死神ダイヤル

かんらくらんか

第1話 タナちゃんとサリー先輩 Ⅰ

◆Ⅰ


「新人ちゃん」

「タナカです」

「そうだったね、タナちゃん、よく聞いててね」

 そう言って、サリー先輩は受話器を取った。細い指を穴に入れて、黒電話のダイヤルを回し始める。トコトコトコ、シューッと小気味良い音が十一回鳴る。

 それを眺めながら、わたしはショックを受けていた。タナちゃんなんてあだ名にされた。しかし訂正するのを諦める。仕事はもう始まってしまった。じっと成り行きをうかがう。

 るるるるるる……

 わたしは受話器に耳を当てていない。それなのに間近に音が聞こえる。

 受話器はサリー先輩の耳にぴったりと当てられている。サリー先輩の耳は少し尖っていて、なんだか格好が良い。わたしは自分の耳を撫でた。そこには丸まった自分の耳だけある。知らない間に機械が取りつけられていたりはしない。

「わたしにも呼び出し音が聞こえます」

「そういう設定」

 それで説明した気になっている。

「ええと……」

 サリー先輩は指をぱちんと鳴らした。

「魔法の黒電話だから」

「えぇー」

「ウチもそれ以上は知らないよん」

 音はどこらからともなく鳴っている。

 不思議だ。不思議な感覚だ。

 るるるるるる……るるるるるる……

 ベルの音は三回までだった。

 それから応答した男の死にそうな声、

「……もしもし?」

 それもちゃんと聞こえた。

 わたしは耳を澄ませる。サリー先輩がその美しい声で、まずどんな優しい言葉をかけるのか。わたしは知りたかった。

 カチッという小さなリップノイズの後、

「ようダメ犬、死ぬ準備は順調かい?」

 サリー先輩は、はっきり、はきはき、そう言い放った。

 堂々としすぎていて、はじめそのおかしさに気づけないほどだった。

 認識と同時に背中に冷や汗がどっと吹き出す。

「だめですよ!」

 わたしは叫んでいた。

 サリー先輩は無視して続ける。

「ダメ犬~? 死んだのか~?」

「切られちゃいますって!」

 サリー先輩は、首を傾げて、ほっぺと肩との間に受話器を挟む。

 ぴったりフィットしていた。

「死んだなら、死にましたって、報告しろよな~」

 言いながら、机にあったペンをさっと取る。

 サリー先輩は、わたしの手を掴んだ。驚いて、「キャ」と悲鳴を上げてしまう。手のひらがペン先でツツと撫でられる。痛、くすぐったい。この人、まずい人なんじゃないか?

 この職場が甘くないことを思い出す。もし電話が切られたら、矛先はわたしに向くんじゃないか。お願いだから、とわたしは懇願する。どうか、切らないで、死にそうな男の人! その誠意は、声にまで、体にもまで出ていた。腰を九十度曲げる。

「どうか、切らないでください!」

「だーめいぬっ! はい! だーめいぬっ! はい!」

 わたしの懇願は無情にもダメ犬コールにかき消される。

 諦めかけたときだった。

「誰だ、てめえ」

 怒気をはらんだ男の声が鼓膜を揺らした。

 サリー先輩は片目をつぶった。長いまつげがふっと揺れる。美人だと思ってしまう。

 掴まれていた手が解放される。温かさが褪せて、急に寂しくなる。手のひらにペンで書かれた白い文字に目を凝らす。『これでいいのだ』とあった。これでいいのだ……?

