第2話 タナちゃんとサリー先輩 Ⅱ
◆Ⅱ
「そろそろ、ティータイムにしようか」
サリー先輩は指をぱちんと鳴らした。小さな音が時間を区切る。
「続きはテラスでね」
わたしが体から離れると、サリー先輩はすくっと立ち上がる。足で靴をさぐって、つま先を鳴らして履く。次にデスクに目をやって、そこに置いてあった薄い紙束を取った。白い机の上に白い紙束、見落としていた。黒電話の横にずっと置かれていたらしい。
サリー先輩はわたしを横切って言った。
「おいで」
引き戸を開けて外に出ていってしまう。わたしは後を追った。
どこまでも白い廊下が続く。まるで色を忘れさせようとするみたいだ。右手側にずらりと戸が並ぶ。それらも白く、注意して見なければ、どこまでも壁が続いているだけに見える。振り返っても、もうさっきまでいた部屋がどこかわからない。一人だったら、永遠に迷ってしまいそうだ。わたしはサリー先輩の背中を追った。
わたしがこの世界に来てから、日はすごく浅い。一回眠ったのだから、一日は経ったのだろうか。この世界の時間感覚はひどく曖昧で、時計はどこにもない。だから、昨日と表現して本当に正確なのかはわからない。だけど、そうとしか表現のしようがない。
昨日、わたしはこの世界にやってきて、それ以前の記憶はぜんぜんなかった。わたしは唐突にここにいて、死神と呼ばれ、自称しなければならない存在になっていた。それまで、なにをしていたのか、誰なのか、全てどこかに置いてきてしまった。ここじゃない世界が存在していて、わたしは本来そっち側にいたという、そんな感覚だけがはっきりしている。
この世界で、最初から着ていた白い服。その胸のところには白い糸でタナカと縫いつけられていた。それを見つけたときは嬉しかった。わたしの名前はタナカ、それは間違いないような気がする。
「タナちゃん?」
「ひゃい!」
いきなりサリー先輩の顔が近くにあって、わたしは驚く。
「なに? 考えごと?」
「ええと……言ってたじゃないですか、彼」
「うん」
「自分が誰なのかもわからないって、わたしも、自分がタナカってことだけしかわかりません。それってすごく……」
「すごく?」
「変……」
サリー先輩は、思案するように目だけ左右させた。
「変じゃないですか?」
「ウチもそう思う」
それだけ言って、また歩き出す。
わたしは背中とか、ちょっと早足して横顔に話しかける。
「サリー先輩はベテランさんなんですよね」
「まあ、多分、長い方かな」
「自分のこと、思い出せましたか?」
「んにゃ、なにも」
「そうですか……」
目を覚ましてから、わたしは何人かの死神を見たり、会ったりした。死神にも序列があることを知った。基本的には年功序列らしい。みんな歳を取らないから、若い姿だけど、なんとなく雰囲気でわかる。長い年月を過ごしたということが、いわば魂のしわのように仕草や言動に現れる。死神の頂点は、エルシスと呼ばれている。
「エルシスさんなら、なにか知っているんでしょうか?」
「ネエちゃんさんか……どうだろね」
「エルシスさんは、なんでも知ってるんですよね」
「なんでも知ってるわけないじゃん。結局、ネエちゃんさんは神様じゃない。ネエちゃんさんが知ってるのは、この死神の世界、モノクロームの中で起きたことだけだ。それは見たままの壁じゃない」
サリー先輩は壁を撫でながら歩いた。わたしも触ってみる。壁はほのかに温かい。
「ウチらはもっともっと大きな枠組みに囚われてる。この世界の外には出られない。電話を通じて外の情報を得ようとするけど……」
わたしは言葉の続きを引き取った。
「それも好きにつなげられるわけじゃないですよね」
「そう、タナちゃん、頭いいね。話す相手が決められているんだ。話す内容も神様の想定内なのかもしれない」
わたしはうつむいた。白い床。白だけの世界。作りものの世界。
「なら、全部、神様の思うまま……」
サリー先輩も知らないなら、エルシスさんも同じだとしたら、わたしが自分を見つける日は、永遠に来ないように思える。
