第5話 友情と愛情

 昼飯に冷たい蕎麦を食べたくて、家から一番近い蕎麦屋に足を運んだ俺は、偶然にもそこで香里と出会った。


「お前も蕎麦の気分だったのか?」

「……」


 タンクトップに短パン、肩甲骨まである髪を一番上で結った香里は、蕎麦を啜る途中で止まっていた。有り得ないモノと出会ってしまったと言いたげに目を見開いたその姿は、年頃の女の子としてどうなのかと思うほどマヌケな様だった。

 チュルチュルと蕎麦を吸い上げた香里は俺から目を背け、迷うように結い上げた髪を下ろした。いつもより大人しい彼女に違和感を感じながらも、俺は正面の席に腰を落ち着ける。


「サンダル履いてないだけまだ女子だな」

「うるさいなぁ」


 店員のおばちゃんにざるそばを注文すると、香里も食事を再開させる。食べにくそうに髪をかきあげるその姿は、少しだけ可愛く見えてしまう。彼女なりの女子力表現なのだろうか。

 特に会話という会話も無く、飯を食べ終えた俺たちは適当に携帯をイジって時間を潰す。いつの間にか薄く透けるカーディガンを着ていた香里は、ずっとソワソワとしていて何度も足を組み替えたりキョロキョロしたりしていた。


「香里。それ、暑くないのか?」

「暑くないし! ここクーラー強いだけだし!」

「あら、香里ちゃんごめんねぇ。すぐエアコン切るからねぇ」

「え、あっ! 大丈夫だよおばちゃん! 寒くない寒くないよ!」


 店員のおばちゃんが申し訳なさそうに空調のリモコンを操作し始めたことで、香里は焦って席を立つ。俺はおばちゃんと香里の寒い寒くないのやり取りを見つつ呆れていた。

 何やってんだアイツ。

 二人の攻防が終わると、香里は俺の隣りまできて黙って見下ろしてくる。いつまでも話しかけてくることもしない香里にあまりにも居心地が悪過ぎて、俺は彼女を見上げながら声を掛けた。


「なんか今日おかしいぞ。どうしたんだよ」

「タカラ……時間、あるかな」


 やっぱりおかしい。つまり、出掛けるからついてこいって事だろ。こんな遠回しに言ってくる奴ではない。いつもなら予定も聞かずに手を引いてくるタイプだ。


「あぁ、どこ行くんだ?」

「あ〜、ん? んん〜……。学校の、近く?」

「なんで逆に聞くんだよ。まぁいいや。早く行こうぜ。夕方には帰るからな」

「……うん」


 会計を済ませて店から出ると、ここ最近で一番暑い風が俺たちを包んだ。熱風という言葉が似合うそれに身体中が反応して汗をかこうとする。こんな中を学校まで歩くなんて物凄く億劫だけど、少し前を行く香里がいつもより頼りなくて、今更断る気も起きなかった。


 学校のグラウンドを横切ると、いつもいるはずの子供たちはほとんど遊びに来ておらず、校舎の影から聞こえる僅かな笑い声はどこか寂しく感じた。

 学校を通り過ぎ、お墓を通り過ぎ、住宅すら無くなり、あるのは田んぼに小さな小屋。舗装されていない土の道に一つだけ置かれた自販機。

 顔を拭う腕すら汗でベトベトで、いい加減疲れてきた俺は、香里の肩を掴んで止めようとした。


「待てよ香里! どこまで……っ!」


 その時、引き止めた自分を後悔した。

 振り向いた彼女は不安そうな顔で笑い、その目から一粒の滴が流れ落ちる。

 なんで……なんで泣いてるんだよ。


「もうちょい。へへっ、ごめんね暑いのに」

「……おう」


 かける言葉が、見つからなかった。


 いつもの厚かましい態度はどうした?

 いつもの大胆な歩き方はどうした?

 いつもの……明るい笑顔はどうした?


 何も言えぬまま、目を擦る香里の後を追う。

 彼女が足を止めたのは、あぜ道の横で不自然に成長した大きな木の影だった。


「ここ、覚えてる?」


 香里は背を向けたまま話しだす。

 忘れるわけが無い。俺と香里と聡太、俺たち三人だけの秘密基地だ。小学生の時、木の後ろにダンボールを組み立てて小さな家を作った。少し覗けば、まだ床に使っていたくたびれたダンボールが残っている。


「覚えてるけど……」

「誰も来なくて、いい場所だったよね。私たちだけの場所」


 ようやく振り向いた香里は目を少し晴らし、それでも、ちゃんと笑顔を作ろうとしている。


「あの時から随分経っちゃったね。私も、タカラも。変わらなくていいと思ってたけど、やっぱりそうもいかないみたい」

「……」


 彼女はシャツの裾を握って、精一杯の勇気を振り絞ろうとしていた。それがわかったから、俺は彼女の言葉を待つことにした。

 震える唇、握りしめられた拳。不安が全身から溢れる香里は、いま、一歩前に進もうとしている。

 もう子供じゃない。そう言い張るように。


「私、タカラが好きなんだ。多分、この秘密基地を作ってた頃から。ずっと、大好きだったんだ」


 木漏れ日の中で、彼女は笑う。

 ありがとう。

 嬉しいよ。

 そう言ってあげたかった。

 だけど……。

 真剣な香里に、そんな自己満足の優しさはかけられない。

 ちゃんと、言わないと。


「ごめん。俺は……」

「わかってるよ。奈々姉が好きなんだもんね?」


 被せるように香里は続ける。よく理解しているから、彼女は泣いていたんだと思う。

 現実思考で、俺を誰よりもよく知っている彼女は告白が無意味なことを痛いほどわかっていた。だからこそ、前に進まないといけない。そう思ったのだろう。


 喉が焼ける。暑さのせいじゃない。俺も、彼女の勇気に答えないといけない。


「俺、今日告白するつもりなんだ。奈々美さんに」

「だろうね。今年は顔つきが違うもん。だから、先に言いたかったんだ」

「……」

「付き合いたいとか言わないよ。私がすっきりしたかっただけ。ごめんね付き合わせて」


 香里は拳を開いてヒラヒラと手を振った。さっきまでと違って少し憑き物が落ちたようなその顔を、俺はずっと忘れる事はないと思う。

 帰ろっか? と横を通り過ぎる香里。俺はその背中に向かって、一つの誓いを立てる。


「香里、俺逃げないから」

「ん、見ててあげるね」


 来る時と同じように、香里の後ろを少し離れて歩く。失敗するのがわかっているのに告白した彼女が、誰よりも格好良く見えた。


 家の前につく頃には香里も元通りのテンションで(無理矢理そう見せていたのかもしれないが)、手を振ってお互いの家に入った。

 自室にエアコンを入れ、ベッドの上に倒れ込む。

 ようやく堅い決心がついた。


 香里、ごめん。ありがとう。


 心の中で繰り返して、祭りの時間が来るまでそのまま動かずにいた。

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