第2話 天使の雫

 遠野の手を借りて起き上がった女性は、不安そうに辺りを見回した。


「とりあえず、こちらで休みましょう」

 涼しい風が吹いてきそうな爽やかな笑みを浮かべて、遠野はミステリ同好会の部室に女性を案内した。


 長方形の机には椅子が全部で六つ。入り口に一番近い場所には知子と女性が隣り合って座る。二人の向かいに遠野が一人で座り、両側に西条と深沢が向かい合うように腰かけた。


 深沢が買ってきたアイスやジュースを配ると、部室には一時だけ安らぎの空気が流れる。遠野の扇風機は、今は『浮気』していた。時々自分に風が来ると、知子はアイスをなめながら幸せそうに目をつむった。


「ごめんなさい、見ず知らずのあなた方に迷惑をかけてしまって……」

 冷たいお茶を一口飲み、ホッと息をついた女性は頬にかかった髪を耳にかけた。


「良かったら話を聞かせてもらえませんか? 何か力になれることがあるかもしれません」

 遠野は真摯しんしな瞳を彼女に向ける。


「あまりこのことは口外されたくないんですが……、時間もないので仕方ありませんね」

 遠野を見つめ返す女性の視線はどこか艶めいて見えるのは気のせいだろうと知子はアイスのキンとした冷たさに頭を押さえながら隣に座る彼女を横目でチラチラと眺めた。


 法事帰りのような真黒のワンピースを着ているのに、指先はフレンチネイルとご丁寧にもキラキラなストーンが乗っている。化粧も完璧で、振りまく甘い香水はこれからデートと言うよりはご出勤と言った方が合っている。


「私の名前は沼田夏実ぬまたなつみといいます。これから話すことは信じて下さらなくても結構です」

 夏実はそう断ると、ゆっくりと話し出した。


「実は一年前に祖母を亡くしたのですが、昨夜突然私の夢に現れて、遺産の大部分となっている一つの宝石を私にくれると言ったのです。それは親戚が血眼になって探しても未だに見つかっていなかったので、当然私は驚きました。そして、さらに祖母は言ったのです。その宝石は卒業した高校のどこかに隠してあると。その学校にいるある人物に会えば、その場所を教えてもらえる、とも言いました」


 長々と語った夏実はまたペットボトルに口をつけた。信じなくてもいいと彼女が前置きし通り、それは信じろという方が胡散臭い話だった。


「宝石、ねえ……」

 遠野が呟きながら、目の前に置かれたアイスミルクティーのペットボトルについた水滴を指で拭う。


 夏実は大きく頷いた。

「天使の雫……と呼ばれるものなんです」


「へえ、可愛い名前。検索したら出てくるかな」

 アイスを食べ終えた知子が机の上に出しっぱなしにしている携帯電話を手に取ると、その上に夏実の温かい手が乗せられてちょっとびっくりした。


「今説明するわ。プラチナで出来た天使の翼があって、その間を繋ぐようにブルーダイヤが一つ嵌め込まれています。翼の裏側にはピンクダイヤが散りばめられているそうで、叔父の話では時価数千万は下らないだろうと言うのです」


「数千万!?」

 眼鏡めがねの奥から目を飛び出さんばかりに深沢が驚いて声を上げる。


「それがこの学校なんですね」

 対照的に静かなトーンで西条が言った。知子が小さな声で「副部長、どうしてこの学校ってわかるんですか?」と尋ねた。


「じゃなきゃ、わざわざうちの高校に来ないだろう」

 それくらい当たり前とでもいうふうに西条が苦笑する。それでも嫌味っぽく聞こえないのはやはり見た目補正という所だろうか。


「そうです。そして私は、その場所を知っている人物に会わなければなりません」


「何故、お祖母さんは宝石のことを亡くなる前に言わなかったのでしょう?」

 深沢が黒ぶちの眼鏡を人差し指で押さえながら言った。


「それは……」


「それには僕が答えてあげよう、深沢君。ねえ、夏実さん?」

 遠野は夏実の言葉を遮ると、深沢と彼女にキラキラした瞳を交互に向けた。


「え……。は、はい」

 呼ばれた夏実は慌てて返事をした。


「あなたのお祖母様は、ある人物は図書委員をしていると言いませんでしたか? そして、その人物が、眠っている自分を邪魔しに来たのだと。正確には二人だった筈ですが、もう一人は暗いところが苦手でして、覚えていないのです。お祖母様の名前は淑子しゅくこさん、ではないですか?」