「でもルールはちゃんと決まってる」
サリー先輩はわたしの肩を揉んで揺すった。
「ルール?」
「電話が成功したら、食べものが出てくる、とかね」
「ああ。あ」
わたしのお腹がグーッとなる。恥ずかしかった。おそらく丸一日なにも口にしていないから、無理もなかったけど、不謹慎な感じがした。
「ウチもお腹すいた。早く行こう」
角を曲がると視界が開けた。大勢の死神のかしましい談笑が一気に大きく響く。高い声、低い声、そして食事の音、食器のぶつかる音、椅子を鳴らす音、手をたたく音、すべて混沌と満ちている。それはわたしを圧倒するには充分だった。
駆け寄って、欄干から吹き抜けの下を覗く。段々に、どこまでも続いている。いっぱいに人で埋まっている。巨大なオペラホールみたいだ。しかし真っ白に明るい。この世界には昼しかない。太陽のような光源はなく、すべての壁、天井、床が同じ程度に光っている。
「ここがテラス」
わたしは振り向く。
サリー先輩がすっと長い腕を伸ばして示す。
「で、あっちにロッカーがあるよ。報酬の食べものが出現する魔法のロッカー」
見ると路地がある。道標はない。
「心配だろうけど、道は嫌でも覚えるよ」
路地の奥に入っていく、肌寒い場所、ずらりと白いロッカーが並んでいる。サリー先輩はその中から一つを選んで、鍵を開ける。中はからだった。そう思ったが、すぐに見えてくる。白い空間にはぽつんと白い箱が一つあった。
「これがさっきの報酬」
「本当に、出てきたんですよね」
「どこからともなくね。手品みたいに」
ちょうどケーキを入れる箱そのもので、上部にはちょこんと取っ手がついていた。サリー先輩はそれを摘んで持ち上げた。ぱたんとロッカーを閉める。
「オートロック。鍵は開けるときだけ。ハイテクでしょ」
ロッカーをさらに奥に進んでいくと、パントリーに出る。数え切れない数の食器が並んでいる。あまりにも整然と並びすぎているので、頭の中のマッドハッターと三月うさぎが、すべてをめちゃくちゃにしたがる。わたしはじっと衝動を堪えた。彼らは直すと言って壊してしまうし、なんでもない日を祝っている。
「ここにあるものは、好きに使っていいんだよ。悪いけど、ティーセットと食器を持ってくれる? どれでもいいよ。タナちゃんのセンスで。お皿とフォークがあればいいかな」
わたしは頷いて、食器を選び始めた。種類が多くて困ってしまう。
「ええと……」
「あ、二人分ね」
「二人分ですか?」
「うん、お腹すいたでしょ、半分個にしよう」
「そんな、わたし、なにもしてないですから、というか、邪魔ばっかりして……」
サリー先輩は、寂しそうな目をする。
「嫌だよね。人を殺したみたいな気分だし、人間の魂を喰らっているのかもしれない」
図星だった。箱の中になにがあるにせよ、食べたい気持ちにはなれなかった。死神が魂を貪るイメージはずっと頭の中にあった。もしかしたら生々しい心臓が入っているかもしれない。
「でも、今回は二人で話を聞いたでしょ」
「なんの役にも立てませんでした」
「ウチだって彼の役になんか立ってない。死の運命は変えられないんだよ」
わたしは答えなかった。死の運命を変えられる気がしていた。今回だって、彼の行動を大きく変えたはずだ。死のうとしていた彼が最後の最後で生きようと決意したのだ。
しかしベテランの言葉はずしりと重い。サリー先輩は多くのことを経験してきたのだ。彼をただ見殺しにしたとは思えない。
「食べることは責任なんじゃないかと、ウチは思うんだ」
「……責任?」
「そう、ウチらが食べなかったら、誰かが食べるか、腐って消えるだけ。そしてウチらは餓死する。実際、そういう子も多いんだよ。それって良いこと?」
わたしは餓死する死神の気持ちがわかる気がした。わたしなんかで良かったと思えない。彼は許さない。彼……彼……そこではっとする。わたしは彼の名前さえ聞いていなかった。それくらい聞くべきだった。散々、話していたのだ。言い訳はできない。
