天使の雫
宮永レン
第1話 待ちわびたもの
その部屋で口を開く者はいない、それが余計に暑さを増していた。彼らはひたすら待ち続けているのだ。互いの耳に届くのは小型の扇風機が働いているモーター音と、パタパタとうちわをあおぐ音のみ。
開け放した入り口からは、学校のグラウンドが見える。ソフトボール部が熱心に練習をおこなっている姿が、ちらちらと視界に入った。
この暑い部屋の持ち主は『ミステリ同好会』という、ほぼ帰宅部と噂される部員四名のこじんまりとした集まりだった。
「部長~。今日はもう帰りましょうよ~」
最初に音を上げたのは、一年生の
柔らかな栗色の髪の毛がそよそよと風になびいていた。毎日手入れをしている女性でも羨むほどのすべらかな肌には、汗一つ浮いていない。中性的な顔つきは、まるで少女漫画からそのまま出てきたように整ったパーツを兼ね備えている。
「いや、こんな暑い日は絶対何か事件が起こる」
遠野はキラリと瞳を輝かせると、その訴えを却下した。
「じゃあ、その扇風機の風を少しでもあたし達に分けて下さいよ~」
知子が情けない声で助けを求めるように彼の方に手を伸ばすと、彼女の左斜めの席に座っていた
「知子ちゃん、無理無理。きっとリンはこう言うぜ」
「僕は扇風機を愛してる。だから浮気して欲しくないんだ」
西条と遠野の声がアイドルユニットの歌声のように綺麗にハモった。
「部長なんて嫌いだあ」
がっくりと肩を落として両手で顔を覆った知子は大げさに泣く真似をしてみせた。
「リンは独占欲が強いからな。でも、知子ちゃんは今年入部したばかりだろ。夏休みで、しかもこんな暑い日に呼び出しといて事件が起こるまで待ってろってのは、つらいぞ」
西条は遠野を
遠野と西条は、奇遇なことに入学した時からずっと一緒のクラスだった。だから、西条としては大体遠野の性格は把握しているつもりである。
当初は遠野の変わった面ばかりに目がいって舌を巻いたものだったが、今ではもう慣れた。
「サイ。夏って、なんで暑いんだろうなあ?」
サイは、遠野が呼ぶ西条のあだ名である。代わりに彼は遠野のことをリンと呼び捨てる。
「いい高校生がどうにもならんこと言うな。おまけに、話を
西条は自分の左斜めに座っている遠野の頭に腕を伸ばして、軽く
「イチャつかないでくださいよぉ」
知子がぷうと頬を膨らませる。西条と座る場所を変わってほしいと入部した時から願望を胸に抱えているが、正面から見つめられる今の席も捨てがたい。いくらモデル並みにイケメンな彼らと同じ空間にいたとしても体感温度が下がるわけがなく、知子は精一杯うちわをあおいで暑さをしのいでいた。
「もうすぐ
十五分ほど経っているのを、西条は部室の掛け時計で確認した。
「部長……。あたし、この部に入ってから一度も事件っていうものに
知子は暑さを
「痛いところを突かれたなあ、部長」
わざと、部長、を強調した西条はにやりと笑う。
「なんだと、サイ。お前、今までの数々の事件簿を忘れたっていうのか」
遠野は顔を曇らせる。
「家出した猫を探したり、密室作ったはいいけど自分が出られなくなったり、夜の学校を探検して『ミステリーだ』なんて呟くのがお前の事件簿なのか」
西条は言い返した。
知子は面白そうに、二人のやり取りを聞いている。
「数々の小さな事件を解決してこそ、大きな事件が向こうからやってくるんだ」
えへんと胸を張る遠野はまるで小学生のようだ。
「そうかねぇ、俺にはただ遊んでるようにしか見えないけど」
左手で頬杖をついて、遠野の顔を横目で見る。
「でも副部長だって、一年生の頃からずっとこの同好会にいるんでしょう? その遊びに付き合ってて退屈じゃないの?」
知子は口を挟んだ。
「俺は実際の事件に遭わなくても、ミステリの話ができれば良いのさ」
今も読んでいた推理小説の文庫本を軽く持ち上げて見せ、西条は肩を
「ふうん……。部長達ってそういう変なところが人気あるのかな。それとも見た目でカバーしてるのかなあ。それなのにカノジョがいないなんて……、こっちの方がミステリーだと思うな」
