第百九十四話 予知夢

 この原稿を書いている二〇二二年二月初旬現在、銃刀法の改正により、間もなくクロスボウの所持が許可制になろうとしている。

 よってこれからご紹介する話は、まだクロスボウの所持に規制が無かった頃のものであることを、あらかじめお断りしておく。

 また、それとは別に――。

 今回の話は、過去の「あるエピソード」に目を通していることが前提の内容になっている。その点、ご了承願いたい。


 以前、打ち合わせのため某出版社を訪ねた帰りに、たまたま知り合いのライターさんと出くわしたことがあった。

 Fさんという男性で、時々文芸誌にミステリー小説の書評を書いているかただ。

 そのFさんに誘われて、一緒にファミレスに立ち寄ったのだが、そこで「東君こういうの好きでしょ」と、クリアファイルに挟んだを見せられた。

 一枚の鉛筆画である。

 平凡なコピー用紙の中央に、一人の人物が描かれている。タッチが簡素――と言うよりは、だいぶつたないので、おそらくプロのイラストレーターではなく、素人の手によるものだろう。

「これ、何ですか?」

 僕が問うと、Fさんは眉をひそめて答えた。

「この人、殺人鬼なんだってさ」

「はあ」

 いや、そう相槌は打ったものの、困惑するしかない。

 僕は改めて、絵に描かれた人物を見た。

 野球帽に黒のパーカー、下はジーンズに運動靴という出で立ちである。体型から見て男だろう。顔の輪郭は四角く、眉毛は太く、目は小さい。その他、鼻や唇もだいぶ特徴的な形である。

 絵の技術はともかく、顔はかなり似せて描いているのではないか。そんな気がした。

 男は細身で身長がある。しかし何よりの特徴は、その手に持った物だろう。

 クロスボウだ。

 ――これが凶器なのか。

 Fさんの口にした「殺人鬼」という言葉から、僕はそう考えた。

 クロスボウを使った事件と言えば、決して頻度こそ高くないが、ごくたまにニュースで見かけることがある。そもそもクロスボウ自体、明らかに殺傷能力が高いにもかかわらず、いまだに銃刀法に引っかからないのは、だいぶ問題だと思う。

 それにしても――この絵が僕の好み、とはどういうことだろうか。

 僕の不思議そうな顔を見たFさんは、眉をひそめたまま、こう言った。

「実は、友達から相談を受けてね。何でもそいつ、毎晩自分の彼女が夢を見るんだってさ。で、いつか本当にそうなるんじゃないか……って」

 予知夢よちむ――という言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。


 Fさんの話によれば、問題の夢を見ているのは、彼の小学校時代の友人で、Tさんという一人暮らしの男性だそうだ。

 長らく疎遠だったが、夢のことが気になって、連絡してきたという。どうやらFさんがミステリー絡みの仕事をしていると知って、何か力になってくれるのでは、と考えたらしい。