 すらすらと遠野が言うと、その場にいる二人から反応があった。


「それって、俺のことかよ」

 まず西条がぼそりと呟いた。


「どうしてあなたがそのことを……」

 夏実は頬を紅潮させてから、ハッと掌を口に当てて、「あなが祖母の言っていた人物なのね」と嬉しそうに目を細めた。


 遠野は返事をする代わりに、にこりと笑ってみせた。


「どういうことなんですか?」

 知子は遠野を問い詰める勢いで顔を近付けた。どうやら遠野がやけに夏実に愛想が良いのが気に障るらしい。


「実はこの間、僕とサイはミステリーツアーと銘打って、夜の学校に忍び込んだんだよ。ほとんど収穫はなかったけどね、一つだけ面白いことがあったんだ」

 遠野は悪戯っぽい笑みを浮かべて、西条の方を見た。


「地下室の怪、か……」

 遠野の視線を受けて西条が真面目な顔で苦々しげに呟く。


「そうそう。サイがそんな名前を付けたんだよね」

 彼はクスッと笑った。


「この学校に地下室なんてあるんですか、遠野先輩?」

 深沢が聞いた。


「あるよ、図書室にね。小さなものだから、図書委員が年に何回か蔵書ぞうしょの整理に入る程度なんだけどね」


「そこで…何があったんですか?」

 知子は神妙な顔つきで次の言葉を促した。


「うん。階段を降りてしばらく本棚を眺めていたら、突然壁に立て掛けてあった絵が倒れたんだ。そしたらサイがすごい驚いてさ、僕を置いて逃げちゃったんだ」


 知子と深沢が意外そうな目を西条に向けたあと、バチッと彼と視線が合うと慌てて顔を逸らした。


「普段の副部長からは考えらんない……」

 知子は肩が小刻みに震えるのを必死に堪えているが、その努力は報われなかった。思わず笑い声が漏れそうになる口元を押さえている。


「リン……、覚えてろよ」

 西条は遠野をキッと睨みつけた。


「まあ、そんなわけで一人寂しく取り残された僕は、その絵を元に戻した。その時にある発見をね」

 遠野は親友の言葉を無視して、澄ました口調で続けた。


「あなたはとてもお祖母様に似ていますね。さっき見た時にピンときました」

 遠野は夏実に柔らかく微笑んでみせた。


「どういうことだ?」

 西条の言葉がそこに割って入る。


「おや、動揺して頭の回転が鈍ったかな、サイ?  僕が地下室で見た絵のモデルが夏実さんにそっくりだったんだよ、服装から髪型まで全部」

 遠野は意味ありげな視線をチラと夏実に向けてから、再び西条を見据えた。


「絵に『淑子へ』と小さくサインもあったしね」


「祖母は私に、この服で行けばわかってもらえると言ってたんです」

 夏実は安堵あんどのため息を漏らした。


「じゃあこういうことですか?  夏実さんのお祖母さんである淑子さんは亡くなった後、うちの学校の地下室にいて、遠野先輩達がそれを起こしてしまったと。目覚めた淑子さんは、ふと天使の雫を夏実さんにたくそうと思いついて、夢の中に現れた……」


 深沢が言葉を慎重に選びながら事の整理を行なった。しかし話しながら、そんな非科学的な事があるわけないとも彼は思っていた。それなのに夏実に「そうですね」といとも簡単に頷かれ、彼はぎょっとする。


「あなたは天使の雫の在処ありかを知っているのよね?」

 夏実は遠野を見つめて言った。


「ええ。ただ、夏実さんは今誰かに追われているんでしょう?」


「そ、そうなんです。親戚なんですけど……。私が夢の話を叔父に何気なく話したら、目の色を変えて『宝石はどこだ』と問い詰めてきたんです。だから、私、恐くなって逃げてきたんです」


「だとすれば、あなたが手にいれても、その人達に取り上げられたら元も子もないのではないですか?」

 遠野の質問に夏実は困ったような表情をした。


「確かに……そうなんですよね。でも、たぶん何とかなると思います」

 夏実は無理に笑顔を作ってみせた。


 すると、遠野は満面の笑みを浮かべて一つの提案をした。


「どこか安全な場所まで僕達が運んで差し上げますよ。幸い、僕の知り合いに優秀な弁護士がおりまして、ついでに遺産相続についてご相談なさったら如何です?」


「でも、見ず知らずのあなた方に迷惑がかかります。私のことなら大丈夫ですから」

 夏実は遠慮がちに遠野の申し出を断った。


「謙虚な方ですね。僕はあなたのような女性が大好きです。ぜひあなたを悪者の手から守るという使命をいただけませんか?」

 遠野は目を輝かせて言った。


「またこいつの悪いくせが出た……」

 西条がため息をつく。


「部長、見ず知らずの人にそんなに気を遣わなくていいですよっ。もし部長が、追いかけてきた親戚だか何だかわからない人に、暴力振るわれたらどうするんですか!」


 知子は、夏実の使った『見ず知らず』という単語を強調して怒鳴どなった。ヤキモチを妬いているのは西条と深沢には明白だったので黙ってスルーする。


 遠野はそれに気づいているのかいないのか、穏やかに微笑ほほんだ。


「知子ちゃん、目の前に困っている人がいたら助けるのが人情ってものだよ」

 子供をさとすような優しい口調で彼女に語りかける。


「あたしはそうは思いませんっ。部長がどうなっても知りませんから!」

 知子はそう言い捨てると、乱暴に携帯電話と椅子に掛けてあったかばんつかんで部室を飛び出していった。


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