 サリー先輩は、「な?」っと、ドヤ顔でわたしを見る。

「いや、いいくないですよね!」

 どうして、そんな調子なのか、ぜんぜんわからないが、とりあえず、ほっとしてみる。

 しかし、騙されちゃいけない。どんなに魅力的でも、いい人じゃない。死のうとしている人を、馬鹿にして。そんな人は最低だ。

「ウチ、サリーちゃん、死神よ」

「死神? バカにしやがって」

「本当のことを言っただけだけど」

 男は鼻で笑う。

「ハッ。お前らが誰なのか、見当はつくよ」

「お前ら?」

 お前『ら』とは誰のことだろう。わたしは狭い部屋の中を見回した。ぐるりと回って、サリー先輩と視線が交じる。

「タナちゃんの声も全部筒抜けなんだなぁ」

「ええっ! そんな、聞いてないですよ」

「言ってなかったっけ」

「聞いてないです!」

 わたしは口をギュッと結んだ。

「ここから、お口チャックしてます」

「喋ってんじゃん」

 わたしは首を横に振る。

「もう、タナちゃんも参加ってことだからさ」

「そんな、無理ですよ」

「よく言うよ~」

 バン!っと破裂音が反響する。

「えっ!」

「死んだ!」

 サリー先輩の言葉に、男が返す。

「うるせえ、まだだ」

「じゃあ、なに?」

「そっちだけで話してんじゃねぇ」

「なんだ、寂しかったのね」

 わたしは「プフ」と笑ってしまった。

 それに反応して、また破裂音。

「風呂板が割れちまった!」

「ものに当たるなよ」

「かわいそうです」

「うるせえ。そんな口叩けるのも今のうちだ」

「ダメ犬、元気出てきたな」

「お前に罵られたって、痛くも痒くもないんだ」

「なら、せいぜい気にしなきゃいい」

「そうするよ!」

 男は憎たらしさをたっぷり込める。

「だけどお前らは、俺を気にせずにはいられないだろうがな」

「なにが?」

「気づいてねえのか? 本当に間抜けな奴らだな」

「これから自殺しようって君に言われたくないな」

「え! 自殺? や、やめて。考え直してください」

「ウチらは死神なんだぜ?」

 サリー先輩は静かに言う。その言葉の重苦しさに閉口する。

 わたしは死神になったらしい。実感はぜんぜんないのだが。

「自殺しようとしてるって、よくわかったな」

 シュッと擦りつける音。わたしはマッチを想起した。

 火薬の匂いさえも感じる。共感覚というやつだろう。

「それに電話してきたってことは、やっぱ気づいたんだろ」

「君がなにを言ってるか、さっぱりだよ」

「とぼけちゃって……」

 微かにパチパチと弾ける音。

「今、練炭に火を点けた」

「知ってる。あと二十分で君が死ぬことも知ってる。死神だから」

 その言葉に、わたしは違和感を覚えた。どうしてそう感じたのか、自分の頭の中を探る。答えはすぐに出た。二十分という時間だ。そんな短い時間で死ぬには彼は元気すぎるのだ。

「ああ、俺は死ぬ。でも一人じゃ死なねえ。お前らも道連れだ」

 電話越しであるのに、その言葉には迫力があった。

 わたしは怖気づいてしまう。

「許してください!」

「もう遅い」

 サリー先輩は態度を崩さず、不敵だった。

「ねえ、死神を殺せるもんなら、殺してみてよ」

「だめっ! お願いします。許してください」

「遅いんだよ。お前ら、もう死んでんだよ」

「わたし、もう死んでる !?」

「生きてるけど?」

「どっち !?」

 男はずっと勿体つけていたが、とうとう言った。それも渋々という感じでだ。

「データを盗んだんだ」

「……データ?」

「会社の顧客データだ」

「ああ」

「わかったか?」

「まーね」

 捻くれた喜びを深めるように男は語る。

「全部、ぶちまけてやった。これでお前らも終わりだ。今さら、電話なんてかけてきやがって、もう遅いんだよ。ネットですぐに広まる。あの野郎も会社もお前らも……みんな、みんな、お終いだ」

「わかった」

「わかったなら、お前らも首をくくる準備をしておくことだな」

 男はそこまで言い切って咳き込んだ。練炭のケムリを吸い込んだのだろう。きっと苦い味がする。いや、本当にそうか? 全部、男の演技だったりはしないだろうか?

