第4話 閉じ込められて

 部室の扉のすりガラスを叩く固い音と、見慣れたスマートなシルエットに安心して立ち上がった深沢は部室の鍵を外した。

「やあ、正義の騎士君。きちんとお姫様を守ってくれたかな?」

 引き戸を開けた遠野は、ポンと深沢の肩に軽く手を置く。

「はい、遠野先輩。誰もここには来ませんでしたよ……って、あれ? 西条先輩は?」

 深沢は遠野一人という事に気づくと、不安そうに眉を寄せた。

「あいつはかわいそうに幽霊を見て卒倒してね……。今頃、保健室でお花畑に行っちゃってる夢でも見てるんじゃないかな」

 本人が聞いたら激怒しそうな事を言って、遠野は両腕を組んで唸ってみせた。素直な深沢はそれを聞いて驚いて目を丸くする。

「お化けが出たんですか!?」

「そうなんだ」

 遠野はなおも神妙な顔つきで頷くと、黒曜石のように艶めいた瞳をついと夏実に向けた。椅子に腰かけて上半身だけを彼に向けている彼女の表情は硬い。

「夏実さん、宝石は見つかりましたよ。ですが、それを手にしようとしたら突然淑子さんが現れましてね……」

 それを聞いた夏実が眉をひそめる。

「夏実さん本人にしか渡さないと言うんですよ。ですから、これから僕がそこまでご案内しますから、天使の雫をその手で受け取ってもらえませんか?」

 遠野が続けて言うと、夏実は一瞬戸惑いの表情を浮かべた。

「本当に……祖母が、現れたのですか?」

「はい、今なら学校も開いていますし、追手の姿もないようです。チャンスは今しかないかと……」

 遠野は表情を和らげて笑ってみせた。

「それとも何か迷うことでも?」

 彼の無邪気な笑顔の前に夏実は唇を噛んで顔を逸らし、唇を噛む。

「……わかりました。連れていってください」

 意を決したように彼に向き直った彼女はきっぱりと言い切って、椅子から立ち上がった。遠野は口元に笑みを浮かべたまま満足そうに頷く。

「あ、それと深沢。君に大切な話があるんだ」

 遠野は彼の耳に口を寄せると、小声で何か囁いた。深沢は一度眉をぴくりと動かしたが、聞いている間は無言だった。

「先輩、ありがとうございます。じゃあ俺はこれで失礼します」

 深沢は嬉しそうに目を輝かせ、遠野と夏実に頭を下げて鞄を手に取ると部室を飛び出していった。

「何を言ったの?」

「大したことじゃありません。では行きましょうか」

 エスコートしようと差し出した腕を華麗にスルーされ、苦笑しながら遠野は気を取り直して夏実の隣を歩き出す。

「天使の雫はすぐに見つかったの?」

 強い日差しに顔をしかめながら夏実が遠野を見上げる。

「はい。以前、淑子さんの絵を見つけた場所ですよ。地下室なんですけど、閉所恐怖症ではありませんよね?」

 遠野は意味ありげな視線を彼女に送る。

「ええ……、大丈夫ですけど?」

 夏実はいぶかし気に目を細める。

「それは良かった」

 遠野は胸に手をあてて大袈裟なほどため息をついた。

「夏ってどうして暑いんでしょうねえ。サイはそんな当たり前の事は聞くなと言うんですが……」

 三階の開いた窓から吹奏楽部が秋の大会に向けて練習している音が聞こえる。戦前から存在しているこの高校は文武共に実績のある学校だ。特待生として入学してくる生徒もいる。

