衝撃

開いた口が、塞がらない。


まさにこういうことを指すのだと思う。


橋山が緊張と期待の中ヘルス嬢を待つこと数十分、ドアを開けたその先にいたのは西急ホールディングス一の問題児、袖谷麻里奈に他ならなかった。



「・・・。」


 

驚いたのは袖谷も同じことだった。しばらくの間は何も言えず、ただ橋山を見つめ続けるばかりだった。


「・・・橋山って、橋山さんのことやったん・・・?」


「え・・・え・・、えと・・・・えっ!?」


橋山の驚きはその比ではない。


何で・・・、何で袖谷がここにいんねん!?

何で袖谷がこんな仕事してんねん!?


店に知り合いがいる限りバレるはずがないって思っていたのに、めちゃくちゃ知ってる奴がヘルス嬢って・・・、こんなことあるんかよっ!?


「あ・・あの、これは多分何かの間違いで・・・、あ、多分僕、間違って電話したんやと思う・・・、ほんとは出前を頼みたかっただけで・・・」


橋山はもう自分で何を言っているのか分からなかった。何を言っても、もう遅いのは頭では理解しているのに、意味のない言葉がぽろぽろ口から零れ落ちた。


「・・・は?」


袖谷の訝し気な目付きで、はっと我に返る。


「とりあえず・・・キャンセルで!!」


そう言うや否や、すぐさまドアを閉めると鍵をかけた。


どうしたらいい?どうしたらいいんや!?

デリヘルを利用したことが職場の人間にバレてしまった。

よりによって袖谷麻里奈に!


明後日からの出勤を考えるだけで、頭が痛くなりそうだ。


あの女のことやからすぐに周りに広め始めるに違いない。そうなれば僕の立場はどうなるんだ・・・。下手をすれば主任という立場を追われる可能性だってある。それがなかったとしても、周りのひそひそとした噂話や嘲笑にこれから耐える必要が出てくるだろう。

想像するだけでぞっとした。


いやしかし・・・、袖谷は周囲からの信頼が一切ない女子だ・・・。

ただの見間違え、もしくは僕をからかうための虚言だと言い張れば、上手くかわせる可能性だって・・・


そんな橋山の思案は一旦中断させられることとなる。いきなりけたたましい回数で呼び鈴が押されたからだ。


すぐにスコープを覗くと、案の定袖谷がインターホンを連打していた。


こいつ・・・!!


受話器を取った瞬間、橋山が喋るよりも先に袖谷の大きな声がキンと耳に響いた。


「キャンセル料、もらってない!!」







ほんまに、何でこんなことになったんやろう・・・。


橋山の自宅にて、今橋山と袖谷は、机に向かい合わせになりながら互いに茶をすすっていた。

それもなぜだか橋山は正座、袖谷はあぐらをかいた状態でだ。


丈の短いスカートからは今にも下着が見えそうであるが、そんなこともはや橋山にはどうでもいいことだった。性欲などとっくに萎えてしまっている。




キャンセル料の要求をしてきた袖谷に対し、橋山はすぐさまお金を渡して引き取ってもろおうとドアを開けた。


その瞬間だった。

袖谷がぐいと自分の体をドアの隙間にねじ込ませると、ものの見事に玄関口に侵入してみせ、自らの手でドアを閉めたのだ。


一瞬の出来事に橋山は唖然とするしか他なかった。

いつもの気怠さに満ちたのろのろした動きは何だったのか・・・。こんな時にだけ俊敏に動けるなんて、こいつは本当に一体何者やねん・・・。


袖谷の動きはそれだけに留まらなかった。

勝手に靴を脱ぎ始めると、事もあろうにずんずんと目の前のリビングに上がり込み始めたのだ。


「ちょっ・・・!!」


袖谷がくるりと橋山の方に向き直った。


「キャンセルされたら、もうけにならへんから・・・。

一度呼んだんなら、責任持って、最後までつきあうべきちゃうんですか?」


お前の事情なんかしらんがなっ!!?