「首なんかくくらない。君が、勘違いしていることがわかったんだよ」

「フン、どうせ、いま必死に検索でもしてるとこだろ」

「会社ってなんのことですか? 首をくくるって?」

 この世界も、会社と呼べないこともない。仕事と報酬がある。

「だから違うって! ウチの話聞いてた? タナちゃん?」

「タナちゃんって、タナカか?」

「ひゃい!」

 本名を名指しされて、わたしは飛び上がった。

「お前、そんな声だったのか。かわいい声だな」

「え、えぇー」

「なんだよ。嫌そうな反応しやがって」

「ウチの子にセクハラしないでくれる? ダメ犬くん」

「ハッ! そんなまともな会社じゃなかったろ!」

 サリー先輩は受話器を左手から、右手へ持ち替えた。当てる耳も左耳から、右耳に切り替わる。リズム良く、一言も聞き逃さないタイミングだった。

「そろそろウザくなってきたから、はっきりさせたいんだけど」

「なんだよ」

「ウチらは、君の会社とはなんの関係もないわけ」

「嘘つけ、じゃなかったら、なんだって言うんだよ」

 黒電話の機能で、二人の声も音も、両耳に聞こえている。だとしたら、受話器を放り出しても聞こえるはずだ、とかわたしは考えていた。

「だから死神っつってんじゃん」

「だからふざけんなって……」

「まあ、いきなりで認めらんないやつのほうが多いけど」

「まさか……」

「毎回、説明かったるいのよ」

 しばし沈黙があった。

「どうして俺は電話に出たんだ……なんで風呂場にスマホを持ってきた……というか、SIMカード引っこ抜いてあったよな……それでどうしてつながる……」

「気がついた?」

 男は「そうだ、そうだ」としばらく独りごちる。

 次の言葉には、それまであった怒りが消えていた。

「ああ、確かに、おかしいもんな」

「ね」

「お前みたいな声のやついねえし、よく考えたら、タナカはオッサンだったし」

 わたしは今日、二度目のショックを受けた。

「あの、わたし、男みたいな声ですか?」

「かわいい声だって言っただろ」

「嬉しくないです!」

「おい!」

 男の笑いは乾いていた。

「ハハハ……死神ね。じゃあ、お迎えに来てくれるわけだ」

「ふーん。あんたの死神はそういうタイプなんだ」

「ああ、大鎌持って黒いローブを被った白い骨の化物だ」

「それ、恐くない?」

「恐えよ」

「そんなのにお迎えに来てほしいの?」

「やだよ。お前ら、そんな姿なのか?」

「タナちゃんは美少女だけど」

「なら歓迎だ」

「えぇー」

 わたしは質問しないわけにはいかなかった。わからないことだらけだ。

「もしかして、わたしたち、行くんですか?」

「もちろん、行かない」

「良かった。びっくりしました」

「じゃあ、この電話はなんだ。アポイントじゃねーの」

「残念、ウチらは電話をかけるだけ」

「なんだそれ、それになんの意味があんだよ」

 そこも聞いておきたいところだった。この仕事の意味はなんなのか。耳を澄ませてから、このパターンはろくな答えが聞けないパターンだと気づく。さっきも優しい言葉を期待したのに、出てきたのはダメ犬という暴言だった。

 サリー先輩は高らかに答える。

「知らない」

 予知していたのに、わたしはずっこけた。

「逆に知ってたら、教えてくれない?」

「知るわけねえだろ。いい加減にしろ」

「じゃあさ、神様について、なにか知らない?」

「神? それなら一つだけ、教えてやるよ」

 男は咳き込んだ。さっきよりも切羽詰った感じ。唸りもした。

 痛々しく、血が出そうだ。苦しみは演技ではないとわかる。

「……神なんか存在しない」

「ああ、あんたはそのタイプなのね」

「死神のタイプとか、神のタイプとか、どうでもいい」

「一応、聞くことになってるんだ」

「俺もデータの一つってわけか」

「そうなるね」

 サリー先輩は指をぱちんと鳴らした。

「あ、そうそう」

「なんだ?」

「もう一つ聞いておきたいことがあったんだよ」

「答える義理はねーな」

「いーじゃん、最後なんだし」

「なら、先に一つ答えろ」

「いいよ」

「お前らの得はなんだ? この電話で受けられる報酬だ」

「あー」

「なんか得があるから、こんなことをしているはずだ」

「それね」

「冥土の土産だ。聞かせろ」

 サリー先輩は受話器を口から遠ざけた。天に長い息を吐く。口唇をぶるぶる震わせた。品のない仕草だけど、わたしはドキドキしてしまう。惚れっぽいのかもしれない。いや、他に頼れる人がいないから無理もないのだ。そう自分に言い聞かせた。