「僕は何でも知らないと気が済まないたちでして、時々それがとんでもない事を引き起こしてしまったりして、よく怒られてるんです」

 言い終えて、遠野は空にそびえ立つ大きな積乱雲を見上げた。

「一雨降るかもしれないなあ」

 遠野はぽつりと呟いた。

「見ず知らずのあなた達を巻き込んでしまって、本当にごめんなさいね」

 遠野の呟きを早く帰りたがっていると解釈した夏実が申し訳なさそうに頭を下げる。

「いいえ。こちらこそ夏実さんが他人に関わりたくないと思ってらっしゃるのに、出過ぎた真似をしてしまってすみません」

 遠野は叱られた子供のようにしゅんとうなだれる。

 夏実はその言葉にぎくりとしたように、遠野の顔を見つめた。

「どうして私が他人と関わりたくないって言い切れるの?」

「だって良く『見ず知らず』を口になさるでしょう? それで自分と距離を置きたいって雰囲気が伝わってきたので……。勘違いだったらすみません」

 遠野はバツが悪そうに頭をかいた。

 夏実は小さく「いいえ…」と返事しただけだった。


 校舎に入ると裸足で良いと言う夏実の言葉のおかげで、差し出されたスリッパは肩身狭そうに玄関に置きざりにされた。

「誰にも見つからないようにこっそり行きましょう」

 彼は言って、曲がり角の度に、探偵よろしく顔をちょっとだけ見せて、誰もいない事を確認してから夏実を連れて進んだ。

「ここが図書室です」

 遠野は言って鍵を取り出し、中へ入った。

「こちらの地下室です。夏実さんが来たおかげで、ようやく天使の雫も解放されますね」

 独り言を呟きながら、扉の前に立って電気のスイッチを押した。

「この中に天使の雫があるのね?」

 夏実は念を押すように尋ねた。

 遠野はこくりと頷いて、扉を開ける。

「足元、気をつけて下さいね」

 彼は言いながら急いで階段を降りようとする夏実の背中に声をかけた。

「どこにあるの?」

 夏実は書庫のひんやりとしたコンクリートの上に降り立つと、キョロキョロと左右を見回す。

「あれ、確かさっきまではそこにあった筈なんですが」

 遠野が言いかけた時、突然背後で勢いよく扉が閉まる音がした。その音に驚いた二人はハッとして、扉の方を見上げる。

「どうしたんだ?」

 遠野は眉をひそめて階段を引き返すと、ドアノブを回したり、扉に体重を預けたり試したが、心持ち青冷めた顔で、夏実に絶望的な言葉を投げ掛けた。

「開きません、閉じ込められてしまったようです。中からは鍵がいじれないようになってるんですよ」

 遠野はため息をついた。

「ひょっとしたら、お祖母様がお怒りになっているのかもしれませんね」

「ここから出られないの?」

 夏実は声を震わせた。

 遠野は首をすくめて、小さく頷いた。

「きっと僕のような部外者がお祖母様の宝物に触れてしまったからなのでしょうね。困ったなあ……」

 彼は頭をかきながら階段を降りてきて書庫に足をついた。

 夏見が不安そうに窓のない部屋を見回す。

「天使の雫もさっきあった場所から消えてるなあ。どこかに隠れたのかなあ」

 遠野は首を捻った。

「あ、そうだ。夏実さんが呼び掛ければ、お祖母様が応えてくれるかもしれませんよ」

 彼はぴんと人差し指を立てて提案する。

「夏……私が、ですか?」

「そうです。だってお祖母様は夏実さんに天使の雫をあげるとおっしゃったのでしょう? それならやはり、頼れるのはあなたしかいません」

 夏実は口を開きかけたが、黙って本棚を一つ一つ調べ始めた。

「僕は大人しくしていましょう」

 遠野は階段の一番下の段に腰かけて、チラリと腕時計に目を落とした。追いかけっこをしている二本の針は、午後二時半を指していた。

 夏実が必死の表情で宝石を探している様子を見て、彼はかすかに口のはしを吊り上げた。

「本当は……、あなたが隠したんじゃないの?」

 一通り本棚を調べ回った彼女は、額にうっすらと汗を浮かべていた。隅々まで念入りに探したらしく、絹のような美しい手は真っ黒に汚れていた。

「僕が? まさか。どうして僕がそんな事しなきゃいけないんですか? 心外ですね」

 遠野はお手上げのポーズをとると軽く肩をすくめてみせた。

 夏実は黙り込んで、もう一度棚の間を練り歩く。

「ひょっとしたら、本物の夏実さんじゃないとダメなのかもしれませんよ」

 遠野の言葉は確実に彼女の心に刺さった。

「な、何を言っているの、あなたは」

 狼狽しながらも平静を装わなければという彼女の態度は誰の目にも明白だった。


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