 いやもちろん、現実のミステリー作家や愛好家が犯罪捜査の役に立つか、と言えば、やや疑問だが……まあそれはともかく。

 Fさんはさっそく、Tさんと久方ぶりに再会し、詳しく話を聞いてみた。

 それによると――Tさんがおかしな夢を見るようになったのは、今の彼女と付き合い出してから、数箇月経ってのことだという。

 ……夢の舞台は、決まって神社の境内である。

 どこの神社かは分からない。記憶にある場所ではない。しかし、必ず同じ神社が夢に現れる。

 時刻は深夜。真っ暗な境内に、光が灯っている。

 その光に照らされて――が佇む。

 野球帽に黒のパーカー。ジーンズに運動靴。手には、クロスボウ。

 そして男は、鬼気迫る形相で何か叫び、クロスボウを構え、撃つ。

 放たれた矢はまっすぐに宙を裂き、その先にいた彼女の胸を貫く――。

 ……夢は、必ずそこで途切れる。

 Tさんはそのたびに飛び起き、寝汗にまみれた体を震わせる。

 こんな夢を、もう何日も見続けているという。

 おかげで、夢の中の男の顔を、はっきりと記憶してしまった。それを目が覚めてから絵に描いたのが、例の鉛筆画だった――というわけだ。

 絵を描き上げた後、Tさんはそれを持って、まず警察に相談に行ったそうだ。

 しかし当然ながら、相手にはされなかった。まあ、「起きてもいない殺人事件の犯人を夢で見た」というだけで警察が動くのなら、その方が法治国家としては心配かもしれない。

 ともあれ――そこで次にTさんが目をつけたのが、ミステリーに詳しいFさんだった、というわけである。


「それで、Fさんは何てアドバイスしたんですか?」

「こんなの、まともにアドバイスできると思う?」

「いいえ」

 僕が即答すると、Fさんは苦笑し、煙草代わりだというコーヒーを一口すすった。

「念のため気をつけろ、とだけ言っておいたよ。彼女を神社に近づけるな、って」

「ちなみにその彼女さんは、何て言ってたんですか?」

「さあ。俺はその人には会ってないし」

 そこで一度会話が途切れる。僕はその間に、ふとある都市伝説を思い出した。

 ――ある女性が帰宅途中の夜道で、見知らぬ男に殺される……という夢を見る。

 その時は「夢でよかった」と胸を撫で下ろすのだが、それから数日後、今度は本当に夜道で、夢にそっくりな男を見かけてしまう。

 恐怖を感じた女性は、すぐに家族に電話し、迎えにきてもらう。これで無事帰れる……と安堵していると、例の男がすれ違いざまに、こう囁いた。

 ――夢と違うこと、するんじゃねえよ。

 もしかしたらこれと同じ類の話なのかな、と僕は何となく思った。

 ちなみに、Fさんにもこの都市伝説のことを話してみたが、「ああそれね」と笑って返されただけだった。さすがに有名な話なので、彼の方でも連想はしていたらしい。

 もっとも、あくまで連想していただけで、本気にしているわけではない。その点Fさんは、超常よりも合理性を優先する人なのだ。

「まあ、何も起きないに越したことはない、としか言いようがないよ」

 Fさんが肩を竦める。僕も同感だった。

 結局この時は、これ以上話が膨らむことはなかった。


 僕のもとにFさんからメールが来たのは、それから二週間ほど後のことだ。

 メールの文面には、こう書かれていた。

『こないだ話したTの彼女が、本当に殺されてしまったらしい』

 思わず我が目を疑った。あの夢はやはり予知夢だった、ということだろうか。

 僕が急いで『何があったんですか?』と返信すると、すぐに向こうから電話がかかってきた。もっとも、Fさんの声にいている様子はなく、至って落ち着いている。

『殺されたと言っても、あくまでTがそう言ってるだけだからね』

 Fさんはそう前置きすると、事の次第を僕に話してくれた。

 それによると――。

 FさんのもとにTさんから電話があったのは、数日前のことだったという。

 鳴り響くコール音に言い知れぬ不安を感じたFさんが急いで出ると、すぐにTさんの震え声がした。

 Tさんは真っ先に、こう告げたそうだ。

『――彼女が、殺された』

 まさに夢のとおりになったのだ、という。

 本当なら一大事である。Fさんは慌てて、詳しい話を聞いてみた。

 ところが、だ。

 そもそもTさんは、彼女の死の瞬間に立ち会ったわけでもなければ、警察から報せを受けたわけでもないという。

 では、いったいどうやって彼女の死を確信したのか。

 それについて、Tさんはこう答えたそうだ。

『もう何日も、あの夢を見てないんだ』

 つまり――今まで毎晩見ていた予知夢が、ある日を境にぷつりと途切れたから、というのが彼の言い分らしい。

 そんな馬鹿なことがあるか、とFさんはすぐに言い返した。しかしTさん曰く、その日から彼女の行方が分からなくなっているも事実だという。

「もし本当に行方不明なら、警察に報せたらどうなの?」

『報せたけど、また信じてもらえなかった』

 Fさんのアドバイスに、Tさんは力なく答えた。

 やはり根拠がただの夢では、悪戯いたずらと思われるのがオチなのだろう。一応話は聞いてくれたとしても、真面目に捜査してもらえるかどうかは怪しい。

 いや、そもそもFさん自身、Tさんの訴えをみにするのは、相当抵抗がある。

「それで、Tはどうしたいの?」

 そう尋ね返すと、Tさんは少し言い淀んでから、こう答えた。

『犯人を捕まえたい。顔は分かってるから――』

「いや、顔だけ分かってても、それがどこの誰かなんて分かるわけないでしょ」

『駄目かな。警察に調べてもらうのは無理でも、あの絵をネットで拡散すれば……』

「それは絶対駄目。下手したら名誉そんで訴えられるよ」

 そう、もし万が一あの絵にそっくりな人物が実際にいて、しかも殺人など犯していないとなれば、相当面倒なことになりかねない。だから滅多なことはできないわけだが――。

 ここでFさんは、今一度悩んだという。

 ――率直に言えば、自分は予知夢の存在など信じていない。だからTさんの話を笑い飛ばすことは簡単である。

 しかし、だ。

 もし予知夢が実在するのであれば、今どこかで一人の女性が殺され、捜査すらされず、犯人は野放しになっている……ということになる。

 それも寝覚めの悪い話だ。

 だったらせめて間を取って、「実際に事件が起きた」という証拠だけでも捜せないだろうか。もし証拠が見つかれば警察を動かせるし、見つからなければ、それはそれで笑い飛ばして終わりにできる。

