皇国:海辺のティルトウェイト
夜勤を終えて帰り道、私服に着替えて院内のロビーを通りがかりに、朝のテレビニュースを熱心に見る入院患者の一群があった。
海の向こうの共和国が、また軍事試験をしたらしい。ティルトウェイトの効果範囲を同心円で示した地図。それぞれ紅と白との民族衣装で着飾った若い女性二人と、それに挟まれて晴れやかに笑う国家元首、この二人の女性が今回の試験を指揮した軍事魔術師の筆頭格なのだという識者のコメント。仕立てのよい背広でしかつめらしい面をしてマイクに向かう我が国の首脳陣。
患者のひとり、シゲさんが振り返ったのと目が合った。シゲさんは移転前からのうちの患者だ。俺が何を考えてるか解るだろう俺もあんたの考えてることは解るよ、と目で告げられた気がした。僕は思わず目を反らした。
自分の車の運転席に身を沈めて、僕は何処にも行けずにいた。昼の暑さを予感させる強い初夏の日差しの下で、僕の目は、あの日の寒いみぞれ混じりの曇り空を見ていた。動悸が激しくなるのを感じる。薄い吐き気を覚える。
忘れられるものならば忘れてしまいたい。記憶操作の術式を、半ば本気で紐解いた日もあった。深刻な副作用のリスクがなければ試していたかもしれない。あの日からずっと、ティルトウェイトは僕を捕らえて放してくれない。
僕が最初にティルトウェイトの衝撃を受けたのは、学生時代に読んだ医療術師学園の実務記録からだった。
僕の親が生まれるよりも前、先の大戦の末期に、近代化改修された核熱爆炎呪文は、我が国西国の湊町にその猛威を振るった。意図したものか単なる不運なのか、空襲後の救護に備えていたナガス医療術師学園の校舎は、爆心地のすぐ隣にあった。
校舎ごと医療設備を吹き飛ばされつつ、辛くも生き残った透視術師科の面々は、傷ついた自らを治療しながら壊滅した街を巡り歩き、多くの患者たちを回復させた。その患者たちの症状が、医療透視術式の副作用に似ていることを、いち早く記録に残したのも彼らだった。彼ら、計量術式から発展した近代透視術式の専門家たちは、この被害が同じ根を持つ近代核熱術式によってもたらされたものだということを、攻撃を受けた直後にはもう悟っていた。
彼らの実務記録は、具体的な治療術と効果測定の統計とに
ティルトウェイトはもう要らない、と世の中が言い始めたのは、僕がまだ子供の頃だった。我が国への二度の術式
それから十年の時が過ぎ、ナガス学園の大戦時の記録を読んでいた学生の僕には、まさかそれが現代の自分に降りかかってこようとは想像もできなかった。
「ティルトウェイトの平和利用」は、実際のところは「冷たい戦」の別の側面だったと聞いたことがある。
我が皇国に二度の核熱術式を見舞った西の合衆国は、東の連邦国が核熱術式を魔高炉に応用しはじめたと聞きおよび、対抗のために同盟国への魔高炉の導入をつよく推進した。大戦直後、「冷たい戦」の最初期のことだ。
皇国に初めて核熱式魔高炉の火を入れた合衆国の計量術師団長は、「この平和の灯火が、二度の痛ましい破壊を癒す未来を夢見て、これからも共に歩もう」と、皇国の代表に語ったという。
それはおそらく本気で言っていたのだろう。学会で個人的に知り合った合衆国の連中は、もて余すほどのバイタリティと呆れるほどのポジティブさを備えた、善良な人間ばかりだった。だからこそ、余計にやるせない。彼らが純粋な悪人であれば、純粋な悪人を責めることだけで事が済むのならは、どれほど救われることか。
世界有数の火山国でもある我が皇国が、千年に一度の大地震と大津波に見舞われたあの日、海辺の街にある僕らの医院は直接の被害は免れ、避難者の受け入れも含めて戦場のような騒ぎだった。
ヤバいらしいです、とオキミから聞いたのは確か、日付が変わってようやく自分たちのために軽食を採っていた時だった。