「この話はもう百万回はしてるからなあ」

「嘘つけ」

「死神の寿命なめないでよね。だから、冥土でもありふれた話かもよ」

「じゃあ、いいよ、どうでも、話さなくて」

「あ、そう?」

「俺も答えないだけだ」

 わたしは口を挟んでしまう。

「わたし、知りたいです」

「ほら、タナカも知りたいんだと」

 サリー先輩はわたしを向く。口唇を突き出して見せる。

「本当に知りたい?」

 わたしは首肯した。

「だよね。愚問だった」

 サリー先輩はくうに向き直る。

「じゃあ、話すけど、絶対、笑わないこと、黙って聞くこと」

「ああ、約束する」

「タナちゃんもだよ」

「わかりました」

 サリー先輩はコホンと咳払いした。

「百万飛んで一回目の説明です。質問は後ほど受けつけます」

「ん、んー」と喉を整える。

 声色が変わり、言葉遣いも形式的なものに変わった。

「私たち、死神の目的は大別して二つです。それを話す前に私たちの境遇について話さなければなりません。私たち死神は、ある日突然、閉じたモノクロの世界に生まれます。歳頃は、十四、十五の少女の姿で、過去の記憶は一切ありません。歳を取ることはありませんが、お腹がすくと餓死します。この世界には、そういう境遇の死神がたくさん暮らしています。出口はなく、生きていく方法はたった一つです。それが電話をかけることです。

 私たちの目的の話に戻ります。二つの目的の一つ目は、食べものを手に入れることです。わたしたち死神は電話をかけることによってしか、食べものを得ることができません。不合理で説明のつかないことですが、電話は今まさに死のうとしている方につながり、その方の死を看取ることで、食べものが支給されます。このことが、わたしたちが、『死神ダイヤル』と呼ばれ、また自称することのいわれです。

 目的の二つ目は、外の情報を集めることです。このことで、私たちはこの世界からの脱出、あるいは救出される方法を探しています。今のところ、この場所がどこにあって、なんのために存在するのか、自分たちが何者なのか。核心に至るまでのことは何一つわかっていません。以上、わたしたちの目的についてです」

 静寂があった。続きを待ったが、先はなかった。

「なるほどな」

「お、寝ないで聞いてたな。えらい、えらい」

 サリー先輩は無理やり茶化しているようだった。

 呪われた境遇をできるだけ忘れていられるように。

「はっきり言って、ちょう眠い」

「で、感想は?」

「自分が何者なのかも知らないなんて……」

「君に言われたくないなあ」

「つまらん人生だ」

「君は自分が何者か知っているのかい?」

 男は怒らなかった。物に当たる様子もない。代わりに自嘲的な笑い声を漏らした。

「確かに、俺も自分が何者だか知らない。俺は自分のことを言ったのかもしれない」

 わたしは暗い気持ちだった。サリー先輩が喋る機械のように見えてしまっていた。わたしもこんなふうに喋るようになるのだろうか。それこそ百万回説明するうちに。

「じゃあ、約束通り、質問」

「そうだったな。なにが聞きたい?」

「この一ヶ月、なにしてた?」

「そんなことか」

 今度は男の方が話すのを嫌がって、長いため息を吐いた。その後、咳き込む。死のケムリはどこまで彼を満たしたのだろう。

「なんにも」

「最後の一ヶ月なのに、なにも?」

「ああ、ずっと死ぬことを考えていただけだ。家から一歩も出なかった。というか、出られなくした。ドアにも窓にも板を打った。敷金なんかもう惜しくないからな。それで暗闇の中、ぼーっとしてた」

「それだけじゃないはずだよ」

「それだけさ」

「外のこともわからないくらいなこと、なにかしてたんでしょ?」

「やれやれ、どこまで知ってて、どこから知らないんだか」

 男は言葉に詰まったが、続けた。

「音楽を聞いてた。ヘッドフォンつけて、耳が壊れるくらい、聞いてた。学生の頃は、バンドをやってたんだ」

「なるほどね」

「なにか、わかったか?」

「だいたい」

 サリー先輩は足先の方をちらりと見た。わたしもつられて、同じところを見た。実は足の指でずっと時間を数えていたらしい。チクタクと印を結んでいる。いつの間にか靴は脱ぎ散らかされていた。