見透かしたようにサリー先輩は言った。
「彼がなんで死んだか、知りたい?」
「教えてください」
わたしは迷わなかった。
恐いけど、知らなければならないと思った。
「これが全て、ウチらにわかることはね」
サリー先輩は紙束から、一枚選び出し、わたしに渡した。
すぐに読もうとしたが、真っ白だった。
「あそこの席」
サリー先輩は指す。
「見える?」
また顔を近づけてきた。
「は、はい」
ちょっと離れた所にある。眺めが良さそうな高台だ。眺めと言っても、モノクロしか見えそうにないが。静かな、辺鄙な場所だ。
「先に行ってるね」
サリー先輩はひらひらと手を振って、行ってしまった。
わたしは食器を選ぶのに迷ってしまう。結局、無難なものに決めた。
それから駆け足で追いかけたが、サリー先輩は席について待っていた。
「待ちましたか?」
時間の感覚はやはり判然としない。
「ううん、早かったね」
わたしはティーセットを置いて、選んだ食器を純白のテーブルクロスの上に並べる。なにかこぼしたら、永遠に失われてしまいそうな白さだ。
「座って座って」
わたしは言うとおり座る。白い椅子は真新しい感触でふかふかしていた。
「いま気づいたよ。今日ずっと、たちんぼさせてしまった。悪かったね。椅子もう一つ用意しとけば良かった」
わたしは首を強く振って、否定した。本当にそんなこと気にしていなかった。
サリー先輩は小さく頷き、目を伏せたままにした。
「中身なんだと思う?」
視線は白い箱を指していた。
「ケーキでしょうか……」
わたしは曖昧に答えた。
「多分、正解」
サリー先輩は、腰を浮かせ、手を伸ばし、箱を開く。箱から出てきたのはモンブラン一つだった。見る機会が少ない、甘いだけのタイプだ。渋皮を混ぜて風味を増したタイプではない。違いは色を見ればわかる。モノクロの世界の中で、モンブランは黄金に光っているようにさえ見えた。しばらく見とれてしまった後、わたしは思い出して、ティーカップに紅茶を注いだ。紅茶にも色と香りがあった。
「これが魂かもとか、普段は考えないよ。でも今日はセンチな気分だね」
「ごめんなさい」
「タナちゃんのせいじゃないよ。たまにはそういう気分にならないとね」
サリー先輩はナイフとフォークを取って、モンブランを丁寧に二等分した。それを箱から出して、皿の上に寝かせる。てっぺんに乗ったクリもキレイに等分だ。わたしは空いた箱を畳んで片づける。折り目がついていて簡単だった。
「タナちゃん、紅茶淹れるの早いよ」
「ご、ごめんなさい」
「嘘、嘘、ウチ、猫舌だから良いんだ」
「あ、わたしもです」
「そか」
サリー先輩は両手を合わせた。
「祈らないとね。タナちゃんも好きなふうにして」
わたしはサリー先輩をならった。
少しずれて始まって、
「いただきます」
「いただきます」
最後は重なった。
サリー先輩はモンブランをフォークでつっつく。それが少しサディスティックに見える。
わたしはやはり食べる前に読むことにした。
サリー先輩がくれた用紙には男の死の真相が書かれている。
「あの、読んでいいですか」
「あ、まだ読んでなかった?」
「はい、いくじがないから」
「いくじがないか……。んにゃ、いくじあるよ」
サリー先輩は半分になったクリを転がしている。
「読んでていいよ。ウチは食べてるけど」
「はい」
白い紙に白い字、読みにくいが、読めないわけではない。白にも色々ある。わたしの目は徐々に明暗に慣れ始めていた。紙に書かれている内容は、男の死にまつわることだけだった。事務的で短く、彼がどんな人だったかとかは知ることができない。死の履歴書みたいなものだ。完成されたフォント文字の合間を縫って、たくさんの手書き文字が足されている。サリー先輩が書き込んだのだろう。
男は言っていたように練炭自殺を測っていた。しかし死ぬことを最後まで決め兼ねて、一ヶ月もの間、家に引きこもり、なかなか実行に移せなかった。玄関も窓も締め切り、内側から板まで打ちつけて、ずっとヘッドフォンで音楽を聞いていた。
