3.願い

「おいヒサシ」

 機材部屋の掃除と準備があらかた終わり、開演を前にして色々とチェックしているところに四藤さんが真面目な顔をして現れたので、なにごとかと胸騒ぎをおぼえる。

「……どうかしたんですか」

「合奏団のピアノ弾きが来る途中で事故ったらしい。そう重傷ではないようだが……その人にこれからピアノ弾けってのは酷だろう。他のピアノ担当メンバーは外せねえ用事があるか、出先で……今からこっち来るには遠すぎるか、だそうだ」

「じゃぁ……中止ですか」

 俺は少し張り切っていただけに残念だった。演目を見た限りピアノ中心の演奏会なのだ。そのピアノ演奏者がいないのではどうにもならないだろう。

 ここで音響を任せてもらっていたから取得できた『舞台機構調整技能士』の国家資格があるからこそ、大学あっちの方にある小さなライブハウスで、こんな若造に音響関係を任せてもらえているのだ。恩ある場所で役に立たせてもうらうのが一日減ってしまった。

「何言ってやがる。お前だろ」

 そう言われて、俺は硬直した。

「……何言ってんすか」

 俺は四藤さんから目をそらした。

「俺は、ピアノなんて弾けません」

「今はなんでもいい、お前のそのマイナス思考がそう言わせるなら、楽譜通りなぞるだけでも構いやしねえ。お前ができる範囲でいいんだ。この演奏会を潰さないでくれ……」

 四藤さんは歩み寄ってくると俺の肩を掴んだ。その手には力がこもっていない。だから四藤さんの台詞は強制ではなく、願いなのだ。

 ……恩ある人の、願いなのだ。

「何かあるんですか、この演奏会に」

 だがへそ曲がりの俺はこう返すことしかできない。

「……これきりで引退する人たちが多いんだよ。しかも、引退者のなかには……長年引っ張ってきたリーダーも含まれてる。……だから演奏会の名前が『新しい未来へ』なんだ」

「……そうですか」

 俺は四藤さんと目線を合わせる。

「……テキトーなんでいいなら、やろうとはしてみますよ」

 演目の中には、知らない曲はなかった。

「ああ。俺もこの部屋でテキトーにいじくってるよ」

 四藤さんは安心したように微笑んだ。こんな顔をされるのも珍しいな、なんて思った。

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