「残念だけど、ダメ犬が死ぬまで、あと三分だ」

「そうか」

 男は短く言う。おそらく電話を投げ置いた音。なめらかな床を滑る音。そして立ち上がった、バンッボンッという空っぽの浴槽が響く音。彼はお風呂場にいる。

「サリー先輩、電話置かれたんじゃないですか? 電話切られたら失敗なんじゃ……」

「うん、切られたら失敗。でも切られてはいない」

「アアアアアアアアアアアア‼」

 男の絶叫は、少し遠くに聞こえる。やはり電話から離れたのだ。こちらの声は届いているのだろうか。わたしと同じように黒電話の魔法が届いているかもしれない。

「どうしんたんですか! 答えてください!」

 返答はない。代わりに鈍い足音、激しく叩く音、引き裂かれる音、折れる音。彼が暴れまわってるのがわかる。わたしはまた違和感を覚える。三分足らずで彼が死ぬとは思えないのだ。それはわたしの死のイメージが、もっと静かなものだからかもしれない。安らかに、お布団に入って、家族に看取られる。外では雪がしんしんと降っている。

 サリー先輩は騒音だらけの受話器を動かさなかった。耳から離しても、音は小さくならないのだろう。わたしの耳にも黒電話の魔法で、ずっと騒音が響いている。頭がガンガンするが、耳をふさいでも聞こえて、じっと耐えたるしかなかった。

 サリー先輩が言う。

「練炭自殺ってどんな感じなのか知ってる?」

「……知りません」

 わたしは正直に答えた。彼にはもう言葉は届かないのだろうか。

 サリー先輩は受話器を意識せず、わたしにだけ語りだした。じっと目が合う。

「……練炭を燃やすと、一酸化炭素が出る。それを吸い続けると、中毒で人は死ぬ。一酸化炭素が外に逃げ出さないように、戸締まりをして、厳重に目張りをする。風呂場でやるのがいい。密封しやすいし、火事になりにくい。大抵は睡眠薬も飲む。上手くいけば寝たまま逝ける。死神の黒電話には、電話の相手を強制的に覚醒させる力がある」

「残酷ですね」

 発狂した男の声も壊れる音も、ずっと聞こえたままだ。背筋が冷たくなる。死ぬのがどれだけ恐ろしいか、なぜかよくわかる。

「しかし今回は違う。彼には睡眠薬の効果が出ていなかった」

「えっと、じゃあ……」

 金属の衝突音を最後に、頭を揺らしていた音が止む。

 キーンという静寂があって、

「窓を開けた!」

 男は言った。

「電話はどこだ?」

 サリー先輩が答える。

「こっち、こっち」

「どこだ」

「こっちだって」

「あった!」

 電話が拾い上げられる音。

 男の声は陽気だった。

「窓を開けてやったぞ、馬鹿ども。おい! 聞いてんのか!」

「もちろん、聞いてるよ。うるさいんだよ」

「それは悪かったな」

 男は口先だけで、悪びれる様子もない。

「生きることにした。これでお前らも、おまんまの食い上げだな。ざまあみろ! 死神! 俺は、もう誰の食いものにもされねえ! 生きてやる!」

「君が死んだくらいじゃ、会社は潰れないし、悪い奴らも首をくくったりしない」

「んなこと、わかってたさ。本当は! ……お前らも、また別の人間に電話をかけるだけだろ。死に損ないにさ」

「ああ」

「サリー先輩、いいんですか? 彼を助けたんですか?」

 わたしは嬉しかった。死神は人を助けられるんだと感動した。

 しかしサリー先輩は首を横に振る。胸がドクリと脈打つ。

「いや……もう時間だ、五秒前」

「え?」

 カウントは足の指から手に移って、

「ダメ犬、空は見えたか?」

 ゆっくりとパーからグーへ。

「もう誰の言うことも聞」

 瞬間、今までの騒音とは比べものにならない、大きな大きな音がわたしの耳をつんざいた。わたしは思う前に目を閉じた。恐い……恐いよ……。

 ノイズ、ノイズ、ノイズ。

 それがプツンと切れた。後には、ツーツーいう機械の音と、耳鳴りが残った。

 サリー先輩は体にたまったなにか、それこそ魂まで吐き出してしまいそうに長い息を吐いた。それから器用に受話器を回して、母艦の黒電話に戻す。その所作は曲芸じみていた。ガチャン。切断音も消える。

 わたしは呆けてしまって、気がついたときにはサリー先輩の体にしがみついていた。

「まあ、ざっとこんな感じ、死神のお仕事は。わかった?」

 なにもわからなかった。なにが起こったのか、男の人は本当に死んでしまったのだろうか。電話をしたこと、その内容になにか意味があっただろうか。わからないことだらけだった。

「みんな最初はそんなもんだ」

 震えが止まるまで、わたしを撫でてくれる手があった。

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