 そのためには――そう、やはり「特定」が必要なのだ。

 Fさんは考えた末、こんな提案をした。

「なあT、もう一度、絵を描いてみてよ」

『絵ならもう描いたけど?』

「いや、あれだけじゃ不充分だ。俺が知りたいのは、犯行現場だよ」

 もし彼女が殺された神社を特定できれば、そこから犯行があったという証拠を導き出せるかもしれない。

 そのためには、やはり絵が必要なのである。犯人の姿だけでなく、周囲の様子――鳥居や樹々の形、位置、それに彼女の立っていた場所まで、事件の瞬間の全貌を把握できるだけの、正確な絵が。

 Fさんがそれを言うと、Tさんは少し考えてから、『分かった』と答えた。

 ただし思い出しながら描くことになるので、出来上がるまで時間がかかるという。そこで、絵が完成したら改めて会うことにして、Tさんとの通話を終えた。

 その後――Fさんは僕のもとに連絡し、今こうして話している、というわけだ。

 ……話を聞き終え、僕は何とも言い難い気持ちで、「ふうむ」と息を漏らした。

 果たして、Tさんの予知夢は本物だったのだろうか。

 それともFさんの言うように、所詮思い込みなのか。

 結論は、まだ分からない。今はただ、Tさんが描いている絵にヒントが表れることを、祈るしかないのだが――。

「正直、難しそうですね」

『俺もそう思うよ』

 僕とFさんの意見は、あいにく悪い方で一致した。僕達は互いに苦笑し、またいずれということで、電話を切った。


 それから数日経ってのことだ。

 自宅でパソコン作業をしていると、不意にFさんからメールが届いた。

 何かが添付されていると見えて、受信に時間がかかっている。もしやと思い、僕が画面を見守っていると、今度は携帯電話の方が鳴り出した。

 Fさんからだ。『今メール見られる?』と聞かれ、僕は頷いた。

『例の絵が完成したから、東君にも見てもらおうと思って、今メールで送ったとこ。……ただ先に言っておくと、これじゃ神社の特定は難しいね。あまり特徴的な背景じゃないんで。それより――』