学校の
ふと、知子は思いついたように、両手をお祈りするように組むと、「部長~、そろそろあたしも独占候補に挙げて下さいよ~」とぶりぶりの甘い視線を送りながら小首を傾げてみせた。
すると、遠野は澄ました顔で、「知子ちゃん。出会って数ヵ月の僕達に一対一の交際は早すぎると思うんだ」と即答する。
そばで西条が肩を震わせながら笑いをこらえている。
知子は破裂寸前の風船のようにぷっくりと赤い頬を膨らませて正面にいる遠野を睨んだ。
「いっつもそうなんだもん、部長ってば。副部長に浮気しちゃいますよ、それでも良いんですか」
彼女の言葉に、遠野はさらに速攻でこくんと頷いた。西条が堪えきれずに笑い出す。
「もお、二人とも嫌い!」
「まあまあ、あんまり怒ると部屋の温度が上がるよ」
ひとしきり笑ったあと、西条が知子をなだめた。
「そうだった……、あ~つ~い~。あたしもコンビニ行けばよかったぁ」
知子はそう言うと、もしゃもしゃとセミロングの髪の毛を掻いてから、ついに机に突っ伏した。
会話が途切れると、遠野は再び愛する扇風機に向かって目を閉じる。
西条はもう一度時計を見た。
午後一時過ぎ。
太陽が少しだけ影を伸ばし始めていた。そして、しばらくしないうちにガサガサというビニール袋の擦れる音と、人の足音が聞こえてきた。
「お。崇のやつ、やっと帰って来た」
西条が口を開いた。
音は、部室の入り口の数歩手前辺りで止まる。彼の姿はまだ見えない。
「他の部の人じゃないんですか?」
知子が西条に文句を言うと、また足音がして、ひょいと室内に顔を
「遅かったじゃないか、深沢。僕は暑さと心中するところだったんだぞ」
遠野は彼に向かって不満を述べたが、深沢はまるで聞いていないような顔つきだった。
「どうしたの、深沢先輩?」
知子は体を
「お、女の人が倒れてるんです。すぐ、そこ……」
深沢は自分が今来た方向を指差した。
「何だって?」
西条は眉を吊り上げた。
「とにかく来て下さいよ」
深沢が言うのを聞いて、三人は慌てて立ち上がって部室を出た。
一応ひさしがついているので、直接日光は当たらないが、やはり外の方が暑かった。吸い込む空気が熱を孕んでいる。
この学校の部室はほとんどこの校舎の向かいに建つ二階建てのクラブハウス棟と呼ばれる建物の中にあるが、ミステリ同好会は二階の一番端を割り当てられていた。
深沢は両端にある階段のうち、自分達の部室に近い方の階段を上ってきたが、階段を上がりきったところで、問題の女は倒れていた。
「だ、大丈夫ですかあ?」
知子は遠野の背中に隠れて、小さな声で言った。
女性の反応はない。
「し、死んでるの?」
「さあ。確かめてみないことには何とも」
西条はそう言うと、遠野と共に女の元へ歩み寄った。
彼女はうつ伏せに倒れていた。細い身体に透けるような白い肌が、より華奢な印象を与えている。そして最も印象的なのが、
先に屈みこんだ遠野が「一応息はしてるみたいだな」と傍らの西条に話しかけた。その瞳は先程の扇風機を見つめていたものとは違って、鋭い輝きを見せている。
下級生二人は、ホッとため息ついた。
「この暑さで倒れたのかもな。怪我をしてるわけじゃなさそうだし。こんな真っ黒な服着てりゃ太陽光線の
顔をしかめつつ西条が言った。遠野は辺りをきょろきょろと見渡した。
「救急車呼ぶか? 今日保健の先生来てるっけ?」
西条が立ち上がって振り返りながら後輩へ伝えると、「あっ」と二人が口を開いて、彼を指差した。西条はその指先を辿って、再び向き直る。
女性が手をついて上半身を起こそうとしているところだった。
「大丈夫ですか?」
遠野が話しかける。
すると彼女はハッとしたように彼の顔を凝視し、弱々しいがはっきりした口調で言った。
「助けて下さい、追われてるんです。あいつらに捕まる前に会わなければならない人達がいて……」
まるで鈴を転がしたような美しい声が彼女の口から発せられた。
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