橋山は喉のすぐそこまで出かかった突っ込みを何とか抑え込んだ。


何で客である僕の意思が完全に無視されてんねん?しかしながら、今の自分には何の決定権も持っていないことは、よく理解していた。


とにかくこれ以上事を荒立てず、穏便に、そしてできればこのことを内密にするよう約束した上で引き取ってもらう、これが今の最重要事項だからだ。


「・・・わかりました。・・・じゃあとりあえず、お茶でもどうぞ・・・。」


そうして今の状態に陥ってしまった、というわけであった。




ただただ沈黙だけが、この場を支配していた。あえて聞こえる音と言えばお互いのお茶を飲むごくりという音、コップを机に置くこつんという音、それだけだ。


当たり前だ。この女と今更何を話せばいいというのか。

橋山はちらりと机の上に置いた腕時計を確認してみた。契約した90分コースが終わるのは、まだまだ先の時間だ。

この苦行、いつまで耐えればいいのか・・・。


そう考えあぐねていると、不意に袖谷の方が沈黙を破った。


「・・・なんで、私を選んだんですか?」


は・・・?最初は袖谷の言っている意味が分からず目を丸くしたが、すぐにああ、と理解した。


「いや・・・、全然違うやん。サイトに写ってる顔。勿論名前もちゃうしさ。・・・分かるわけないやん。」


というか、分かってたら呼ぶわけないやろ。キャンセルって言った意味、ちゃんと分かってんのかな、この子・・・。


ふっと、袖谷が馬鹿にしたように鼻で笑った。


「でもよく見たら私ってわかりますよね?・・・何か、焦ってはったんですか?」


どういう意味やねん。無論口には出さないが心の中でそう思う。

ただ言われてみれば、袖谷の見解は当たらずも遠からずという気もしてきた。確かにあの時の僕はヘルスを利用することに心が浮かれすぎていた。

もう少し冷静に見ることができていなら、こんな失態を犯すことはなかったかもしれない。


だがそれでも昨今の写真補正技術には恐ろしいものがあると、目の前の袖谷を見ながら感じずにはいられなかった。

どこが純朴そうやねん・・・。


「・・・袖谷さんはさ、この仕事やって長いの?」


今度は橋山の方から質問してみる。


「・・・一週間前からです。」


つい最近かよ。つくづく自分の運の無さに辟易しそうになる。


「・・・何で、いきなり始めたん?」


「それ、言う必要あります?」


「・・・いや、別に言いたくなかったら言わんくていいけど。」


「彼氏に紹介されたんです。」


言うんかよっ!?しかも彼氏の紹介って・・・。


ホストの存在は当然橋山は知らなかったものの、この発言だけでどういった種類の男と付き合っているのか、そして袖谷が完全に遊ばれている存在でしかないことを把握せざるを得なかった。


「お金・・・、いっぱいいるんで。」


「・・・はあ、そうですか・・・。」


金がいるんはその男の方やろ。ほんまどうしようもない女やな。


茶を全て飲み終えた袖谷は、伸びをした後カーディガンを自分の体に被せ、事もあろうにその場でごろりと横になった。

まるで自分の家で過ごしているかのような悠々自適ぶりに、またも橋山は唖然とさせられてしまう。


「・・・へ?」


「時間きたら起こしてください。私疲れてるんで。」


「・・・いや、あのさ・・・」


「・・・やりたいんですか?」


「は!?何を・・・!?いや、そうじゃなくて!・・・」


「やりたくないんやったらこれでいいでしょ。じゃあ寝ます。」


どこまで図太い女やねん!?

しばらくすると、すうすうと袖谷から寝息が聞こえてきた。

カーディガンからあられもなく出される二本の生足、寝込みという絶好のシチュエーション、本来なら男の欲を刺激するだけの要素も、やはり今の橋山には一切反応しうることのないものだった。


むしろずんと胸が重くなり、思わず「はあ」とため息が零れ落ちる。


今までの人生三十ちょっと、恥も迷いも多いものだったが、今日ほど自分の選択を呪ったことはない。


最悪や。・・・ほんまに最悪や。

もう二度と僕がデリヘルを使うことはないだろう。



しばらくして所定の時間がやっと訪れると、橋山は袖谷を起こしてやった。

まだ眠そうな袖谷であったが、橋山が用意した90分コースのお金を受け取ると、何も言わずに帰っていった。


このことを黙っておくようになど、もはや橋山には到底発する気など起きなかった。

もはや自分の言葉など何の意味も持たないことに、改めて気付かざるを得なかったからだ。


無駄な金に、無駄な時間・・・。


僕は本当に馬鹿だ。


帰宅当初の倍以上の疲れを感じながら、ようやく一人きりになった部屋のソファに体を埋め、橋山は死んだように眠りについた。

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