長の目は一瞬、ここから遠く離れた席に座っている袖谷に注がれる。すぐに橋山に目線を移すと、耳打ちするようにぼそりと囁いた。
「袖谷のことで話したいことがあるんや。」
また心臓がドクリと音をたて、今度こそ橋山はそのまま失神しそうになるぐらい頭が真っ白になった。
ああ、本当にこのまま倒れることができるならどれだけ楽だっただろうか。
袖谷の奴・・・、よりにもよってこの人に話してたなんて・・・、どんだけ恐ろしい女なんやこいつは・・・。
橋山は観念したように「はい」と答えると、隣の部屋まで移動する店長についていった。
「袖谷の仕事ぶりについてねんけど、最近更に酷くなっとるやろ?」
「えっ・・・?」
部屋につくなり立ったままの状態で、店長はそう切り出してきた。
どういうことや?別にバレたってわけではないんか・・・?それとも遠回しに入って徐々に本題に入っていくパターンなのか・・・?
「え?じゃあらへんやろ。俺よりもお前が一番よう見とるんちゃうんか。」
「あっ、ああはいそうですね。」
どうやら本当にバレたわけではないらしい。
「昨日も酷かったんや。お前は休みやったけどな。
午前中の間はほんまずっと突っ伏したままやってんであいつ?
さすがに午後からは個人的に面談して、どうしてもしんどいんやったら辞めたらええやろって催促したわ。返答はいつも通り要領をええへん感じやったけどな。
俺達も色々働きかけてきたけど、ここらで潮時やろ?」
いや、あんたはそんなに働きかけてないやろ・・・。
しれっと「俺達」という言葉を使った店長に思わず心の中で毒づいてしまう。
袖谷の職務怠慢に直接迷惑を被ってきたのも改善を働きかけてきたのも、全ては主任の僕と、同じ課の部下達なのだ。
たまに説教するぐらいでその一員であるかのように振舞うのは止めて頂きたい。
「最近では本社の方もな、できる限り手尽くして、それでも改善見られへんのやったらもう契約更新なしでええって言ってくれてんねん。
とりあえず橋山も主任として、一回面談とか何なりやっといてくれ。最近は労基も厳しいからな。万が一のことがあった時に、ここまでやったっていう体裁は必要なんや。
ああ、だから面談したら絶対記録は取っとけよ。
・・・ごちゃごちゃ言ったけど言いたいのはそれだけや。頼んだで。」
「分かりました。」
店長はそう言うと、橋山を残しさっさとその場を後にした。
ほんと、この人の話長すぎるやろ・・・。
いやそんなことよりも、この分やと今のところ袖谷はほんまに誰にも言うてへんみたいやな・・・。
ほっと胸を撫で下す。まだ油断はできないが今のところは安心してもいいのかもしれない・・・。
それにだ。
風向きはいい方向に向いてきているではないか。袖谷がいなくなれば、もう僕がバレるバレないで冷や冷やする必要など一つもなくなるのだ。
願わくば、それまでバラされないことを祈るまでやな・・・。
橋山はほんの少しだけ希望を抱き、ようやく席に戻ると仕事を始めるのであった。
*
「袖谷さん、ちょっといい?」
店長の話から数日後、今日の仕事が一段落した橋山は、もうじき就業時間が終わる袖谷にそう声を掛けた。
「今からちょっと話したいんやけど・・・」
「・・・何の話ですか?」
袖谷はそばに立つ橋山を怪訝に見上げる。
「いや仕事の話をちょっとさ・・・」
「私、もうすぐ上がりなんですけど。」
そういうとぷいとパソコンに向き直った。
だからこの女は・・・。
苛立ちを抑える橋山に、ふと袖谷のパソコン画面が目に入る。
その瞬間ぎょっとしてしまった。
画面一面に派手な髪形をしてスーツに身を包んだホスト風の男、いやどう見てもホストの男が何人も表示されていたからだ。
「あの・・・これは一体・・・」
そう指摘されるや否や、すぐに袖谷は右上のバツボタンをクリックするとそのページを消去させた。その瞬間、見慣れた青色のデスクトップが戻ってくる。
今更ながら、袖谷の行動には呆れを通り越してしばらくの間言葉が出ない。
「・・・袖谷さん、やっぱり今すぐ話そう。今あなたのやってたことは、職場ではあり得ないことなんやで?」
「・・・。」
袖谷はぶすっと膨れっ面になりながらも、しぶしぶ橋山についていくのであった。
「・・・さっきの画像もそうやし、普段の居眠りもなんやけどさ、最近、職務放棄が尋常じゃないやんな?」
「・・・。」
袖谷は決して目を合わせない。開いた足の間に両手を置いた状態で椅子に座り、明後日の方向を向くばかりだった。
「体裁」か・・・。そんなものがどうでも良くなるくらい、ほんとに意味のない面談を今僕はしているのだろう。
そうは言っても店長命令である以上仕方なかった。
「最近、疲れてることでもあるの?」
言いながら橋山は、はっとしてしまった。
「・・・、それわざと聞いてるんですか?」
袖谷が初めてこっちを向いてそう問いかけた。
そうだ。当たり前のことだった。
袖谷の態度がここ一段と酷くなっているのはデリヘルを始めたからだ。フルタイム出勤に深夜営業の仕事を加えるなど、考えるまでもなく体力が持つはずもない。
「・・・体力が持たんのに仕事をやるべきじゃないと思う。どちらか一つをやめんとどうしようもないやろ?」
「でもお金がいるから仕方ないじゃないですか?」
「それで周りに迷惑を掛けるのはおかしいよな?」
正論で返しても意味がないのは分かり切っているのに、それでも橋山は真っ向から正論を振りかざす。
案の定袖谷は鬱陶しそうな目付きで橋山を見つめると、ぼそりと呟いた。
「どっちをやめればいいと思ってはるんですか?」
そんなこと僕に聞くなよ!?
そりゃあこっちの店を辞めてくれれば僕だけでなくほとんどの人間がほっとするやろうが、さすがにそんなことをここではっきり言えるわけもない。
「・・・この店を辞めればいいと思ってはるんですか?」
「・・・いや、別に僕はそうは言ってな・・・」
「前に店長と面談したとき、そんなかんじのこと言われました。
橋山さんもそう思ってるんですよね?だからこんな面談してるんですよね?
そりゃそうですよね。私がいたらいつあの時のことバラされるかわからないですもんね。」
ギクッとした橋山をよそに袖谷は小馬鹿にしたように口元に笑みを浮かべる。
「今から彼氏とデートなんで。おつかれ様です。」
袖谷はその場を立ち上がると、さっさと出て行ってしまった。
残された橋山はしばらくそこから動けなかった。
組んだ手の上に額を乗せる。
祈るようなポーズで、これからの自分の未来を強く案じるばかりだった。
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