 そこでFさんは、軽く言い淀んだ。

 何だろうと思いながら、ようやく受信の終わったメールを開く。

 画像データが添付されている。急いで、中を検めた。

『何だか奇妙な感じの絵になっちゃったんだけどさ。これ、どう思う?』

 Fさんにそう言われ――しかし僕はすぐに答えることができず、ものの数秒固まった。

 頭が真っ白になっているのが、自分でも分かった。

 ……今僕の目の前には、Tさんが描いた絵がある。

 彼が毎晩見続けていたという夢の中の景色が、パソコンの画面に、でかでかと映し出されている。

 そこには、真夜中の神社の境内で女性にクロスボウを撃ち込む、恐ろしい殺人鬼が描かれている――だけのはずだった。

 なのに、だ。

「……Fさん、は何ですか?」

 懸命に声を絞り出し、僕は辛うじて、それを尋ねた。

 絵の中に描かれている、の正体を求めて。

 Fさんは、いささか困った様子で、答えた。

だよ。Tの』


 ……それは、まったくの不意打ちだった。

 そもそも僕がこの事件に関心を持っていたのは、予知夢や殺人鬼といったホラー的な要素に、好奇心を刺激されていたからだ。

 だがそれも、この絵を見た瞬間に、すべて吹き飛んだ。

 この事件の本質は、そこではない。そう分かってしまったからだ。

 僕は――背筋がぞわぞわとうずくのを感じながら、改めて絵を凝視した。

 ……佇む鳥居と樹々。クロスボウを構えた男。宙を裂く矢。

 そして、それに射られる――。

なんですか、これが?」

 うめくように、僕は問うた。すぐにFさんの苦笑が返ってくる。

『変でしょ。Tのやつ、殺人鬼の顔はかなり具体的に描いているし、樹の形や鳥居の位置なんかも、たぶん正確に描写しようとしているんだけど……。なのに彼女だけ、全然

 確かに――絵の中の「彼女」は、まったく正確性を欠いた代物だった。

 顔も髪型も、分からない。背丈も服装も、判然としない。

 まるで、が立っていて、それがまっすぐ飛んできた矢に貫かれている。

 ……すぐに、が脳裏をよぎった。

 しかし一方で、「まさか、ただの偶然だろう」という想いが、その突飛な考えを抑え込もうとする。

『どうしたの、東君?』

 急に黙り込んだ僕に、Fさんが心配そうに尋ねてくる。

 その間にも、僕の目は「彼女」の輪郭をなぞり、そこからある一点に吸い寄せられる。

 足元だ。「彼女」の足元に、何かが小さく描かれている。

 ……鳥居だ。

 神社の境内にあるものとは別の、豆粒のように小さな鳥居――。鉛筆画なので色までは分からないが、おそらく赤だろう。

 それに、そう言えばTさんの夢では、クロスボウの男は、光に照らされて佇んでいた。「深夜の真っ暗な境内」にもかかわらず、である。

 では――

 その疑問を、僕はもっと早くに持つべきだったのかもしれない。

 ……そう、やはりここに描かれているのは、で間違いないのだ。

「Fさん――」

 からからに乾いた喉から絞り出すように、僕は電話の向こうに呼びかけた。

 そして、尋ねた。避けては通れぬ、あの怪異の名を。

「『光る恋人』という怪談を、知っていますか?」

 ……そう言えば、かつてこの話を僕に教えてくれた人が、次の犠牲者として示唆していた男性の名も、「T」だった気がする。

 Fさんは黙っていた。僕は「光る恋人」について、かいつまんで説明した。

 話し終える頃には、すっかり全身が、嫌な汗にまみれていた。

 Fさんが溜め息をつくのが分かった。

『じゃあ東君はこう言いたいわけか。この絵の彼女は正真正銘、ものだ、と』

「はい」

『しかし、それを信じろと言われてもなぁ。俺はこの絵を見て、まったく違う解釈をしたんだよ』

 あくまでミステリー愛好家としての本質は曲げずに、Fさんは言った。

『Tには、――。それが俺の解釈』

「全部作り話だった、ということですか?」

『いや、全部とは言わないけどね。もしかしたら毎晩悪夢にうなされていたのは事実かもしれないし、その悪夢に心底怯えていたのも、演技ではなかったかもしれない。ただ――少なくとも、Tに彼女は存在しなかった。単なる妄想の産物だったわけだ。その妄想と現実を、T自身がごっちゃにしてしまったんじゃないかな』

 そう推理できる理由として、Fさんはいくつかのポイントを挙げた。

 一つ目は、絵の中の「彼女」にディティールが存在しないこと。これは、Tさんの中で「彼女」の具体的なビジュアルが固まっていなかったからではないか。

 二つ目は、絵以外の場でも、「彼女」の具体的な情報が何一つ見当たらないこと。例えば「彼女」の名前や年齢、職業といったものが、Tさんの口から語られたことは、一度もない。

 それに、つい昨日も、出来上がった絵を受け取るためにTさんの家に行ったのだが、そこはな独身男性の住居で、恋人が出入りしていたような形跡はなかったという。

 もちろん、「彼女」の写真が飾られていることもなかった。至って殺風景だったそうだ。

 そして三つ目は、Tさんの通報に対して、警察が一切動かなかったこと。

 たとえ夢の中の殺人劇だけでは無理でも、「彼女と一切の連絡が取れなくなった」という事実があれば、事務的にとはいえ、捜査してくれそうなものである。

 しかしそれもなかった――となると、やはり理由は一つ。通報を受けてTさんから話を聞いた警察が、「彼女」の実在そのものが非常に疑わしい、と判断したからではないか。

 ……以上。Fさんが挙げた理由である。

 Fさんらしい合理的な考え方と言える。もっとも、絵に描かれた小さな鳥居については、特に言及はなかったが。

 しかしそれでも――。

 やはり僕には、「彼女」が「光る恋人」に見えて仕方がないのである。

 ……ただ、もしそうなら、この絵の見方も百八十度変わってくるのではないか。

 ここに描かれている男は、女性をクロスボウで撃ち殺す殺人鬼ではない。目の前の危険な怪異に立ち向かっている勇敢な人物、ということになりはしまいか。

 まあ、どのみちどこの誰かも分からない以上、正解は出ないのかもしれないが……。

「これからどうします? Tさんのこと」

 僕が尋ねると、Fさんは『どうしようもないよ』と素っ気なく答えた。

『せいぜい、この事件のことは早く忘れろ、と言い聞かせるぐらいだね。でもまあ、それでいいでしょ。全部がTの妄想だったにせよ、実は東君の言う化け物絡みの事件だったにせよ――』