「やばい、って、何が?」
「魔高炉です」短く言うと、オキミは冷めたコーヒーで具のないおにぎりを喉の奥にがあっと流し込んだ。彼女のような一見
「ふぅん」と僕は言ったが、まるで現実感がなかった。津波だけでも
「患者さんの息子さんが魔高炉に勤めてて、息子から逃げろって言われたんだけどどうしよう、ってあたしに」おにぎり、もぐもぐ、コーヒー、「あたしに相談されてもね。大丈夫ですよきっと、って言ってあげましたけど」おにぎり最後の一口、もぐもぐ、無言。
沿岸にある核熱式魔高炉については、緊急停止に成功したというのを地震直後にラジオで聞いた気がしたが、その後のことは僕はこの時には知らなかった。
「もしほんとにヤバいことになったら、」沈黙に耐えかねたようにオキミが僕に言った。「どうしましょう?」
「そしたら、二人で逃げよう」僕は口から出任せを言った。「あいのとーひこー」
「あはは、そういうの若い子達に言っちゃダメですよ
ほんとにヤバいことになったと知ったのは、翌朝早朝だった。
医院から魔高炉までは一里もない、早急に避難用のバスを手配する、と役所から連絡はあったが、本当にただの観光バスのようなものが院の駐車場に入ってきたときには頭を抱えた。寝たきりの患者が何十人もいるのに、どこかで伝言ミスがあったのだ。
重篤な患者に合わせた
バスに詰め込む荷物がどうにかまとまった頃だったから、昼は過ぎていたろうか。
魔高炉の方角から重々しい爆発のような音が聞こえたとき、オキミと僕とは本来患者を乗せるストレッチャーで無理矢理にバスへの積荷を運んでいた。二人で顔を見合わせて、見合わせた顔で同じ音を聞いたことを知った。
ストレッチャーで三往復ほどしたころ、みぞれ混じりの曇り空から、明らかに雪でも雨でもない、何か黒い灰色のふわふわしたものが降りだした。念のためとポケットに入れておいた核熱線量計が、警告音を鳴らし始めた。
「あたしたち、もう終わりですね」震える声で泣き笑いながらオキミが僕に言った。
「二人で逃げようか」僕は言っていた。そう言う自分の声は、妙に重くて優しくて、まるで冗談には聞こえなかった。オキミは息を呑んで僕を見つめた。
降りしきるみぞれを、風が横ぞっぽうに飛ばした。まるで寒さを感じなかった。胸の奥が焼けるような心地さえした。
「さぁ、はやく済ませちまおう、患者さんたちが待ってる」僕はそう言って、ストレッチャーをつよく押した。視界のはしで捉えたオキミの顔は、そう言われたことでむしろ、安心しているように見えた。
…車を駐車場に入れて、家の鍵を開けた。
「おかえりー」オキミは朝食を用意して待ってくれていた。夜勤明けには朝食を一緒に食べるのが、なんとなく我が家のルールになっている。淹れたてのコーヒーの、いい匂いがする。
あれから後、何だかんだあったが、僕たちはどうにか、逃げもせず終わりにもならずに、今もここに居る。
「お疲れか?」無言で食卓を見下ろす僕に、オキミが控えめに声をかけた。
「いや、」と僕は応えて、なにか言おうとしたが、何も出てこなかった。
「うん」オキミがエプロンを外しながら席についた。僕も席についた。
「共和国のを、ニュースで見てちょっと、思い出して」
「あぁー、うん、わかるわ」オキミが僕の分のコーヒーを横取りして飲みながら言った。「あなた、今日はもう寝た方がいいかも。コーヒーは貰っとくよ」
「うん」
「食べたらもうおやすみ。シーツ代えといたよ」
「うん」妻の言うとおりだった。今日は何時もの夜勤明けにまして、さらにひどく眠かった。きっとひどい顔をしているに違いない。
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