だから気づかなかった。彼の街に隕石が落ちることを、彼は練炭自殺を図ったその日、隕石の衝突によって死んだのだ。体は木っ端微塵になって、それと一緒に、彼の思いもなにもかも吹き飛んだのだ。最初からなにも起こらなかったように。
「馬鹿みたい」
わたしはそうこぼした。
サリー先輩が答える。
「馬鹿だし、間が悪い。こんな死に様、なかなかないよ」
わたしは眉をひそめる。最後に気になるメモ書きを見つけたからだ。
『かわいい声に罵倒されるのが好き』
わたしは指差して聞いた。
「なんですか、これ!」
「最後のメモはオーダー。ネエちゃんさんがたまに書いてくれる。データベースから、彼の性癖がわかったんだね」
「だから、酷いこと言ってたんですか」
「まあね、彼はあれで大喜びだったわけ、で元気が出たと。理解に苦しむよ」
エルシスさんからの無茶振りで、必死の罵倒があれだったのだ。
「ダメ犬ーって」
サリー先輩のことがかわいく思えた。
「ちゃかすなや」
「驚いちゃいました」
「もー」
「サリー先輩って実はすごく、優しいんですね」
「そうだよ、優しい死神、サリーちゃんとはウチのこと」
わたしは笑って、用紙をサリー先輩に返した。
「笑えてないよ」
サリー先輩は用紙を受け取る。
どうして笑おうとなんかしてしまったんだろう。
「結局はウチの自己満足だったんだよ」
「え?」
「絶望の中、人を恨みながら死を選ぶのと、希望を持った瞬間に殺されるの、どっちがマシなんだろう」
「わたしは良かったと思います。あれで良かったと思います」
「わかんないよ」
サリー先輩はまるで、わたしの思うことを、代わりになって吐き出そうとしてくれているみたいだった。だけど、わたしは自分の本心がわからない。
サリー先輩は話題を変えた。
「そうそう、電話の内容によって出てくる食べものが変わるんだぜ?」
「本当ですか?」
「本当。わたしはモンブランが食べたかっただけ、ひどいやつなのさ」
「優しい死神ですよね?」
「うん、優しい死神であり、ひどいやつでもある」
サリー先輩は用紙をピンと弾いてから紙束に戻す。
見ると、まだモンブランは一口も減っていない。
「待っててくれたんですか?」
「んにゃ、猫舌だから、紅茶が冷めるのをね。そろそろいいかな……」
サリー先輩はそう言って、ティーカップを口に運んだ。わたしも真似をする。テーブルマナーをわたしは知らない。だから、サリー先輩が正しいか知らない。ただ今はすごく不安で心もとなくて、ならうしかなかった。まるでタイトロープを渡るよう。震えが止まらず、カチャカチャと音を鳴らしてしまう。こぼさないように気をつける。飲みくちに吸いつく。口唇を濡らしただけで飲めなかった。それでも紅茶がぬるくなっていなければ、やけどしていた。サリー先輩がいよいよモンブランをフォークですくう。わたしはティーカップを置いた。
「やっぱり、わたしの分もサリー先輩が食べてください」
「やだよ、それはもうタナちゃんの分だ。タナちゃんの責任」
「誰の食いものにもされないって、言ってたから……」
そのときを前にして、わたしはとうとう涙を堪えきれなくなってしまった。それは本当に人の魂であるかのように黄金に輝いているのだ。わたしはサリー先輩の答えをいろいろ想像した。耳を澄ましたけど、いつまでも答えはなかった。わたしは涙をポタポタとこぼしたまま、サリー先輩を見る。
モンブランは口の中に消えた。わたしもフォークを取って、鏡のように真似をした。そうでもしないといつまでも食べられず、腐らせてしまっただろう。そして、もう一歩も前に進めなかっただろう。
死神として、はじめて食べたモンブランはただただ甘かった。それは、わたしがどんなに望んでも、もうこれ以上、渋くも苦くもならないのだ。それが悲しくてしかたなかった。
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