 どのみち、もうことなのだ。

 Tさんはもう悪夢を見ない。「光る恋人」は何者かに退され、二度と現れない。

 そう考えれば、この事件はすっかり完結しているのである。

 僕は納得し、「そうですね」と頷いた。いや、内心では、僕達の意見に食い違いが生じていることを気にしてはいたが――それはFさんの方も、同じだっただろう。

 その後僕達は二、三言葉を交わし、電話を切った。

 こうしてこの事件は、ようやく幕を下ろした。

 ……はずだった。


 次に僕がFさんと会ったのは、それから半年ほど後のことだ。

 場所は、都内の有名な本屋街である。そこで毎年おこなわれる大きなイベントに足を運んだ際に、ばったりと出くわした。

 そこで「立ち話も何だから」と、二人で手近な喫茶店に入り、一息ついたところで――僕は気になっていた件を切り出した。

「そう言えば、あれからTさんはどうなったんですか?」

「Tなら、すっかり引き籠っちゃってるよ」

 例によってコーヒーを啜りながら、Fさんはしかめっ面で答えた。

 何でもTさんは、いまだに「彼女」の死を引きずっているらしい。おかげで仕事も辞め、ずっと家の中に籠って、塞ぎ込んでいるという。

 僕は――それを聞いて、胸がざわつくのを覚えた。

 実はここ一週間ほど、引っかかっていることがあったのだ。

「あれからしばらくして、ある人から、奇妙な話を聞いたんです」

 僕がそう言うと、「東君はいつも奇妙な話ばかり好んで聞いてるじゃん」と混ぜっ返された。それは確かにそうなのだが。

「茶化さないで下さいよ」

 軽く言い返しつつ、僕は要点をかいつまんで説明し始めた。

 僕が聞いた奇妙な話というのは、ある大学の先生が体験したものだ。

 その内容が――後から考えると、どうもように思えてならないのである。

 先生の話とは、こうだ。

 ……ある青年が「彼女を殺された」として、ショックで引き籠ってしまう。しかし先生が調べてみると、実際にそのような事件は起きていないらしいことが分かる。先生はこれについて、「もしかしたら、その『彼女』というのは妄想の産物なのではないか」と、Fさんと同じ可能性に至りかけるのだが――。

 問題はこの後だ。先生がさらに調べてみて分かったのだが、実は青年が「彼女を殺された」のと同じ時期に、やはり恋人を亡くしたという男性が複数いたのである。

 そして彼らには、非常に奇妙な共通点があった。それは――。

「Fさん、お尋ねします」

 僕は強張った表情で、Fさんに言った。

「あの絵を受け取る際に、Tさんの家に行ったんですよね? その時、家の中に妙なものが飾られているのを見ませんでしたか?」

「妙なもの?」

「はい。なのですが」

 死んだ彼女の形見だそうです、と僕は告げた。

 Fさんは、しばらく手の中のコーヒーカップを睨みつけ――。

 それからハッとした様子で、視線を上げた。

 目が合う。だがそれを逸らすかのように、彼は突如コーヒーに口をつけ、一気に飲み干した。

「ねえ、Fさん」

 僕がそう呼ぶのと、Fさんが立ち上がるのと同時だった。

「東君、悪いけど、俺はあくまで物事を合理的に考えたい人間なんだ。だから――」

 ――だからこの話は、ここでおしまいにさせてほしい。

 Fさんは申し訳なさそうにそう言って、テーブルの伝票を引ったくるように取った。

 それから立ち去ろうとし、ふと足を止める。そして、僕に言った。

「あのさ、もし深入りしたいって言うなら、Tの連絡先を教えるけど――どうする?」

「……いえ、結構です」

 僕は首を横に振った。こういう時、僕は自分でも呆れるほど、素直に身を引く性分なのだ。

 Fさんは小さく頷き、今度こそ去っていった。


 その後Fさんがどうしたのか、Tさんがどのような結末を迎えたのか、僕は知らない。

 それに正直なところ、「光る恋人」と例のがどのように繋がっていたのかも、はっきりと理解できているわけではない。

 いや、もっと言えば――。

 Tさんはなぜ、あのような夢を見続けていたのか。

 果たして神社の境内で、何が起きたのか。

 また、「彼女」を殺した男は何者で、なぜそんなことをしたのか。

 そして、一連の事件はすべて終わったのか。

 それとも――犠牲者をむしばみながら、これからも続いていくのか。

 ……僕には、何一つ分からないのである。

 だから、これ以上の解釈は、この話を読み終えた皆さんにお任せしたい。

 そう思い、ひとまず筆を置くことにする。

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